書籍目録

『富嶽百景:北斎による富士(富士山)を描いた百の風景』

ディキンズ

『富嶽百景:北斎による富士(富士山)を描いた百の風景』

1880年 ロンドン刊

Dickins, Frederick. Victor.

FUGAKU HIYAKU-KEI. OR A Hundred Views of Fuji (Fujiyama) by HOKUSAI. INTRODUCTORY & EXPLANATORY PREFACES, WITH TRANSLATIONS FROM THE JAPANESE, AND DESCRIPTIONS OF THE PLATES.

London, B.T. Batsford, 1880. <AB202464>

¥220,000

16.0 cm x 22.6 cm, pp.[i(Title.)-xi], xii-xviii, double pages plate, pp.[1], 2-54, double pages plate, pp.55-70, 1 leaf(advertisements), Contemporary card boards, bound in Japanese style.
刊行当時に施されたと思われる厚紙表紙の和綴製本だが綴じ糸は近年のもの。鉛筆による書き込みが随所に見られる。

Information

『富嶽百景』を初めて西洋に紹介した記念すべき著作

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「『百景』の全貌をヨーロッパで初めて紹介したのはイギリスの軍医で後に弁
護士として横浜の領事裁判所に務めたディキンズである。1863 年の初来日時に長崎市中で『北斎漫画』を入手して以来、その紹介に全力を注いだ。
 『百景』の解説と翻訳は1860年代から始まっていたようだ。その構成は、序文と、『和漢三才図会』(1712 年)による富士山についての解説等に続いて、『百景』第1編から第3編までの序文の英訳と全図の記述がカタログ番号付きで、間違いなく102 点について掲載される。「マミアナ」のような不思議な説明も少なくはないが、概要は確かに把握されている。そして最後に、1691 年に長崎から江戸に向かったドイツ人医師ケンペル (Engelbert Kämpfer, 1651-1716)の『日 本 誌』(The History of Japan, 1727)から富士山についての記述を付録として引用して全体を補っている。
  この時点ではまだ、まとまった伝記情報はほとんど利用できなかった。虚心による伝記は 1893年の刊行である。18頁からなる序文では、そのためか、 ほとんどが『漫画』の序文と『和漢三才図会』をもとに解説が試みられている。ディキンズが言葉で称賛するのは、既成概念に囚われずに、しかも夥しい数の独創的な素描を生み出す北斎の「天才」的な能産的な創造力である。彼によれば、「西洋の基準にしたがったとしても北斎が真の天才の持ち主であることに疑いの余地はない」。
 ここで北斎が、19 世紀西洋の近代的な美学理論にもとづいて「天才」的な 「芸術家」として理解されていることを確認しておこう。ただし、この賛辞には修辞的な誇張に近いところがないわけではない。北斎や浮世絵の芸術性について称賛した後には、いつも基本的には態度を保留して、友人のアンダースンやサトウによる今後の研究の成果を待つと断っている。最終的には芸術性よりも世態風俗や自然(とくに火山としての富士山) や人工物についての博物学的な情報源として魅力が彼を惹きつけていたのかもしれない。」
(加藤哲弘「欧米における北斎の『富嶽百景』の評価」関西学院大学人文学会『人文論究』第71巻第1号、2021年所収論文、61-62ページより)