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[1931年] 東京刊
(Photo by) K(oyo) Okada.
Japan: Mt. Fuji and Lake Motosu.
Tokyo, Nisshin Printing Co., Ltd, [1931]. <AB202473>
¥220,000
53.5 cm x 77.5 cm, 端の一部に破れあり(欠損なし)
Information
ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちくださいませ。 「1930年(昭和5)年4月、外客誘致の政府機関として鉄道省に国際観光局が新しく設置された。同局設立の目的は観光産業の振興であり、観光を通じた国際親善と外貨獲得にあった。 国際観光局はその初年度に富士山をバックに満開の桜の下で駕篭に乗る和装美人を描いた吉田初三郎の《Beautifu Japan(駕篭に乗れる美人)》を1万枚発行、その翌年には白黒のグラビア印刷のポスター6種(富士山、日光東照宮、鎌倉大仏、金閣寺、錦帯橋、弘前城)を発行し観光名所を前面に掲げた。その後、国際観光局は伊藤深水、川瀬巴水、上村松園、中村岳陵、堂本印象らを起用し、日本画独特の柔らかい色調や浮世絵を思わせる木版画を用いた観光宣伝用のポスターを制作した。国際観光局が制作したポスターの大部分は単に「JAPAN」と記されているだけで、しかも描かれているのは必ずしも観光名所というわけでもなく、外客誘致のための観光ポスターというよりも「美しい日本」というイメージづくりをねらって制作したものであったことがうかがえる。」 「国際観光局の第1号となるポスターのタイトルがまさしく「美しい日本(ビューティフル・ジャパン)」であったことが示すように、国際観光局がさまざまな印刷物を通じてめざしたのは、「美しい日本」というイメージを対外的に拡散し親日的なムードを醸成することにあった。その後の国際観光局のポスターには、富士山、日光東照宮、鎌倉大仏、金閣寺、錦帯橋、弘前城、大阪城、宮島、春日大社などといった日本の代表的な観光名所が、また、どこかの風景か特定することはできないものの神社の鳥居や五重塔などのように日本の観光イメージとしてこれまでにも繰り返されてきた記号的な題材が描かれてきた。だがその一方で、能楽「道成寺」の一場面を描いた伊東深水の《Japan(道成寺)》(1932年)、謡曲を舞う着物姿の日本女性の姿を描いた上村松園の《序の舞》(1936年)、日本が独特の柔らかい色調で山なみの背後に大きな日輪を描いた中村岳陵の《Japan(春山日輪)》(1939年)などのように観光ポスターとしての色彩がきわめて希薄なものも制作している。こうしたポスターの存在は、国際観光局による観光キャンペーンとは、外客誘致による外貨獲得だけでなく、観光宣伝を通じて「美しい日本」というイメージを国際社会に浸透させることで反日的な国際世論を是正し国際親善を推進するためのプロパガンダとして展開されていたことを示しているように思われる。 外国人のまなざしを意識しながら外客誘致のために作り出された日本の観光イメージには、版図を拡大し多民族国家としての成長をめざす帝国としての日本の姿を反映しながら、日本という国の輪郭線の更新にともなって新しく国土に組み込まれた地域の風物や観光資源も加えられていった。帝国としての日本の歩みを反映するかのように制作された日本の観光ポスターの存在は、それが外国人観光客を誘致するために、外国人観光客のまなざしだけを意識して作り出されたのではなく、日本人とその「共同体」に内在するひとびとのまなざしを意識しながら作り出されたものであった可能性をうかがわせる。そうした意味において、観光ポスターとは「美しい日本」というイメージを国際社会に浸透させるためだけでなく、日本人自身のために描かれた「自画像」だったともいえるだろう。「自画像」とは他者のまなざしを意識して作り出されたものでありながらも、同時に自分自身のまなざしを意識しながら描き出されるものでもあり、双方向的なまなざしのもとに成立するものといえる。つまり、国際観光局が作り出した観光ポスターには外客誘致という目的だけでなく、「共同体」への愛着や帰属意識を育み、ナショナリズムを強化するという作用をもたらすこともまた期待されていたに違いない。観光立国を通じて作り出された日本の観光イメージとは、帝国の内と外、自己と他者の両方に向けて発信された「自画像」であり、観光ポスターという形のプロパガンダとして眺めることができるだろう。」 (東京国立近代美術館編 / 木田拓也『ようこそ日本へ:1920-1930年代のツーリズムとデザイン』東京国立近代美術館、2016年、62頁、10頁より) 「富士山の写真の記録は計り知れないほど膨大な数があり、それを辿る仕事は他の人に譲るが、特筆すべき例が一つある。現代の写真家で、富士山を撮ることに人生を捧げた岡田紅陽は、「今までおよそ15万枚以上富士を撮影してきたが、私は富士山の持つ可能性のすべてを撮り尽くしていないと畏敬の念を抱いている(Okada 1964, preface)と述懐している。彼は写真の裏に、自らの名前と富士山のスケッチを含んだ印を押してさえいる。日本の政府は、数多くのの切手に彼の富士山の写真を用いており、旧五千円紙幣に描かれた本栖湖と富士山の絵は、彼が写した写真がもとになっている。」 (H・バイロン・エアハート / 井上卓哉(訳)『富士山:信仰と表象の文化史』慶應義塾大学出版会、2019年、165-166ページより) 「富士山を「富士子」と呼ぶほどに惚れ込んだ岡田紅陽は、生涯に40万枚近くこの山の写真を撮影しました。「紅陽」の名は、富士山の山肌が紅に染まった荘厳な姿に感動したことに由来すると言われています。「富士の写真家」と呼ばれた紅陽の写真は、日本の象徴として紙幣や切手の図案に採用されたばかりでなく、皇室や諸外国にも献上されました。」 (小原真史(監修)『富士幻影:近代日本と不治の病』IZU PHOTO MUSEUM、2011年、168ページより)