書籍目録

(アメリカ議会文書)(神戸事件)(戊辰戦争)「1868年1月から5月にかけての日本帝国における出来事に関する国務長官報告を伝達する大統領教書」

ファルケンバーグ他

(アメリカ議会文書)(神戸事件)(戊辰戦争)「1868年1月から5月にかけての日本帝国における出来事に関する国務長官報告を伝達する大統領教書」

1868年 (ワシントン刊)

Valkenburgh, R. B. Van / 40th Congress, 2d session. [Senate] Ex. Doc. no. 65.

MESSAGE OF THE PRESIDENT OF THE UNITED STATES, COMMUNICATING A report from the Secretary of State, in relation to recent events in the empire of Japan.

(Washington), No publisher stated, MAY 25, 1868.-Read and referred to the Committee on Foreign Relations. JUNE 16, 1868.-Ordered to be printed. <AB201720>

Sold

pp. [1]2-46, [1[-2, Disbound. extracted from original bound volume.
本文のみの未装丁の状態。

Information

明治政府最初の外交問題「神戸事件」を伝える米公使報告

 本書は、今からちょうど150年前の国内政治状況の混乱が頂点を迎えた時期に、日本に在留していた第3代アメリカ公使ファルケンバーグ(Robert B. Van Valkenburgh)が、1868年2月から5月にかけて本国に当てて送った日本の状況を報告するレポート、並びにそれに関連する日米双方の文書をまとめたものです。アメリカ国務省長官から時の大統領ジョンソンに提出された公文書として、1868年6月に印刷されています。
 
 ファルケンバーグは、1866年から1869年まで在日アメリカ公使を務めていた人物です。幕末動乱期の日本を実見した外国要人の一人として、本資料でも緊迫した国内情勢を伝えています。8本収録されているファルケンバーグからの報告のうち、5本が1868年2月に出されたもので、その直前に発生した戊辰戦争と混乱する日本の政治状況、そして明治新政府にとって最初の外交問題となった「神戸事件」について詳しく報告しています。

 「神戸事件」とは、今ではあまり知られていませんが、明治新政府が、幕府に代わって外交主権を代表する当事者として初めて対応を余儀なくされた外交事件で、日本の近代外交史にとって極めて重要な意味を有する事件です。この事件は、明治政府による出兵要請を受けた備前藩が、海外列強諸国に開港したばかりの兵庫を通過する際、行列を横切ろうとしたフランス人と小競り合いとなり、そこから居留地予定地の見聞中であった列強公使への発砲が偶発し、列強諸国との銃撃戦、神戸の列強諸国による占領という深刻な事態をもたらしたものです。この事件は、列強諸国からの極めて強い反発を惹起し、ようやく戊辰戦争によって政権を確立しつつあった明治新政府にとって極めて慎重な対応が求められることとなりました。そもそも、この事件が勃発した1868年2月4日時点では、外交主権が旧来の将軍による幕府側にあるのか、あるいは天皇を擁立した明治政府側にあるのかが定かではなく、列強諸国に対して、日本の外交主権が明治政府にあること、並びに列強諸国と友好関係を持つ意思があることを正式に宣言する(2月8日)ことから、対応しなければなりませんでした。

 備前藩がとったフランス人に対する制止要請と威嚇は、当時国内で効力を有していた武家諸法度において、大名行列の横切り(いわゆる共割)に対する行動として合法的なものでしたが、列強諸国側にとっては開港したばかりの兵庫に在留する外国人の安全保障に対する重大な侵害行為として受け止められ、日本側の事件当事者に対する厳しい処罰要求と補償とが、明治政府に対して突きつけられることになります。国内において合法であった行動、しかも主君のためにとった行動で、一人の死者も出していないにも関わらず、当事者を処罰(すなわち切腹させる)することに対しては、国内において相当の反発がありましたが、ようやく政権を確立したばかりの明治政府にとって、列強諸国との深刻な衝突は何としても避ける必要があるとの思惑、並びに外交主権者としての自身の地位と方針を明確にする必要から、基本的に列強諸国側の要求を受け入れ、備前藩の護衛部隊を率いていた滝善三郎の列強諸国立ち会いのもとでの切腹を行うことで、この事件を解決しました。結果的に滝善三郎の死によって、明治政府は外交主権者としての地位を列強諸国から認められ、また開国和親の立場を明確にすることで、信頼に足る主権者としての承認を列強諸国から得ることに成功しました。

 ところが、この「神戸事件」は奇妙なことに、事件勃発当時から、その詳細についての情報が極めて錯綜しており、負傷者数やその国籍、事件の推移といった基本的な情報についても一致を見ておらず、しかもそれぞれの情報が錯綜したまま後代に伝えられることになりました。様々な小説や年表、郷土史において言及されているにも関わらず、死者が発生したことになっていたり、その国籍がアメリカ人であったり、日本側が無差別発砲を行なったことがことの発端となっていたりと基本的な情報が混乱して伝えられています。また、日本側の公文書でも、日本側から攻撃を理由なく行なったことのように記録されており、混乱に拍車をかけています。おそらくこれは、対応当事者であった明治政府にとっても、詳細を明らかにすることよりも、その対応の正当性を内外に示すことの方が、記録する際の重要な点であったことによるものかと思われます。その意味では、この「神戸事件」は、近代日本史において意図的に封じられた面も有する事件と言え、改めて客観的に評価される必要のある事件なのかもしれません。

 こうした国内の記録に対して、もう一方の当事者であった列強諸国側でも、この事件に対する報告を各国が行なっており、それらは一様に外国人に対する日本人の敵意に端を発するいわゆる「攘夷事件」としてこの事件を扱っています。その中でも、本書であるアメリカの報告は、極めて詳細に事の推移を報告しており、そのスタンスの如何はともかくとして、事件当事者の当時の事実把握状況と認識を知るための基本資料としては極めて有用と思われるものです。本資料は、明治政府側の対応者であった東久世通禧によって列強諸国に提出された日本側文書の英訳や、列強諸国側が連名で明治政府に提出した文書なども合わせて収録している点も見逃せません。また、この報告書は幕末から明治の動乱期全体の文脈の中で「神戸事件」を取り扱っており、その点では「神戸事件」が列強諸国側にとってどのような文脈において受け止められていたかということも浮き彫りにしており、大変興味深いものです。

 本書は、50頁にも満たない小冊子ではありますが、現代日本の外交の原点を再評価するにあたって、極めて重要な意味を持つ資料と言えるのではないでしょうか。
 
 なお、神戸三宮の大丸近くにある三宮神社では、現在でも「史蹟 神戸事件発生地」と記された史石碑が立っています。


 「新政府が(西洋列強諸国にとって;引用者注)承認すべき政権たりえるかどうかを判断するにあたり、鳥羽・伏見の戦いから数日後、正月11日に勃発した神戸事件は、新政府に対する試金石となった。岡山藩兵が兵庫居留地で外国人へ発砲し、外国側がただちに港内の日本戦を拿捕し、一帯を占拠した事件である。
 正月15日、勅使東久世通禧らが、新政府としてはじめて6カ国公使と応接した。事件の早期解決を誓い、列強の要求に応じて「調義の上断然和新条約取り結ばせ候」と、外国和親の布告を発布したのである。ここでは、「外国交際の儀は宇内の公法を以って取り扱いこれ有るべく候」と、国際法に基づく外交を行うことが宣言されていた。
 この神戸事件は、岡山藩主が従わなければ「御征討」もありうると新政府から強く迫り、現場の指揮官を切腹させるなど、外国側の処罰要求に応えるかたちで決着した。その後、相次いだ堺事件、パークス襲撃事件などでも迅速な犯人処罰を行い、新政府は条約諸国の信頼を得ることに腐心している。(中略)
 新政府の対応は旧幕時代に比べても迅速かつ徹底していた。2月27日、外国和親の諭告が発せられ、さらに3月15日、五榜の掲示(第4札)により、外国交際は朝廷が直接に取り扱い、「万国の公法を以って条約御履行在らせられ候」と布告した。同時に、外国人に対する傷害事件は、史籍を剥奪して重科に問うことまで宣言したのである。」
(保谷徹「国際法のなかの戊辰戦争」箱石大編『戊辰戦争の新視点 上』吉川弘文館、2018年所収、6,7頁より)