書籍目録

『旅行記三部作』( 「東方旅行記」 「ポルトガル人東方旅行記」 「アフリカ・アメリカ地誌」)

リンスホーテン

『旅行記三部作』( 「東方旅行記」 「ポルトガル人東方旅行記」 「アフリカ・アメリカ地誌」)

仏訳第3版 1638年 アムステルダム刊

Linschoten, Jean Huygen van.

HISTOIRE DE LA NAVIGATION DE IEANHVGVES de Linschot Hollandois: Aux INDES ORIENTALES…Avec annotations de B. PALUDANUS,… Troixiesme edition augmentee.

Amsterdam, Evert Cloppenburgh, 1638. <AB2018LhF3>

Sold

Third edition in French.

Folio.(18.5 cm x 30.0 cm), 3 parts, 4 books in 1 vol. 3 engraved title pages, (Histoire); 4 unnumbered lvs., 206 pp., (Routier de Mer); 2 unnumbered lvs., 182 pp., (Description de l Amerique); 1 unnumbered lf., 86 lvs, Contemporary calf with gilt epilibris Coat of Arms on back cover.

Information

オランダ語原著のテキスト、図版を忠実に翻訳したフランス語訳決定版

 本書は、新興国オランダの東方進出への大きな契機となったことであまりにも有名な、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)の「東方旅行記」を含む『旅行記三部作』をはじめて完全にフランス語に翻訳した仏語訳第2版の再版となる第3版です。フランス語への翻訳版は、1610年に刊行されたものが最初ですが、これは後述するように多くの省略や不備があったため、実質的な完全訳版としては本書が底本とした第2版が最初のものとなります。

 著者のリンスホーテンは、オランダ北部ハーレムの出身で港町エンクハイゼンで貿易船宿を営んでいた両親の影響で、幼い頃から遠い海外の国々や世界に関心を持つようになりました。海外世界への関心は次第に強くなっていき、当時大航海時代を牽引していたスペイン、ポルトガルでなら海外へと渡るチャンスを得られるのではないかと考えたリンスホーテンは、1579年末に兄弟の住むスペインへと渡り、セビーリャでスペイン語を、リスボンでポルトガル語を習得し、1583年にインドのゴア大司教に新しく任命されたフォンセッカ(João Vicente da Fonseca, 1530? - 1580)の書記として、ついにゴアへと向かう機会を得ることに成功しました。1583年から1588年にかけての5年余りゴアに滞在したリンスホーテンは、ポルトガルによるインド貿易の中心地であった同地においてあらゆることに関心を示し、幅広い人々から聞いた話、自らが観察した同地の文化、風習、宗教、地理、自然等々をくまなく記録、スケッチして絶え間なく調査を行い、これらの調査が本書執筆の基礎となりました。1592年に故国に帰還したリンスホーテンは、これらの調査結果の整理、推敲に取り掛かり、「東方案内記」「ポルトガル人航海誌」「アフリカ・アメリカ地誌」からなる『旅行記(イティネラリオ)三部作』を1595年から1596年にかけてアムステルダムで刊行しました。

「彼の旅行記は帰国後早々に執筆せる ”Itinerario” におさめられ1594年10月8日付にてオランダ議会から出版の允許を得、出版を完了したのは1596年の始めであった。この旅行記は三部分より成り、
 第一部は Linschoten の旅行記そのもので本文の間にイタリックで書いた部分は Enckhuizen の名医で学者、旅行家の Bernard te Broecke(ラテン式には Haludanus という、1550-c.1634)の挿入した文である。
 第二部は第一部より先き1595年に刊行された。これは彼が Goa にて熱心に輯集したスペイン・ポルトガル人の航海記により訳せるインド、南洋、アメリカなどの航路に関するもので、特に委しく Malacca 以来、Malay Archipelago, 中国沿岸、日本などへの航路を記述し、附録としてスペイン語より訳した、スペインの領土、財政、軍事等及びポルトガル王室の起源を加えた。これが直接オランダに利益したのみならず、本書の公刊により従来秘密にせられていたスペイン・ポルトガルの東洋に於ける植民政策の脆弱・腐敗を暴露しオランダ・イギリスの進出を招来し、やがてスペイン・ポルトガルの東洋に於ける政策を破綻に導くに至った導火線の役目を果たしたものである。
 第三部はアフリカ東・西岸の概略とアメリカの細説とがある。則ちCongo は Lopez、アメリカは Peter Martyr と Oviedo、Brazil はJean de Lery などの先人の記事を利用し Paludanus の助力により編したものである。」
(中村拓『鎖国前に南蛮人の作れる日本地図 II』東洋文庫、1966年、352頁より)

 中でも「イティネラリオ(旅行記)」と題された「東方案内記」は、リンスホーテン自身による航海記の形を取りつつも、マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1533- 1603)、メンドーザ(González de Mendoza, 1545 - 1618)、グアルティエリ(Guido Guartieri, ?-?)といった、イエズス会士の著述家によるインド地域についての最新情報を駆使して、東インド地域に関する当時最良の知見をオランダに広めたことに貢献したことで高く評価されています。ゴアをはじめとした南アジア、東南アジア、中国、そして日本に関する地誌、動物、植物、産物(鉱石、香辛料、薬草など)について網羅的に記述しており、これまでポルトガルとスペインのごく限られた人々しか知ることができなかった情報を惜しげも無く披露しているだけでなく、自身の記述に一層の正確さを期すために、同時代の傑出した博物学者であったパルダヌス(Bernardus Paludanus, 1550 - 1633)に注釈を依頼し、本書の価値を比類なきものにまで高めています。その内容は、「かれが自らインドに赴いた際の見聞を元にして記したものであり、その内容はだいたい、(1)ヤン・ハイヘン自身の旅行記、(2)かれがイベリア半島、ゴア、テルセイラ等で遭遇した事件、(3)インド、東南アジア等の歴史的、地理的叙述、さらにまた(4)商業案内的要素(リンスホーテン / 岩生成一ほか(訳)『リンスホーテン東方案内記』岩波書店、1968年所収「解説」33ページ)で構成されています。同翻訳書解説に従って、本書のおおまかな構成を記すと下記のようになります。

・オランダ出発からポルトガルでの滞在時の出来事(第1章〜第2章)
・ポルトガル艦隊でのインドへの出発(第3章)
・ゴアに到着するまでのモザンビークでの滞在記を含む、インド各地やマラッカ、ジャワ、カンボジア、マカオ、中国、日本など南方アジア海域の地理的記述(第4〜26章)*日本については第26章(34ページ〜)
・インド各地、とりわけゴアに関する様々な観察と考察(第28〜44章)
・ポルトガル領インド各地の動物について(第45-48章)
・ポルトガル領インド各地の植物、果物について(第49〜61章)
・ポルトガル領インド各地の薬草、香辛料について(第62〜83章)
・ポルトガル領インド各地の真珠や宝石について(第84〜91章)
・リンスホーテンのゴア滞在中の特筆すべき出来事(天正遣欧使節のゴア到着とイエズス会批判)(第92章)
・オランダまでの帰国までの航海記と、香辛料売買の実情など(第93〜99章)

 「東方案内記」は、オランダにおける最初期の日本情報をもたらしたことでも大変重要な資料です。リンスホーテン自身が天正遣欧使節とゴアにおいて実際に対面していることもあって、本書では、日本に関する情報提供のために一章(第26章)が割かれています。マッフェイの情報を軸にしつつも、当時のオランダの東インド進出候補地の一つでもあった日本の産品も含めて重要な情報を多数収録しており、17世紀前半におけるオランダにおける日本情報源として最大かつ最良のものとして長らく影響を及ぼしたことは、つとによく知られています。

「(前略)リンスホーテンの日本に関する記述は一貫性を欠いているとはいえ、その情報の中には一通りの初歩的な日本観が表れている。この日本観をまとめると次の通りになろう。日本は寒くて、住みにくい国であり、日本人は質素で我慢強い性質を持っている。慣習は他の民族とまったく違うため、異質な民族である。その起源は中国から流されてきた反逆者であるとされているが、慣習も言語も中国人と異なる。法がとても厳しく、礼儀を重んじる民族である。また、宝石ではなく、茶器や書画、刀を高く評価している。国制は封建的であり、君主は配下に対して絶対的な権力を持っている。イエズス会士は、日本で強い基盤を持ち、長崎という港で銀の貿易を独占している。このような日本観は、当時のイエズス会士の報告を基に形成されたものであるが、リンスホーテンはそれを概略的にオランダの読者に紹介した。
 オランダ人をアジアに導いた『東方案内記』は大きな影響力を持ち、17世紀を通じてオランダにおいてアジアに関する標準書となったことは言うまでもないが、日本に関しても、カロンの『日本大王国志』が1645年に出るまで、『東方案内記』がほとんど唯一の情報源であった。つまり17世紀前版において日本についての情報を知りたいオランダ人は、イエズス会士の記述を情報源としたリンスホーテンを参照したということになる。」
(フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、65, 66ページより)

 第26章での「日本概論」ともいうべき記述に加え、リンスホーテンがゴア滞在中に起きた特筆すべき出来事を論じた第92章(本書では誤植で29章となっている)では、ローマへと向かう途上でゴアに滞在した天正遣欧使節についての記述も見られ、リンスホーテン自身が実際に遭遇した出来事だけに天正遣欧使節の目的や道程などがかなり詳しく論じられています。ここで興味深いのは天正遣欧使節の記述だけではなく、それを企画したイエズス会に対して非常に批判的な記述が見られることです。本書にはこの箇所に限らず随所でイエズス会を辛辣に批判する記述が見られますが、こうしたイエズス会を厳しく批判した記述はラテン語訳版などでは削除されてしまっており、オランダ語原著を忠実に翻訳したとされる本書ならではの大変興味深い記述となっています。

「(前略)ヤパン[日本]の島から3人のプリンスすなわち王子が、イエズス会士らを伴ってゴアに到着した。かれらはイエズス会士と同じ服装をしており、年齢はせいぜい15、6と見受けられた[王子らがヤパンを発ったのは]イエズス会士の膳立てによるもので、その意図するところは、ポルトガルに渡航してローマへ上り、教皇に謁見してイエズス会のために大きな利益、特権及び自由を獲得すること、ただそれだけが目的であった。ゴアには[15]84年まで滞在した。それからポルトガルに渡り、さらにスペインへ行って国王ならびに諸侯から絶大なる敬意をもって迎えられ、かずかずの贈物を賜ったが、それらはイエズス会士らが横取りした。」(前掲訳書、573ページ)

 また、「東方案内記」に比べると(邦訳がないせいもあって)あまり知られていませんが、スペイン・ポルトガルの東インド各地への航路と拠点地の内情を暴露した第二部「ポルトガル人東方旅行記」においても、日本について詳細に言及されており、分量だけでいうと「東方案内記」を上回る紙幅が割かれています。第31章(71ページ〜)から第42章(94ページ〜)にわたって掲載されている日本近海航路の解説では、中国沿岸から日本各地に至る航路、平戸(Firando / Fyrando)、長崎(Langesaque)、土佐(Toca)、琉球(Lequeo) といった当時の重要な沿岸寄港地の情報と港間の航路などがかなり詳細に紹介されており、日本沿岸部の地理情報の解説としては他に類を見ない極めて充実した内容となっています。こうした情報は現代で言うところの水路誌に相当するものと思われ、当時ポルトガル・スペインの独占であったはずの海図が次第に外部に漏洩されていっていたことに鑑みると、本書と海図を組み合わせることで、後発のオランダとイギリスが大きな利益を得たであろうことは容易に想像できます。「東方案内記」が日本を含む東インド各地への憧れと航海の熱情をかき立てたのだとすれば、具体的に日本沿岸への航海のガイダンスが展開されている「ポルトガル人東方旅行記」は、こうした魅惑の地に具体的に到達するための、航海当事者にとっての極めて実用性の高い手引きとして読まれたものと思われます。

「ヤン・ハイヘンスがスペイン、ポルトガル航海者のインド東方海域、アメリカ海岸等の諸記録を蒐集し、翻訳、編纂したものが、『ポルトガル人航海誌』Reysheschrift van de Navigatien der Portugaloysers で、『イティネラリオ』の第二部となっている。これは第一部の『東方案内記』よりも一年前の1595年に刊行されたが、未知の海洋を行く者の実際の指針として当時ひじょうな歓迎を受けた。コルネリス・デ・ハウトマン Cornelis de Houtman が、戦隊を率いてオランダ人として最初に東方インド海域に赴いた時(1595-97年)も、同書を携行して航海の指針としていた話は有名である。この第二部後半には、別のタイトルでスペイン王の全領土、課税、貢物、収入等の抄録がポルトガル政府、軍事力、王室の起源とともに収められている。」
(前掲訳書解説32ページ)

 これに続いて収録されている「アフリカ・アメリカ地誌」は、その名が示す通りアフリカ大陸とアメリカ大陸の沿岸部に関する地理情報をまとめたもので、既存の文献や海図、地図類を駆使してバルタザールの協力のもとに編纂されていて、第二部と同様に実用的な航海情報として重宝されたと言われています。

 このような重要性を有するリンスホーテンによる本書は、瞬く間に反響を呼び、オランダにおいて再版されただけでなく、すぐさま多言語への翻訳版を呼ぶことになります。それらの主要なものをまとめると下記のようになります。

① 1595、96年:初版(オランダ語)、アムステルダム刊
② 1595、96年:初版異刷(第2版)(オランダ語)、同上。
③ 1598年:英訳初版、ロンドン刊
④ 1598(-1607)年:ラテン語初版(ブリー(De Bry)によるPetits Voyagesの一部) フランクフルト刊
④A 1599年:ラテン語版、ハーグ刊
⑤ 1598(-1600)年:ドイツ語版初版(ブリー(De Bry)によるPetits Voyagesの一部) フランクフルト刊
⑥ 1604、5年:原著第3版、アムステルダム刊
⑦ 1610年:フランス語版初版、アムステルダム刊(実質フランクフルト版との2種あり) 
⑧ 1614年:原著第4版、アムステルダム刊J. E. Cloppenburchに版元変更
⑨ 1619年:フランス語訳第2版、アムステルダム刊、同上変更
⑩1623年:原著第4版、アムステルダム刊

 刊行から20年ほどの間だけでもこれだけ多くの版が登場しています。各版の異同、優劣についてはこれまで多くの研究蓄積がありますが、初版である①が、記述、図版の完全性において最も優れているとの評価が定まっています。②以降のオランダ語原著各再版本は、基本的にこの①の忠実な再版本であることから、いずれも最も信頼性の高い完全版として高く評価されています。③の英訳版は、日本に初めて公式に来航したセーリス(John Saris, 1579? - 1643)が航海時に携行したことで知られるなど、その影響力の大きさにおいて重要であることは間違いないとされる一方で、翻訳の際の誤りが多いことも指摘されています。またド・ブライ兄弟によるラテン語版④とドイツ語版⑤は、特に前者はヨーロッパ共通言語であるラテン語に翻訳されたことによる影響力の大きさの点で高く評価されている一方で、原著記事の省略や図版精度の低さ、また上述したパルダヌスによる注釈の削除など、看過し得ない異同があることが指摘されています。この点では、同じラテン語版でもより完成度の高い④Aが他版に比して優れていると言えますが、日本におけるイエズス会の活動を批判した件が削除されている等、原著と比べると改変が見られることが指摘されています。

 フランス語版としては、④を底本としたフランス語訳初版⑦は、④を底本としているために同じ誤りがあり、原著を底本とした⑨が、原則的に全ての記述と図版を原著と同じくしている信頼しうる版として評価されています。本書は、⑨の再版として1638年に刊行されたものでフランス語訳としては、第3版にあたるものです。パルダヌスの注釈を含めた全てのテキストと図版を収録しており、オランダ語初版と全く同じ忠実な翻訳版として用いることができるものです。出版社のCloppenburghは、オランダ語版第4版(1614年)以降、ならびに仏語訳第2版を出版していた出版社です。

 いずれの版も現在となっては市場に流通する数は極めて少なく、特に切り売りされてしまうことが絶えない図版や地図を完備しているものは、極めて稀覯とされています。その意味において、最も信頼に足るとされる初版と同じくする全ての図版、地図を完備しており、かつ余白部分も十分に残した極めて状態の良い本書は、大変に価値ある貴重な資料と言えるものでしょう。


「彼の有名な作品は『東方案内記』Itinerario(1596年、アムステルダム)であるが、これは本来、オランダ国民に対する一つの決定的且つ実用的な教科書として意図されたものであって、彼自身の経験と深い研究の成果であった。本書は三部に分かれていて、第一部はインドにおける彼自身の経験を扱うと共にこの国々について充実した描写を行なっており、第二部はスペインやポルトガルの水先案内達の手稿から翻訳したインドやアメリカに至る様々な航海情報の集成を収めているが、特に東インド諸島と中国の水域を含むマラッカ以遠の航路の詳細が豊富であって、リンスホーテンがオランダ人に対して為した最大の功績は、実にこの《水路誌》の編纂にあった。第三部はドゥアルテ・ロペス、ピエトロ・マルティーレ、オビエドそしてド・ルリから採ったアフリカやアメリカの沿岸航海案内と地理の記述から成っており、第二部と同じくオランダの航海者にとって実用性の高いものであった。さらに36の図版や図面並びに6枚の大型地図の付録によって完璧のものとなった本書を携行せずには、如何なるオランダ人船長も航海を躊躇したのである。旅行者、著作家また海外発展の鼓舞者として、リンスホーテンはルネッサンス期オランダにおける地理学上の代表的人物と言ってよい。」
(ボイス・ペンローズ / 荒尾克己訳『大航海時代–旅と発見の二世紀』筑摩書房、1985年、386頁より)

「(前略)北ネーデルランドに繁栄しつつあった毛織物工業は新大陸への輸出産業として最も重要なものであった。それゆえ、この地方の毛織物工業がスペインのそれを圧倒するにつれ、新大陸の豊富な銀はスペインを素通りしてオランダに流入するようになった。そして銀こそは、香料などを目的とする東インド貿易にとって不可欠の商品であったから、オランダの商人達がヨーロッパ各地間の航海貿易の経験を生かして東インド貿易に乗り出そうとしたのは、極めて自然であった。
 一方、1580年以後、ポルトガル国王をも兼ねるようになったフェリペ二世は、オランダの商業活動に打撃を与えようとして、オランダ船のリスボン寄港を禁止したが、実際上この禁令は有名無実であったのみならず、すでに芽生えていたオランダ船の東洋への直接進出の気運を、一層刺激したにすぎなかった。
 ポルトガルは東インド貿易のため、この航路に関する情報を、他国人に対して極秘にしていたが、オランダ人ヤン=ハイヘン=ファン=リンスホーテンは、1583年にゴアの大司教の秘書としてインドに渡り、前後六年間の滞在の後、1592年に帰国して、その見聞を記した有名な旅行記を1595年から96年にかけて出版した。これはネーデルラント商人達の東インド進出にとって最も貴重な案内書となった。またコルネリウス=ド=ハウトマンはリスボンにおもむき、東インド航路に関する重要な情報や海図等を集めて1592年に帰国した。」
(永積昭『オランダ東インド会社』講談社、2000年、60, 61ページより)