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ザネッティ版 1585年 ローマ刊
Tucci, Stephano(Etienne).
ORATIO IN EXEQVIIS GREGORII XIII. PONT. MAX.
Roma, Franciscum Zanettum, M.D.LXXXV. <AB201876>
Sold
8vo? (15.0 cm x 21.5 cm), pp.[1(Title), 2], 3-12, Modern card boards.
Information
本書は、天正遣欧使節が謁見を果たした直後に崩御したグレゴリオ13世に対して捧げられた在位中の事績を讃える祈祷文です。教皇がなし得た多くの事績の中にアジア宣教の支援と日本の使節来訪についても触れられています。教皇が崩御したのちの5月15日付となっており、何らかの儀式において読み上げられたものと思われ、この時天正遣欧使節の一行はまだローマに滞在していましたので、あるいはこの祈祷文を目にする(耳にする)機会があったかもしれません。 グレゴリオ13世は、イタリアのボローニャ出身で同地の大学で法学の教鞭を執っていましたが、その優秀さが認められローマに招聘されました。得意とする教会法に関する実務をこなしながら枢機卿に選出され、カソリックの対抗宗教改革の基本方針を定めたトリエント公会議(1563年)にも出席しています。1572年に新教皇となり、グレゴリオ13世を名乗り、以降様々な教会改革を実行していきました。トリエント公会議の決議事項を基本方針とし、禁書目録の作成や、不在司教問題の改善策、教会法の整理、改訂、編纂を行い、中でも現在なお世界中で用いられている「グレゴリオ暦」の採用は、グレゴリオ13世による施策として最もよく知られているものでしょう。また、学問活動にも深い関心を寄せ、ヨーロッパ各地の神学校の整備にも尽力しています。 日本との関係でグレゴリオ13世が最も強く記憶されている出来事は、天正遣欧使節がローマを訪ねる最大の目的の一つであった教皇との謁見が行われたことでしょう。グレゴリオ13世はイエズス会の世界各地への宣教活動を積極的に支援し、彼らの東西インドにおける宣教活動権の承認や、日本において各種神学校を維持、設立するための資金提供、そして最晩年の1585年には日本における宣教活動の独占権をイエズス会に付与しています。天正遣欧使節の4人は、有馬のセミナリオで教育を受けていたこともあり、1585年3月に行われた使節との謁見では、当時の西欧諸国における大使級の待遇でもって行われました。この出来事は、当時のヨーロッパでも一大センセーションを巻き起こし、その様子を伝える書物が70以上も出現したと言われています。謁見の直後に教皇が崩御したこともあり、天正遣欧使節とグレゴリオ13世との謁見は、教皇治世最後のハイライトとしても深く記憶されることになりました。 本書の著者であるトゥッチ(Stephano or Etienne Tucci, 1540 - 1597)は、1540年 スペイン北部モンフォルテ出身の神学者で、イタリアシチリア島北部の街メッシーナに学んだあと、同地で修辞学を教えるようになり、パドヴァ、ローマで神学教授として教鞭をとりました。彼によるグレゴリオ13世に対する弔辞祈祷は、同種の代表的なものとして1585年にローマで複数刊行されただけでなく、パドヴァでも刊行され、また後年になっても繰り返し各種の文献に転載されたようです。本文わずか10ページほどの小著ですが、グレゴリオ13世崩御直後の事績に対する評価を理解する上で、天正遣欧使節と関連の極めて深い教皇の伝記的資料として利用できるものと思われます。また、本書はイエズス会による出版物の多くを手がけたローマのザネッティによって出版されている点も重要ですが、いずれの版出会っても小著であるがゆえに現存数は決して多くないものと思われ、版を問わず国内研究機関での所蔵は確認できないため、その点でも貴重な資料と言えそうです 「グレゴリウス13世は、本名ウーゴ・ブオンコンパーニ。ボローニャ生まれのウーゴは、その地にあるヨーロッパ最古の大学で法学を修めた。早く教皇庁に招かれて、教会法に関わる業務に従事する。歴代の強行によって重用され、折から開催されたトリエント公会議にも参画。ヴァチカン官僚として辣腕をふるった。宗教上の達人というよりは、カトリック教会の制度的管理者の趣がまさるのは、危機の時代のあきらかな兆候である。1572年5月、先任の教皇ピウス5世の死去をうけて、教皇に選出される。ただちにとりくんだのは、トリエント公会議の決定を現実に移すことだった。聖職者たちの倫理と義務の正常化をもとめ、厳格な粛清を断行。会議の決議にもとづいて、教義に反する書籍の排除をめざし、禁書目録の制定を督促する。のちの批判もかまびすしい禁書目録はこうして誕生した。 あいついで取り組む改革のうちでも、とびきり重要な課題があった。長らくにわたってキリスト教会を悩ませてきた暦制度の精査である。すでにその時点で10日ほども天体運行の現実との誤差を生じていた暦の再検討を命じる。当時の最高の天文学者であったイエズス会修道士クリストフ・クラヴィウスほかを委員に任じて、解決法を模索した。 暦の変更というとてつもない措置は、教皇の権威を背景としないかぎり不可能であろう。さらに深まる混乱を防止すべく、教皇は決断をくだした。1572年10月5日を、同月15日に置き換え、また閏年の設定法にも微調整をくわえた。かつて古代ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の権威にもとづいて制定されたユリウス暦は、この時に使命をおえて改訂され、あらたに教皇の名をとってグレゴリー暦とよばれることになった。いうまでもなく、21世紀現在の暦制度の出発である。 暦の改訂とならんで、教皇グレゴリウスの改革として記憶されるのは、教会内の高等教育の制度である。教義と法政という両輪は、カトリック教会の対抗宗教改革の核心でなければならない。それの定着のために教皇が着目したのは、イエズス会が取り組む教育制度である。教皇直属の機構を創設。イエズス会がローマに設けたローマ学院を公認し、また困難に直面する地方・諸国にも新設をもとめた。世界各地にカトリック教会の研究施設がうまれた。中核となるローマ学院はのちに教皇の名をとって、グレゴリアン大学と改称され、21世紀の現在でもローマに健在である。 そのグレゴリウス13世にとって、イエズス会とともにみずからが奮励して送り出した巡察使が企画した日本人信徒の使節団が到来したことは、疑いもなく快挙というべきだ。カトリック信仰がはるか東方の日本にまで及び、その地の政治支配者から懇切丁寧なメッセージが寄せられる。少年使節の姿は、ローマで大きな感動をもよおしたであろう。使節たちは教皇から労いの言葉と祝福を受け、喜悦に涙したに違いない。 ただし使節団にとって想定外の事態が生起する。謁見からわずか18日後の4月10日、グレゴリウス13世は急逝する。13年間の在位、83歳の高齢ではあった。ただちに執行された次期教皇選挙でシクストゥス5世が選出される。少年使節たちはこの選挙会合(コンクラーヴェ)を目撃し、あろうことか新教皇への拝謁も許されるという幸運を享受することになる。遠方から到来した異邦人にとって、望外の展開が面前でくりひろげられたわけである。」 (樺山紘一「ローマ、少年使節の都にて」池上英洋責任編集『遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア』東京富士美術館、2017年所収より)