書籍目録

「米国船マセドニアン号のジョエル・アボット代将艦長指揮下における1853, 54, 55, 56年の航海記抄録」

(ペリー艦隊)/ (アボット) / 記録者不明

「米国船マセドニアン号のジョエル・アボット代将艦長指揮下における1853, 54, 55, 56年の航海記抄録」

手稿 (1856年記) 記録地未記載

(Perry's Expedition to Japan) / (Abott, Joel).

Abstract Cruise of the U.S.S. Macedonian, the broad pendant of Com. Joel abbot In the years 1853, ./ 54,./ 55 & ./ 56.

(1856). <AB2018100>

Sold

Handwritten manuscript document.

31.5 cm x 39.0 cm (Folded: 19.5 cm x 31.5 cm), Hand written on the both sides of a light blue paper,

Information

ペリー遠征隊第二回来日時の主力帆走艦船を務めたマセドニアン号の航海記録

 本資料は、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による1854(嘉永7)年の再来日時に主力帆走艦船の一隻として臨んだマセドニアン号(U.S.S. Macedonian)の航海記録の抄録手書文書です。1853年4月から1856年8月にかけての、それぞれの出発地と出発日、到着地と到着日、当該航海の距離、要した日時、停泊地と停泊期間、出発地の緯度と経度、を網羅的に記録したもので、この間のマセドニアン号の動きを辿ることができる大変貴重な一次資料です。そして、何より日本との関連で重要なのは、この時期がまさにペリー艦隊の主力船として活動していた時期を含んでいるという点です。

 マセドニアン号は、イギリスの帆船として1810年に竣工され、1812年にアメリカ所有のものとなり、以降はアメリカ海軍船として長きにわたって活用されました。1843年から45年にかけてのアフリカ方面への艦船として用いられた際に、ペリーがその責任者の任にあったという縁もあり、ペリーが日本円遠征隊を率いることが決定した際に、その艦隊に組み込まれることになりました。出発前の1852年に徹底的な改修が行われ、最新鋭の軍備を備えた帆走式戦艦に仕立てられたことで、帆走式戦艦としては当時の世界最高峰の装備を誇る戦艦となりました。そのため、ペリーのマセドニアン号の性能に対する信頼の高さは格別のものであったと言われています。

 そして、ペリーは、このあつく信頼を寄せていたたマセドニアン号の艦長として、当時既に初老の域にあったベテラン海軍士官アボット(Joel Abbot, 1793 - 1855)を指名しました。ペリーとアボットとは既にともに業務を遂行した経験があり、彼の資質を高く評価しており、「困難で苦労の伴う状況下にある課題を最短時間で遂行することを必要とする際は、常に彼を送り込んだ」と語ったとも言われています(James Tertius de Kay, Chronicles of the frigate Macedonian 1809-1922.Neew York: W. W. Norton & Company, Inc.,1995, pp.253)。

広げると、31.5 cm x 39.0 cm の大きさ。右面に上記の情報が、左にタイトルが書かれている。
裏面。表面の続き。

本資料における日本関連情報を特に見てみますと、下記のような情報を得ることができます。

1854年
1月31日
琉球(Loo-Choo)発、北緯26.05度、東経128.18度

2月13日
江戸湾(Ieddo Bay)着、航海距離1400マイル、所要時間13日10時間
江戸湾停泊、停泊期間13日16時間

2月27日
江戸湾発、北緯35.32度、東経135.33度

2月29日
横浜(Yokohama)着、航海距離9マイル、所要時間1日3時間
横浜停泊、停泊期間40日22時間

4月10日
横浜発、北緯35.40、東経135.33度
江戸湾着、航海距離9マイル、所要時間1日7時間
江戸湾停泊、停泊期間13時間

4月11日
江戸湾発、北緯35.32度、東経135.33度

4月20日
小笠原諸島(Bonin Id.)着、航海距離852マイル、所要時間9日9時間
小笠原諸島停泊、停泊期間8日4時間

4月28日
小笠原諸島発、北緯27.05度、東経142.11度

5月2日
下田(Simoda)着、航海距離581マイル、所要時間4日0時間
下田停泊、停泊期間3日12時間

5月6日
下田発、北緯35.40度、東経140.00度

5月11日
函館(Hackadadi)着、航海距離723マイル、所要時間5日5時間
函館停泊、停泊期間19日8時間

5月31日
函館発、北緯41.32度、東経140.04度

6月11日
下田着、航海距離1204マイル、所要時間11日13時間
下田停泊、停泊期間14日12時間

6月26日
下田発、北緯35.40度、東経140.00度

7月11日
台湾(Formosa)着、航海距離1771マイル、所要時間15日5時間

上記解説該当箇所の拡大。左から順に出版地、出発日、到着地、到着日、航海距離、所要時間、停泊地、停泊期間、出発地の経度、緯度、が記されている。

上記のように、航海上の具体的な数字を看守することができ、現存する他の資料を補完することで、非常に有益な情報を得ることができます。

 よく知られているように、最初の琉球を発ってから、2月13日の江戸湾到着までの間に、マセドニアン号は航路を誤ったことにより不幸にも江戸湾進入時に座礁してしまっています。2月13日の江戸湾到着後からは、交渉地を巡って日米の激しい交渉があり、約2週間後にようやく横浜での交渉が決まったことを受けて、マセドニアン号は2月27日に横浜に向けて江戸を発っています。マセドニアン号艦長アボット自身は、会談には参加しませんでしたが、日本の絵師によってその肖像画が他の主要使節とともに残されています。また、この江戸停泊期間中に、日本側の使節がマセドニアン号の艦内に招かれて、内部の様子を見学したことはよく知られています。条約締結後は、マセドニアン号は、上記の航海記録から分かるように、下田や函館、小笠原諸島といった将来的にアメリカにとって要所となると思われる各地の測量業務に当たっています。その後、アボット率いるマセドニアン号は、下田を発って日本を離れ台湾に向かいますが、アボットがペリー後任の東インド艦隊司令官となったため、香港など東アジア海域にとどまり、アボット自身は同地において亡くなりました。

裏面の航海表下部には、「総停泊期間、2年と2ヶ月23日、総航海時間、1年と1ヶ月と1日、総航海距離、48,447マイル、死者数、26名」と記されている。

 本資料は、両面に書き込まれたわずか1枚の手書の記録文書ですが、ペリー艦隊の主力帆走艦船として大きな役割を果たしたマセドニアン号の活動を伝える、他に得ることのできない極めて重要な一次資料と言えるものです。

表面左に書き込まれたタイトル。