書籍目録

「落梅」(楽譜)

ディットリヒ(横浜ドーリング商会)(ブライトコプフ)

「落梅」(楽譜)

1900年頃?(1895年以降) ライプチヒほか刊

Dittrich, Rudolf.

Rakubai. Fallende Pflaumenblüthen (Falling Plum Blossoms). Japanisches Lied mit Koto (Japanese Song with Koto). für Klavier bearbeitet (arranged for the Pianoforte)

Leipzig, Brüssel, London, New York, Breitkopf & Härtel (Sole Agent for Japan, China & Hongkong: J.G.Doering, Yokohama), 1900? (after 1895). <AB201883>

Sold

27.2 cm x 35.7 cm, Musical Score: pp.1-3, Original pictorial paper wrappers.

Information

東京音楽学校の御雇外国人ディットリヒによる和洋折衷音楽の試み

ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちください。

「ルードルフ・ディットリヒ(Rudolf Dittrich, 1861〜?)は1861年4月25日にオーストリア・ハンガリア国ガリチア地方のビアラ村に生まれた。ピアノを5歳のときから、ヴァイオリンを7歳のときから、パイプ・オルガンを9歳のときから、楽理を15歳のときから学んでいる。15歳で普通の高等教育を受けるためにドイツのブレスラウへ赴いたが、そこでも音楽の修行は続けられた。そのうち専門の音楽家になる意志が強くなり、また彼が指導を受けた音楽教師たちも彼が音楽家になることを全面的に賛成したので、1878年にウィーンへ出てウィーン音楽院に入学し、そして1882年に卒業している。ウィーン音楽院では、有名な弦楽四重奏団の主催者でもあったヘルメスベルガーから学び、オルガン、和声、対位法をブルックナー、クレン両教授から教えられ、ピアノをシェンネリー教授から習得した。そして、最終学年のときヴァイオリン一等賞、オルガン一等賞を受賞し、さらに卒業に際しては成績優秀のため銀賞を授与されている。
 翌1883年暫時軍務に服したが、その後もっぱら音楽活動を始め、また日本からの帰国後は一時ヘルメスベルガー弦楽四重奏団のヴィオラ奏者になっていたこともある。また当時明立たる指揮者のハンス・リヒターが主催していたウィーン音楽協会の演奏会でオルガン奏者として活躍していたこともあった。このような経歴からみてもわかるとおり、彼は世界の音楽首都ウィーンでも華々しい活動を行なっていた優秀な現役演奏家の一人であったに相違ない。そのような人物が音楽の上でも全くの未開国であり、また国としてもようやく世界への門戸を開いたばかりの東洋の小国の招聘に応じて来日することになったのは、何かの理由あってのことだとしか考えられない。当時のわが国楽界の実情からすれば、いささかそぐわないという感じがしないでもなかったようだ。しかし、それだけこの有意な人物が新興日本の真の意味での芸術音楽交流に尽した功績は甚大だったといわねばなるまい。
(中略)
 ディットリヒが在任中東京音楽学校を中心として、楽界に活躍した範囲は多方面にまたがっている。音楽学校では優れた教師として実績を上げたが、特に従前のごとく単なる義務教育学校の唱歌教師を育成するのを主眼としたのではなくて、芸術的な活動を行いうる音楽家をつくるところに重点が置かれたのである。もちろん、それは彼自身一介の教師である以上に卓越せる技術を身につけていた演奏家であったからでもあった。彼が音楽学校在職中に指導した日本人生徒には後年わが楽界にさまざまな面から貢献した有能な人物がいる。幸田延をはじめとして橘糸重、頼母木こま、山田源一郎、鳥崎赤太郎、北村季晴、田村虎蔵、幸田(後の安藤)幸、永井幸次などはいずれも彼の薫陶を受けた門下生だった。彼らが明治、大正の後代にいたるまで演奏、作曲、教育の面でそれぞれ足跡を遺していることは、今もって人の知るところである。」

「ディットリヒは『小学唱歌集』や祝日、大祭日用の唱歌に和声付けを行なって、わが国で作られた音楽にも直接関係をもつ境遇に置かれたので、自然、われわれの伝統音楽にも興味を抱くようになっていった。その点は前任者のエッケルとと類似している。したがって、彼が西洋音符に編曲した邦楽は数曲ある。「ぼんおどり」、「あんまさん」、「梅は咲いたか」、「浮世ぶし」、「ちょんきな」、「ままのてこな」のような俚謡、箏曲「落梅」(本資料のことと思われる;引用者註)の編曲はそれである。そのほか、日本音楽の研究論文まで書いた。そのあるものは『日本楽譜 'Nippon Gakufu, Sechs Japanische Volkslieder von Rudolf Dittrich'(「琉球ぶし」「さくら」「権兵衛種時」「田植唄」等6曲)となって出版されている。これらは海外へ日本音楽を紹介する目的のためだったのである。」
(野村光一『お雇い外国人⑩音楽』鹿島研究所出版会、1971年より)


「ディットリヒの日本音楽理解は西洋音楽を基盤としたものであった。しかし、演奏家・教育者として日本音楽に接し日本の歌を集めてその音階を研究した彼は、音楽家として日本音楽の性質をよく心得ていた。『日本楽譜』(ディットリヒが帰国後1894年頃に刊行したNippon gakufu: sechs japanische Volkslieder: six Japanese popular songs. Leipzig: Breitkopf & Härtel.のこと;引用者註)では日本音楽の特徴を考慮に入れて新たな試みを示しながら、西洋的な和声の中に日本の旋律を嵌め込もうとした。そうでなければ日本の旋律が当時の西洋に受け入れられることはなかったであろう。19世紀末の日本の旋律を「ヨーロッパの音楽の友のために鑑賞に耐えうる」ように編曲できたのはディットリヒをおいて他にはいなかった。『日本楽譜 I』の「地搗歌」と『日本楽譜 II』の「はうた」はプッチーニ(Giacomo Puccini 1858-1924)のオペラ『蝶々夫人』(1904)に引用されている。西洋音楽を日本に伝えるために来日したディットリヒは、日本の旋律に和声をつけて西洋に伝えた。ディットリヒの功績はただ日本での演奏・教育活動のみにあるのではない。日本音楽を研究し、日本の旋律を西洋人にも理解できるように自分のフィルターを通じて翻訳し西洋に伝えたことも見逃してはならない。ディットリヒは日本音楽という異文化を自文化である西洋音楽の枠組みで理解しようとしたが、理解しようとする姿勢、わかりやすく西洋に伝えようとする姿勢は音楽家として真摯なものであった。日本音楽は西洋音楽の枠組みに収まるものではないが、ディットリヒが伝えた日本音楽が半ば西洋化されたものであったからこそ、それは20世紀初頭の西洋に受容され、西洋の音楽作品に影響を与えたのだと思われる。」
(釘宮貴子「ルドルフ・ディットリヒの日本音楽研究 : 明治20~30年代の西洋人による日本音楽理解」 『多元文化』第17巻、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 、2017年所収より)

 「これまで言及されてこなかったドーリング商会のもう一つの重要な側面は、楽譜商としての活動である。雑誌広告には楽器の宣伝しか見られないが、ドーリング商会は楽器の輸入販売にも力を入れていた。
 たとえば東京音楽学校はドーリング商会から数多くの楽譜を納入していた(中略)
 それらの楽譜の多くを占めているのが、1719年に創設されたライプツィヒの楽譜出版社、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社 Breitkopf & Härter(以下、ブライトコプフ)から出版された楽譜である。(中略)
 ドーリング商会とブライトコプフとの最初のコンタクトは、実は楽譜の輸入に関してではなかった。1893年に端を発する両社の書簡は、お雇い外国人として東京音楽学校で教鞭をとったルドルフ・ディットリヒ Rudolph Dittrich(1861〜1919)の《日本楽譜-6つの日本民謡 Nippon Gakufu: Sechs Japanische Volkslieder》の出版をめぐるものから始まったのである。この日本民謡にディットリヒがピアノ伴奏をつけた楽譜は、ドーリング商会が日本、中国、香港の販売特約店となっており、1894年の出版に先立ち約1年間頻繁に連絡を取り合っている。この曲集は、ライプツィヒ大学の音楽学の教授フーゴー・リーマン Hugo Riemann(1849〜1919)が、当地で1902年に「日本音楽について」と題した講演を行なった際にも実例として演奏されたほど、ドイツでも知られた曲集であった。そこにドーリング商会も販売だけでなく制作過程から積極的に関わっていたことは興味深い事実である。この曲集は好評だったようで、1903年ブライトコプフは「日本音楽に関して、私たちはディットリヒの作品のよい点を十分理解しています。もしもこのような領域の新しい作品をお送りくだされば、喜んで出版いたします」と伝えている。
(越懸澤麻衣「明治期の横浜外国人居留地を通した洋楽受容: ド ーリング商会の活動を中心に」『洗足論叢』第46号、洗足学園音楽大学、2018年所収より)