本資料は、幕末から明治の横浜に居を構えたアメリカ総商業会議所(Yokohama General Chamber of Commerce)が、開港直前の期待が高まる大阪、兵庫両港に関する状況を本国宛に報告した特別報告書、並びに報告書を送付した際の書簡を合わせたものです。
1858(安政5)年に、江戸幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で修好通商条約を締結し、函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の開港と江戸、大阪の開市が取り決められました。そのうち、特に外国商人から期待の高かった兵庫、大阪の開港は当初予定から5年遅らされ、1868にようやく開港することになります。先に開港した諸港の中でも神奈川(横浜)は、その地理的条件から外国商人が最も活発に活動を展開し、国内随一の開港場として大いに栄えていきます。
横浜に設けられた商業会議所とは、当時の居留地にあって公的施設として設けられていたもので、「自治行政権を返還した横浜で、日本商人との折衝、商館相互の連絡および、その他の商業上の問題について各国商人の利益の保護に当たり、その意見を代表するものとして機能していた」(藤岡ひろ子「外国人居留地の構造」)とされおり、いわば民間商業人の中枢機関と言える重要機関でありました。特に、アメリカはニューヨークに総本部を置き、欧州各国に対抗すべく世界各地に商館と館員を配置し、定期的な報告書を各地から収集していました。横浜に設けられていたのもその一つで、当時の日米関係のみならず、アメリカの太平洋諸国における商業発展にとって、極めて重要な機関の一つでありました。
報告書はテキスト5ページからなる短い小冊子ですが、当時のアメリカ商人を中心とした民間人が、大阪、兵庫両港の開港をどのように捉えていたかを伝える大変貴重内容となっています。まず、冒頭に1ページ強ほどの基本報告書があり、その付論(APPENDIX)がAからDまで、そして最後に1ページ弱ほどの覚書き(MINUTE)が続きます。
基本報告書には、3名の記名者があり、その中にはアメリカ人で日本で最初に成功を収め、神戸に移住し更なる成功を手にしたウォルシュ兄弟の弟ジョン(John Glia Walsh, 1829 - 1897)の名前が目を引きます。報告書の内容は概ね、開港直前にも関わらず、開港に関する詳細な情報やスケジュールといった基本的な事項が全く知らされていないことに対する強い不満を訴えるものです。報告書が作成されたのは、1867年12月となっていますが、この時期は国内情勢がきわめて不安的な時期でした。将軍慶喜が薩長勢力を牽制しつつ、勅許を渋る朝廷から兵庫開港の承認をかろうじて得ることができたのが、この年の5月、その後10月に大政奉還、そして翌年初めには王政復古の大号令に続く戊辰戦争と、国内政治の動乱と混迷が極限に達していた時期にあたります。それがゆえに、国内に駐留する外国人にとって、正確な情報を入手することは民間人のみならず、外交官にとっても困難を極めており、緊迫する政治情勢への対応が問われた時期でした。したがって、当時横浜のアメリカ商人たちが、正確な開港情報を入手できていないことはやむを得ないことでもあるのですが、当事者にとっては、正確な情報なしには投資や設備移転のスケジュールといった商業上の死活問題を解決することができなかったため、各国政府代表に対する激しい苛立ちを表明しています。
続く付論Aは、兵庫、大阪の居留地の設置に関して、イギリス、フランス、アメリカと幕府とが1867(嘉永3)年に合意した規定書「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)を掲載したもので、これはサトウ(Ernest Mason Satow, 1843 ー 1929)によって英訳されています。
付論Bは、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ公使に対して、兵庫、大阪の開港に関する正確な情報を伝えるよう要求する書簡です。残念ながらこの書簡に対する回答は、イギリス、オランダからしか得ることができず、しかもその内容は極めて不十分であったとされており、この内容が付論Cに掲載されています。
付論Dならびに覚書は、幕府の依頼を受けて居留地の住居や設備提供の監督官をしていたというBenjamin Seare(生没年、詳細不明)からの報告で、ここでも同じく、具体的なことが決まっておらず、作業が進んでいないことが述べられています。
報告書末尾には、YOKOHAMAーPRINTED AT THE "JAPAN TIMES'" OFFICE とあり、このことから、1865年9月に横浜で『ジャパン・コマーシャル・ニュース』を買収して創刊した『ジャパン・タイムズ』社で印刷されたことがわかります。
この報告書は、アメリカ総商業会議所の代表を務めていたゲイ(A.O. Gay, 生没年、詳細不明)によって、ニューヨークの総本部に送られました。その際に同封された手書きの書簡が、本資料には付属しています。書簡の日付は、1867年12月6日となっており、横浜アメリカ総商業会議所の書簡用紙に手書きで認められたものです。受け取り側であるニューヨーク総本部の受領印も押印されており、受取日は、書簡作成の2ヶ月後である1868年2月6日となっています。ニューヨーク総本部では、世界中から提出される報告書を編纂して定期的に年次報告として刊行しており、この報告も、1868年に刊行された第10次年次報告書(Tenth Annual Report of the Chamber of Commerce of the State of New-York, for the year 1867-'68. 1868. New-York: John W. American Printer)において、次のように掲載されています。
FROM THE CHAMBER OF COMMERCE OF YOKOHAMA, JAPAN.
A communication was read from Mr. A. O. GAY, Chairman of the General Chamber of Commerce of Yokohama, Japan, dated December 6, 1867, and enclosing a copy of a report made by a special Committee upon the opening of the ports of Hioga and Osaca, which was ordered on file.
本資料は、ここに掲載された書簡の原文そのものと思われるものです。
このゲイ(A. O. Gay)という人物がどういう人物なのかは定かではありませんが、該当すると思われる人物が二人おり、そのうちの一人がArthur O. Gayで、彼はWalsh Hall and Companyと提携して1868年に開港後の兵庫にいたこと、1888年には同社との提携を続けて横浜に在住していたことが確認できます(The Chronicle & Directory for China, Corea, Japan, the Philippines, Cochin-china, Annam, Tonquin, Siam, Borneo, Straits Settlements, Malay States, & C., for the Year 1888.)。もう一人は、Albert O. Gayで、彼は1871年に兵庫の商業会議所名義で、居留地隣接区域の労働者住居の衛生環境に苦言を呈する報告を上げていることが確認できる人物です(Kevin C. Murphy. The American Merchant Experience in 19th Century Japan. Routledge, 2003.)。単に、A. O. Gayとだけ表記されて文書に登場することもあり、現時点でいずれの人物かの特定は困難ですが、アメリカ商業会議所の記録を探ることではっきりさせることが可能でしょう。
(→追記。The Chronicle & Directory for China, Japan, & the Philippines, for the year 1868.には、横浜商業会議所(Yokohama General Chamber of Commerce)の項目に、A.O.Gayの表記が確認でき、開港に合わせて初めて兵庫、大阪の部が設けられる翌年の同年鑑(for the year 1869)の兵庫の部(The Hiogo Directory)にWalsh & Co., merchantsの項目にArthur O.Gayの名を確認することができます。1871年の同年鑑にも同じ項目にその名を見ることができ、Japan Gazette, Hong List and Directory. For 1872.の兵庫の部(この年鑑では、居留地の所在番号も記載しており、当該年の居留地の入居状況を知ることができる大変便利なものです)の12番(jiu-ni-ban)にあった兵庫大阪商業会議所(Hiogo and Osaka General Chamber of Commerce)の代表(Chairman)に、Gay, A. O.の記載を確認することできます。
また、『ジャパンクロニクル紙ジュビリーナンバー 神戸外国人居留地』(堀博、小出石史郎共訳、土居晴夫解説、神戸新聞出版センター、1980年)には、兵庫大阪商業会議所について、次のような記載があります。
「1868年9月11日、ドイツ人クラブにおける外国商人たちの会合の結果、兵庫大阪商業会議所が生まれることになった。その時の議長はJ.G.ウォルシュ、初期はH.セント・ジョン・ブラウンである。第一回会議は10月6日に開かれて、ここに会議所は正式に発足した。O.ゲイが会頭に指名された。」)
いずれにしても、本資料は幕末期の緊迫した状況を実際に経験していた外国人から見た日本の状況を伝える極めて重要な一次資料と言えるものです。