書籍目録

『中国と日本:日本からの遣米使節についての記述を含む、1857年から60年までのアメリカ合衆国蒸気フリゲート艦ポーハタン号の航海記録』

ジョンストン

『中国と日本:日本からの遣米使節についての記述を含む、1857年から60年までのアメリカ合衆国蒸気フリゲート艦ポーハタン号の航海記録』

(初刷) 1860年 フィラデルフィア刊

Johnston, D(ouglas). James.

CHINA AND JAPAN: BEING A NARRATIVE OF THE CRUISE OF THE U. S. STEAM-FRIGATE POWHATAN, IN THE YEARS 1857, ’58, ’59, AND ’60. INCLUDING AN ACCOUNT OF THE JAPANESE EMBASSY TO THE United States. Illustrated with Life Portraits OF THE EMBASSADORS...

Philadelphia, Charles Desilver, 1860. <AB202468>

¥275,000

(First state ?)

8vo(12.3 cm x 19.9 cm), 1 leaf(blank), colored Front., pp.[i(Title.)-v], vi-xii, pp.[13], 14-448, 4 leaves(advertisements), 1 leaf(blank), maps: [2], colored plates: [7], Original pictorial green cloth.

Information

日米通商修好条約の締結の舞台となり、万延元年遣米使節を送り届けたポーハタン号の貴重な記録

 本書は、アメリカ軍艦ポーハタン号の士官であったジョンストン(James Douglas Johnston, 1817 - 1896)による著作で、ポーハタン号(USS Pawhatan)がアメリカ東インド艦隊への配属が命じられた1857年11月から、東インド艦隊としての任務をフィラデルフィアで解かれる1860年8月までの出来事を記したものです。ポーハタン号は、アメリカが誇る当時最大級の外輪フリゲート艦で、1859年7月に結ばれた日米通商修好条約締結の場となっただけでなく、条約の批准書をワシントンで交換するために派遣された幕府からの使節団(万延元年遣米使節使節)を送り届けた軍艦でもありました。本書にはこうしたポーハタン号を舞台とした幕末の日米交渉に関する出来事についての多くの記事が含まれているほか、この使節団の正使を務めた新見正興、同副使である村垣範正、同じく目付の小栗忠順らの写真を元にした手彩色リトグラフ図版なども収録されています。また、東インド艦隊の一翼を担う軍艦として、ポーハタン号は、日本だけでなく上海や香港、天津、シンガポール、マラッカなどにも停泊しており、欧米列強諸国と清国との関係を決定的に変えることになったアロー戦争に代表されるような激動する東アジア情勢の只中で活動していました。こうしたことから、本書は、単に日米関係にとって重要な書物であるだけでなく、動乱の最中にあった東アジア情勢というより広い視座から日米関係が描き出されている点でも重要な文献と言えます。

 著者であるジョンストンは、1832年に海軍に入隊してから順調にキャリアを重ね、ポーハタン号では副長(Executive Officer)として任務に当たっていました。本書は、彼がポーハタン号で任務についていた期間の出来事が概ね時系列に沿ってまとめられています。1857年11月にポーハタン号が東インド艦隊への配属を命じられて極東へと向かい、日本に至るまでの記述が第1章から第4章までで、以下第5章では、最初の長崎到着(1858年7月9日)、第6章では、下田到着(1858年7月25日)と下田を発って上海へ(1858年8月初旬)、第7章では、二度目の長崎到着(1858年9月10日)と長崎を発って上海へ(1858年10月31日)という順で、ポーハタン号の日本停泊時の出来事が記されています。第5章冒頭には、長崎の地図が折込図版として収録されていますが、これは、ケンペル『日本誌』に収録されていた長崎図をほぼそのまま流用し、説明を当時の状況に合わせたものです。

 その後、ポーハタン号はいったん日本を離れ、第8章では、上海、香港、マカオ(〜1859年3月)、第9章では、シンガポール、マラッカ、香港(〜1859年5月)と各地に停泊しています。この時期にジョンストンは、ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco、浜田彦蔵, 1837 - 1897)やファン・リード(Eugene Van Reed, 1835 - 1873)とも出会っています(第9章)。続く第10章では、寧波、上海、天津(〜1859年7月)での出来事が記されており、アロー戦争において天津条約批准のために天津に赴いた英仏艦隊の動向についても詳しく触れられています。第11章でも、アロー戦争における英仏軍の天津近郊での戦闘と外交交渉の推移に関する記述が中心になっています。

 第12章では、幕府の遣米使節をアメリカまで乗船させるという新たな命令を受け、長崎への出発(1859年9月17日)、神奈川到着(1859年10月3日)品川、江戸沖に短期滞在し、江戸発(上海へ)(1859年10月12日)上海着(10月17日)、上海発(長崎へ)(10月25日)、横浜着(10月31日)、横浜発(香港へ)(11月12日)と目まぐるしく移動を続ける中で生じた様々な出来事や見聞したことが記されています。この章には「東海道の茶屋(Tea House on the Tokaido)」と題された彩色図版が収録されていることからも分かるように、ハリス(Townsend Harris, 1804 - 1878) を中心とした幕閣との外交交渉といった政治的事項だけでなく、横浜を中心とした見聞記的な記事も含まれています。当時問題となっていた金銀交換比率に関する取り決めから生じた通貨問題にも言及しており、横浜と上海を往復し両替するだけで莫大な利益を得ることができることなども記されています。本章でのこうした記述に限らず、ジョンストンは好奇心旺盛かつ積極的な姿勢で日本社会や、日本の人々についての観察、考察を本書の至る所で行っており、当時の重要な政治経済外交問題に関する貴重な証言に加えて、ジョンストン一個人の視点から幕末日本の状況が生き生きと語られていることも、本書の大きな価値と魅力となっています。

 第13章からは、万延元年遣米使節に関する記述が中心になっていて、横浜に帰着(1860年1月11日)し、遣米使節とともに江戸湾を発つまで(1860年2月13日)を第13章で、続く第14章ではホノルルを経由してサンフランシスコに到着するまで、第15章ではパナマへと向かい、遣米使節を別の船に送り届けるまでを記しています。その後、使節がポーハタン号を離れてからの動向についても記されていて、使節のワシントンで大歓迎を受けたことや、ブキャナン大統領の晩餐会に招待されたことなどについても言及されています。そして、最終的にポーハタン号の極東艦隊下における任務を完了し、ジョンストンを含む乗員がフィラデルフィアで任務を解かれる1860年8月の記述で終わっています。第13章と第14章では、遣米使節を描いた手彩色リトグラフ による図版が6枚収録されていて、村垣範正(Muragaki-Awadsi-No-Kami. Second Ambassador. 副使)、小栗忠順(Ogure-Bungo-No-Kami. Chef Censor. 目付)、成瀬善四郎(Naruse Gensiro. Officer of First Class to Ambassadors. 外国奉行支配組頭)、塚原重五郎(Tsucahara Jugoro. Officer of First Class to Ambassadors. 外国奉行支配役)、名村五八郎(Namoora Gohatsiro. Principal Interpriter. 通詞)、立石釜次郎(Tateise Onogero, (Tommy). Third Interpreter. 通詞見習)の図を見ることができます。これらの図は、使節がニューヨークを訪れた際に写真館で撮影された写真を元にしたもので、その多くが当時のアメリカを代表する写真家フレデリックス’Charles DeForest Fredricks, 1823 - 1894)による写真と思われます(参照:日本カメラ博物館監修『秘蔵古写真 幕末』山川出版社、2019年)。

 最後の第16章は、ジョンストンによる日本概論となっていて、彼の見聞を中心とした日本論が展開されています。ここでは、日本の自然・人文地理的解説、統治形態、宗教、歳入、人工、手工業、農産物、畜産、文化と風習などが論じられており、約25ページ程と決して分量は多くありませんが、ジョンストン自身の知見が披露されていて興味深いものです。宗教に関する解説ではお伊勢参りなどを解説しているほか、日本では「諜報制度(system of espionage)」が社会階層の隅々まで行き渡っていることなどが述べられています。他にも日本の時間観念を説明する際には干支を具体的に挙げながら解説したり、以前から欧米で人気を博していた漆工芸製品についても説明するなど、ジョンストンの視座に基づく独自の日本論が多岐にわたって展開されています。この章の最後でジョンストンは、日米通商修好条約の締結によって、両国の交易が活発になり、自由貿易を促進することでアメリカの様々な産品、商品を日本に輸出することに大いに期待できることや、キリスト教の布教により、日本が将来、宗教的、道徳的にも文明化された国々の一員となるであろうといった、将来的な見通しについても述べています。

 また、本論の後には、付録1−3が収録されていて、1は、アメリカ東インド艦隊の指揮を取っていたタットノール(Josaiah Tattnall, Jr. 1794 - 1871)がアロー戦争において英仏軍を支援し攻撃を行ったことに関する海河での通信記録、2は、アメリカと清との間で締結された天津条約、そして3が、日米通商修好条約となっています。

 このように本書は、日米通商修好条約の締結とその批准書交換のための万延元年遣米使節についての貴重な記録を中心として、激動する東アジア地域というよりグローバルな視座から描き出された、黎明期の日米関係の様相を伝える大変重要な文献であると言えます。また、ジョンストン自身が積極的な態度でもって幕末日本の政治、社会、経済、文化について生き生きと語っている点や、遣米使節を描いた彩色図版を収録している点なども、本書の価値と魅力を一層高めていると言えます。

 なお、本書は、タイトルページに1860年の刊行年表記を有するものと、1861年の刊行年表記を有するものとの、少なくとも2種類が存在することが確認されています。両者には挿絵の挿入箇所といった点以外に大きな相違が認められないことから、刊行直後に予想以上に売れ行きが好調だったために、増刷したのではないかとも考えられますが、確かなことはわかりません。なお、ジョンストンは、1861年4月に合衆国海軍を除隊し、同月のうちにアメリカ連合国(南部連合)海軍士官となって、南北戦争に参加しており、1861年版以降、本書が版を重ねることがなかったのは、こうした事情によるものと考えられます。

 ちなみに、序文では、ジョンストンは、記憶と妻に送った書簡を頼りに本書を執筆したと述べていて、これを信じるとすれば、ジョンストンがフィラデルフィアでポーハタン号での任務を終えたのが1860年8月、1860年中に初版が刊行されていることに鑑みると、本書は、ごくわずかな期間に一気に認められたことになります。出版社である Charles Disilver はフィラデルフィアにありましたので、任務を解かれたジョンストンといち早く接触できた可能性が高いとは言え、驚くべき早さというべきです。ジョンストンにとって最初の著作であった本書が、これだけの短期間でいかにして完成したのかについてや、初刷と第2刷との関係など、出版事情に関する事項でも、本書にはなお解明すべき点が多いと言えるでしょう。

刊行当時の箔押し装飾が残っている貴重な原装丁本
「東海道の茶屋(Tea House on the Tokaido)」と題された彩色図版の口絵。ジョンストンが日本で直接入手したものを再現したものか。
タイトルページ。本書には1860年の表記があるものと、1861年の表記があるものとの少なくとも2種が存在する。
序文冒頭箇所。
目次冒頭箇所。
本文冒頭箇所。
日本についての記述が本格的に始まる第5章冒頭箇所。
第5章冒頭には、長崎を描いた図版が収録されている。この図は、ケンペル『日本誌』収録の古い長崎図を流用し、内部の記載を変更したものと思われる。
アメリカ東インド艦隊の指揮を取っていたタットノール(Josaiah Tattnall, Jr. 1794 - 1871)は、アロー戦争において英仏軍を支援し海河で攻撃に参加した。上掲は関連する記述と海河の戦闘配置図。
遣米使節派遣と共に日本を発つまでを記した第12章冒頭箇所。
万延元年遣米使節の正使である新見正興。ニューヨークで撮影された使節の写真を元に手彩色リトグラフ で再現されている。
村垣範正(Muragaki-Awadsi-No-Kami. Second Ambassador. 副使)
小栗忠順(Ogure-Bungo-No-Kami. Chef Censor. 目付)
成瀬善四郎(Naruse Gensiro. Officer of First Class to Ambassadors. 外国奉行支配組頭)
塚原重五郎(Tsucahara Jugoro. Officer of First Class to Ambassadors. 外国奉行支配役)
名村五八郎(Namoora Gohatsiro. Principal Interpriter. 通詞)
立石釜次郎(Tateise Onogero, (Tommy). Third Interpreter. 通詞見習)
最終第16章は、ジョンストンによる日本概論となっていて、ジョンストンの日本に関する知見が披露されており興味深い。
付録1冒頭箇所。アメリカ東インド艦隊の指揮を取っていたタットノール(Josaiah Tattnall, Jr. 1794 - 1871)がアロー戦争において英仏軍を支援し攻撃を行ったことに関する海河での通信記録
付録2冒頭箇所。アメリカと清との間で締結された天津条約
付録3冒頭箇所。日米通商修好条約
巻末には出版社の広告が掲載されている。