書籍目録

『西廻り航路で旅する極東』

シドモア(スキッドモア)

『西廻り航路で旅する極東』

第10版 1902年 カナダ刊?

Scidomore, Eliza Ruhamah.

WESTWARD TO THE FAR EAST.

Canada?, The Canadian Pacific Railway Company, 1902. <AB202467>

¥55,000

10th edition.

14.5 cm x 19.5 cm, pp.1(Title.),2(preface), 3(Front.), 4(Map)], 5-61, 1 leaf(for memo), 1 folded colored map, Original pictorial paper wrappers.

Information

ワシントンの桜並木の発案者としても知られる親日家アメリカ人著者による日本案内

「郵船会社もガイドブックの出版社であった。『西回りで行くファー・イースト』(1893年刊)(本書初版のこと;引用者注)は、カナダ太平洋鉄道会社が同社の大陸横断鉄道と太平洋航路の案内をかねて出版した中国・日本ガイドブックである。著者には、有名な女性ジャーナリストで日本旅行記の著作(『日本における人力車の日々(Jinrikisha days in Japan. 1897)のこと;引用者注)もあるスキッドモア(表記が異なるが本書著者Scidmoreのこと;引用者注)をむかえ、コンパクトながら必要な情報を盛り込み、美しい挿絵が魅力的なガイドブックとなっている。」
(横浜開港資料館編『世界漫遊家たちのニッポン–日記と旅行記とガイドブック』2001年、52頁より)

「エリザ・R・シドモアは1909(明治42)年、タフト大統領夫人に対して、首都ワシントンD・Cのポトマック河畔に日本産桜の植樹を提言し、日米親善の証しを遺した女性として著名である。
 1865(安政3)年、アイオワ州に生まれたシドモア女史は、新聞記者の見習いをしたのち、横浜の米国領事館に勤める兄を頼り、1884(明治17)年9月上海経由で横浜に上陸した。当時28歳、初来日と考えられている。女史はアジアの諸都市に滞在した知見をもとに、旅行記者・作家としての活動を始める。母と兄は横浜の住人であったが、彼女はワシントンD・Cを生活の拠点にした。

 シドモア女史が数度の来日体験をもとに、東京・横浜を中心に、東は日光、西は東海道・京都・奈良・大阪〜長崎にいたる旅行記『日本・人力社の日々』(原題 Jinrikisha days in Japan)を出版したのは1891(明治24)年。1902(明治35)年に改訂版を出している。(後略)」
(平野正裕「やさしいまなざしで日本人に接した旅行作家エリザ・R・シドモア」横浜市広報課 / 神奈川新聞社編『横濱:YOKOHAMA』第29号、2010年所収記事、44頁より)

「シドモアは日本に夢中になった。当時の日本は、西洋からの訪問者に対して門戸を開いたばかりだった。兄が外交官として駐在していたため、日本の社会に入り込むことができた。
 シドモアは日本から記事を送るようになった。女性ファッション誌「Harper’s Bazaar」では、日本女性の地位の高さを称賛し、当時は家庭向け雑誌だった「Cosmopolitan Magazine」では、急須を紹介した。「American Farmer」誌に寄せた日本の蚕に関する記事では、「細心の注意を払って育てられた貴族のような虫」と書いている。
 さらにシドモアは、桜を「この世で最も美しいもの」と呼び、ワシントンD.C.に写真を持ち帰ると、ポトマック河畔に桜の木を植えるよう当時のグロバー・クリーブランド政権に嘆願した。

 1890年、シドモアはインタビューで、旅は「生まれたときから私の中にあったのです」と述べている。そして、地図や地理の勉強をした子どもの頃を振り返って、「いつも見知らぬ国のことばかり考えていました」と語っている。
 同じ年、シドモアはナショナル ジオグラフィック協会の一員になった。まだ発足2年の組織で、女性会員は10人余りしかいなかった。2年後、男性ばかりの理事会が満場一致で、彼女を通信担当者に選出した。
 シドモアは、さかんになりつつあった協会主催の講演活動に、探検家や外交官を講師として招いた。自身も登壇し、極東やアラスカについて語った。
 1890年代後半、ハバード会長はシドモアに、まだ若いナショナル ジオグラフィック誌についての意見を求めた。シドモアはヨーロッパにある同様の出版物を調査し、「大改革」が必要かもしれないと助言した。
「素晴らしい船出を果たし、著しく成長しています。でも、もっと飛躍させて、本格的で一流の地理雑誌にしなくてはなりません」
 大改革の手段に選ばれたのは写真だ。文字でびっしり埋め尽くされた誌面に初めて写真が掲載されたのは1890年。しかし、写真が雑誌の中心的存在となり始めたのは1905年にチベット、ラサを写した世界初の写真で11ページの特集が組まれてからだ。その数カ月後、グロブナー編集長はフィリピンの写真138枚を掲載し、翌1906年には、丸ごと一冊を野生生物と自然の写真で構成した特集号を発表した。

 1890年代、スミソニアン協会の前身となった組織がシドモアにコダックのカメラを渡し、インド、日本、中国、インドネシアのジャワ島への旅を記録するよう依頼した。シドモアはおそらく、ナショナル ジオグラフィック初の女性写真家でもあるのだ。
 1909年、シドモアはグロブナーに次のような手紙を書いている。「カラー写真を買いませんか? 緑の木々の中に赤や黄の寺院が立ち並び、地面には雪が積もっている、そんな写真に賭けてみてもよいのではないでしょうか」
 当時、カラー写真はあまり使われていなかった。非常に高価であるだけでなく、雑誌の内容が薄くなってしまうのではないかと理事会が心配していたためだ。しかし、雑誌を成長させようというグロブナーの決意は固く、遠く離れたアジアの地でカラー写真の撮影を始めたシドモアは貴重な存在だった。
 1910年、グロブナーはシドモアに手紙を書いた。「私たちのカラー写真の技術は画期的な進歩を遂げました。新しい特集を組むため、手を貸してもらえませんか?」
 シドモアはすぐに女性たちや子供たちの写真を送った。同封されていたメモには次のように書いてある。「色鮮やかな写真に仕上がっていますから、きっと今回の特集も大きな称賛を受け、新たに数千人の会員を得られるでしょう」
 1914年、「若き日本」と題された特集記事に11枚の写真が掲載された。ナショナル ジオグラフィック誌にとって、ほとんど例がなかったカラー写真であり、自然の色を再現した最初のオートクローム写真も含まれていた。
 シドモアは450ドル(現在なら100万円相当)の報酬を受け取った。グロブナーはいつも彼女の写真と文章に普通よりも高い報酬を支払った。グロブナーは電報で、「素晴らしい写真だ」と絶賛している。

 シドモアは断続的に日本で暮らし、米国の親善大使を務めた。同時に彼女はナショナル ジオグラフィック協会との親密な関係を維持し、グロブナーと頻繁に手紙をやり取りしていた。(後略)」
(「100年前の日本を愛し、世界に伝えた女性記者:26点の写真でつづる、ナショジオ初の女性記者・写真家・理事エライザ・シドモア」ナショナル・ジオグラフィック協会HP掲載記事より)