本書は18世紀に探検家、著述家として活躍したフランスのイエズス会士シャルルボア)Pierre-François-Xavier Charlevoix, 1682 - 1761)が1754年に全6巻で刊行した18世紀を代表する総合的な日本研究、いわゆる「日本誌」です。著者自身には来日経験はありませんでしたが、既存のイエズス会による日本報告などの史料を読み込んだ上で、ザビエルに始まる日本宣教とその約1世紀後の弾圧、廃絶に至るまでの日本におけるキリスト教の歴史を一つの通史としてまとめ上げました。イエズス会士であるシャルルボアの立場から記された「教会史」ではありますが、その執筆に際しては史料による裏付けを基本としており、できる限り客観的な叙述となるように意識されています。「キリシタンの世紀」と呼ばれた時代を後年のヨーロッパの識者がどのように理解、研究し、そして新たな作品として後世に伝えていったのかを知ることができる大変興味深い作品です。
シャルルボアは1715年にルーアンにおいて全3巻構成の『日本教会史』(Histoire de l’établissement, des progrés et de la décadence du christianisme dans l’Empire du Japon. 3 vols. Louen, 1715)を刊行していましたが、その後1727年から28年にかけてケンペルによって『日本誌』が刊行されたことを受けてこの作品を全面的に改訂することを決意します。ケンペル『日本誌』は18世紀以降の西洋における日本観を決定づけた作品として今日でも高く評価されていますが、シャルルボアはこの作品を大いに参照しつつも、その内容を批判的に吟味して自身の『日本教会史』の改訂に用いました。シャルルボアによるこの努力は、1736年に『日本誌』(Histoire et description generale du Japon. 2 vols.(4to) / 9 vols.(8vo), Paris, 1736)の刊行に結実します。この作品は、前著『日本教会史』を大幅に上回る分量(大型の四つ折り判で全2巻、小型の八つ折り判だと全9巻)と、ケンペル『日本誌』等他の作品に収録されていた図版を多数転用することで多くの銅版画も備えた、全く別の作品として大いに好評を博しました。
「他のイエズス会士の著した『日本史』と同様にキリスト教布教史を中心的なテーマとして扱いながらも、ケンペルの著作に対抗する目的でカトリックの視点から見た日本の文化や社会に関する総括的な記述も掲載している。同書は『教化』目的で版を重ね、フランスのカトリック界を中心にその日本観の形成に多大な影響を与えた。」
(フレデリック・クレインス編『国際日本文化研究センター所蔵日本関係欧文図書目録:1900年以前刊行分』第4巻(1853年以前)臨川書店、2018年、xiii頁)
シャルルボアは、この1736年版の成功を受けて更なる改訂作業に勤しみ、1754年に八つ折り判で全6巻構成に改めた『新版』を刊行し、この1754年版がシャルルボアの『日本誌』最終改訂版となりました。本書はこの1754年の最終改訂版にあたるものです。
本書は基本的に編年体の構成を取りつつも、本文の記述に関連のある重要な作品や論文がある際にはそれらを各巻末に盛り込み、また関連する数多くの折込銅版図を合わせて収録することで、より視野の広い総合的な日本研究となるように工夫されています。前著『日本教会史』では信長や秀吉、家康といった時の為政者を基準として章立てがなされていましたが、記述内容が大幅に増加した本書ではそうした構成を取らずに、より細かな年代ごとの章立て構成としています。また、前著『日本教会史』では基本的に西洋人の来日以降の出来事が記されていたのに対して、本書では紀元前660年とされる神武天皇の時代にまで遡った年代記が追加されており、日本の歴史全体がカバーされる内容となっています。
前著冒頭に置かれていた「日本概説」記事も大幅にその内容が拡充されて、第1巻全てをつやすほどの分量となっており、日本の地理、気候、産出物、人々の文化、生活、学問、宗教、商業、産物、交易といった様々なトピックから日本のことが論じられており、1巻だけがあたかも独立した「日本論」を構成しているかのような充実ぶりです。こうした本書全6巻のおおまかな構成を記すと下記のようになります。
第1巻
日本概論(全29章)
第2巻
序章:日本の世襲皇帝である内裏の年代記(pp.i-lxxxv)
第1章:ザビエル伝(pp.1-100)
第2章:1552年〜1562年(pp.101-197)
第3章:1562年〜1566年(pp.198-296)
第4章:1566年〜1574 / 75年(pp.297-393)
索引(pp.394-429)
正誤表(p.430)
第3巻
第5章:1574 / 75年〜1580年(pp.1-84)
第6章:1580年〜1582年(pp.85-171)
第7章:1582年〜1588年(pp.172-295*)*実際にはpp.265だが、pp.265以降は誤ってpp.295からのページ付となっている
第8章:1588年〜1592年(pp.296-385)
第9章:1592年〜1595年(pp.286-470)
補論1:ガスパル・ゴンサルヴェスによる天正遣欧使節の教皇グレゴリオ13世への謁見式での演説(pp.471-484)
補論2:ヘンドリック・ハメル『朝鮮幽囚記』より朝鮮王国に関する記述抜粋(バーナード編『北方探検記』第4巻(1718年)からの転載)(pp.485-514)
索引(pp.515-558)
正誤表(p.559)
第4巻
第10章:1595年〜1597年(pp.1-108)
第11章:1598年〜1604 / 05年(pp.109-190)
第12章:1604 / 05年〜1613年(pp.191-294)
第13章:1613年〜1614年(pp.295-393)
第14章:1614年〜1619年(pp.394-479)
索引(pp.480-534)
正誤表(p.535)
第5巻
第15章:1620年〜1622年(pp.1-76)
第16章:1622年〜1626年(pp.77-162)
第17章:1626年〜1631 / 1634-36年(pp.163-250)
第18章:1631年〜1640年(pp.251-340)
第19章:1640年〜1672-85年(pp.341-417)
補論:ケンペル『日本誌』中の長崎関連記事の抜粋(pp.418-430)
索引(pp.431-479)
正誤表(p.480)
第6巻
第20章:1672-85年〜1709年(pp.1-64)
補論1:フリース「日本北方のエゾの発見記」バーナード編『北方探検記』第3巻(1715年)からの転載)(pp.65-77)
補論2:ベラン(Jacques-Nicolas bellin, 1703 - 1772)による本書のために新たに製作された日本諸島と蝦夷、並びにその北方、北東に存する諸国を描いた地図の解説(pp.78-83)
補論3:在日イエズス会士12名による連名1623年3月7日付、日本現状報告書(pp.84-93)
補論4:ファン・セビーコスによる1628年に刊行されたルイス・ソテロによる教皇宛(日本報告)書簡に対する反駁書(pp.84-176)
補論5:ケンペルによる「日本植物誌」(pp.177-313)
「日本植物誌」索引(pp.314-326)
日本研究文献目録(pp.327-365)
日本研究文献著者索引(pp.366-372)
索引(pp.373-384)
正誤表(p.385)
出版許可関連文書
第3巻、第5巻、第6巻に見られるように、シャルルボアは本文の記述と関連のある特に重要な資料については補論として本文とは別個に収録して読者の便を図るように工夫していることがわかります。その中にはケンペル『日本誌』からの抜粋(第5巻の補論や第6巻の補論5)も見られますが、それ以外はシャルルボアが重要な関連資料として独自に選択した記事で、著者の見識の広さがうかがえると同時に、現在では入手が難しかったり本誌でしか読むことができない記事も含まれていることから、非常に貴重なものであると言えます
第3巻の補論1は、天正遣欧施設が1585年にローマにおいて教皇グレゴリオ13世と謁見した際に、謁見式において宣教師ゴンサルヴェス(Gaspar Gonçaves, 1540 - 1590)が行ったラテン語演説をフランス語に翻訳したものです。遥か東方からローマに赴いた使節の不屈の信仰心を称揚し、かつてない遠方からの使節到来を実現させた教皇の偉大さを賛美したこの時のゴンサルヴェスの演説は、大変優れたものであったと言われ、教皇のみならず、謁見に立ち会った人々の感涙を誘ったと伝えられています。この演説は天正遣欧使節に関する同時代に刊行された多数の著作や後年の作品にも転載されていますが、本書のようにフランス語に訳された例は少ないのではないかと思われます。
第3巻の補論2は、秀吉による文禄・慶長の役を論じた本文記事と関連する朝鮮半島に関する情報として加えられたものです。オランダの貿易船の船長で1653年に日本へ向かう途上で朝鮮半島に漂着してから13年にわたって同地での滞在を余儀なくされた後に、1666年に日本へと脱走して幕府との交渉の末に帰国を果たした、ハメル(Hendrick Hamel, 1630 - 1692)による『朝鮮幽囚記』の名で知られる著作(のフランス語訳板)に含まれている朝鮮王国の概論部分を抜粋したものです。
第6巻の補論1は、ケンペル『日本誌』でも未解明な点が多いとされ、当時のヨーロッパにおいて議論が紛糾していた、蝦夷とその北方地域の地理情報に関する資料として盛り込まれたものです。この記事は、千島列島をヨーロッパ人として初めて航海、記録し、択捉島を「(オランダ)国の島」(Staten Eylandt)、得撫島を「(オランダ東インド)会社の土地」(Compagnies Lant)と命名したことで知られる、フリース(Maerten Gerritsz. de Vries, 1589 - 1647)の航海記で、蝦夷周辺を実測した貴重な記録として当時なお大きな影響力を有していた重要な作品です。シャルルボアは本書初版(1736年版)の刊行後も蝦夷地周辺の地理研究を続けていたようで、初版における記述や収録地図の誤りについて訂正するために、地図製作者であるべランによる補論を続けて掲載しています。
第6巻の補論3と4は、17世紀にはいって禁教政策と弾圧が一層激しくなりつつあった1630年前後の日本において、その宣教方針をめぐってイエズス会とそれ以外のフランシスコ会やドミニコ会ら托鉢修道会が激しく対立していた際に刊行された著作を再録したものです。いずれもイエズス会の日本宣教を肯定する内容で、イエズス会士であるシャルルボアが同会の立場の正当性を擁護するものとして収録したのではないかと思われますが、その原著はもちろん後年の他作品への転載も限られたものであることから大変貴重なものです。
弾圧が激化する1623年の日本において活動していたイエズス会士12人の連名で執筆された日本報告(補論3)は、托鉢修道会によるイエズス会批判の誤りを正すと同時に、厳しい状況下にあってもイエズス会が日本において精力的に宣教活動を継続していることを非常に具体的に記して報告したもので、初版刊行当時は托鉢修道会から偽書ではないかとの非難が寄せられたことが知られている論争的な作品です。
補論4は、長遣欧使節を企画したことでも著名なフランシスコ会士のソテロ(Luis Sotelo, 1574 – 1624)が殉教直前に教皇ウルバーノ八世に宛てて1624年に出したとされる書簡に対する反駁書として刊行された作品です。日本におけるイエズス会の宣教方針を厳しく批判したソテロ書簡は1628年にコリャードによってマドリッドで印刷に付された直後からその真偽を巡って激しい論争が起きたことが知られる作品で、このソテロ書簡を徹底的に反すべく、マニラにおいて大司教区司教代理として活躍し1609年から翌年にかけての滞日経験もあったファン・セビーコスをその著者とする作品が刊行されました。補論4は、この作品をフランス語訳して再録したものです。補論3と同様この作品も初版刊行当時は偽作であるとして、ファン・セビーコス自身を巻き込んで托鉢修道会からの批判が巻き起こったことが知られています。
また、各巻末に設けられた索引は非常に詳細なもので、地名、人名、重要事件など様々な項目で構成されておりこの索引を駆使することによって、読者が関心のある記事をすぐに探し当てることができるようになっています。このような索引は著者シャルルボアが既存の文献を単に引用、参照するだけでなく、自身で批判的に吟味して再構成した上で本書を執筆していることを示唆しており、彼の日本研究の客観性を重んじる態度を見てとることができます。
さらに、第6巻末の最後に収録された「日本研究文献目録」は、特筆すべき重要性を持つもので、シャルルボアが本書の執筆に際して膨大な既存文献、史料を読み込み、また個々の著作を自身の中で体系的に位置付けた上で参照していたことを示しています。この文献目録は現代でもなお有用と思えるもので、店主自身にとっても未知の資料が含まれているほか、当時のヨーロッパにおいて日本研究資料としてどのような作品が認知、受容されていたのかを示してくれる貴重な資料でもあります。
本書には多くの銅版画図版が随所に盛り込まれており、その多くはケンペル『日本誌』や、モンターヌス『オランダ東インド会社遣日使節紀行』などから転用されたものと思われますが、中には本書独自のものも含まれています。本文の記述と対応して図版が随所に収録されていることで、読者はテキストだけでなく、地図や図版といった豊富な視覚史料も通して日本のことを知ることができるようになっていて、こうした構成は本書が人気作品として長く流通した理由の一つであったと言えるでしょう。
特に日本全体を描いた地図(第1巻収録)や、日本と蝦夷、中国大陸などとの位置関係を示した地図(第6巻収録)は、非常にユニークなもので、それぞれのベースとなった地図は、当時信頼できる地図として流通していた複数の地図を組み合わせて構成されていますが、そこにシャルルボアによる日本研究の成果を反映させた非常に充実した地名表記が加えられており、既存の日本図には見られない情報を提供してくれています。もちろん地図に記されたこれらの新情報は、実際の地理的発見や測量に基づくものではありませんが、シャルルボアが膨大な日本関係資料を読み込んだ上で日本の地理情報を再整理して、地図上に表現したという点で独自の価値を有するものと言えるでしょう。例えば、日本図において描かれている天草島は、島名を表す天草という表記に加え、志岐、本渡、そして地名を表す天草という表記が明瞭になされていますが、こうした表記の仕方はそれまでの西洋製日本図には見られないもので、シャルルボアがイエズス会士の報告書類などを読み込んだ上で地理情報を整理して、地図上で新たに表現を試みたものではないかと思われます。
「ジャック=ニコラ・ベラン(1703〜1772年)は海洋技師で、1720年に設立された海図・航海計画保管所の責任者だった。王室検閲官でもあり、フランス海洋アカデミーだけでなくイギリスの王立協会の会員にもなっている。18歳で海図・航海計画保管所に入った当初は所蔵目録の整理をしていたが、のちに世界中の既知の海岸線の沿岸図を制作するようになった。彼はこの仕事にとても熱心に取り組み、彼の元で制作された地図と海図の数は100枚を超え200枚近くになる。その出版物目録は膨大だが、もっともよく知られているのは、当初15巻の、のちに20巻となったアベ・プレヴォ(僧プレヴォ)の Recueil des Voyages…(旅行記大全)に地図を提供したことだ。Histoire…du Japon に含まれている地図は、彼の名前が記されている最初期のものである。(中略)
べランはこの日本地図をケンペルが当時発表した地図をもとに描き、ケンペルの名前は省略した。おそらくはド・シャルルヴォアに従ったのだと思われるが、イエズス会神父や無名の日本人やポルトガル人、オランダ人の作だとしている。ワルター(1994)は、べランはケンペル地図の数多くの誤りを訂正しただけでなく、いくつかの地名を付け加えたと述べている。(中略)
べランは1754年にド・シャルルヴォア作品の第2版(本書のこと:引用者註)を出版した際、数多くの変更だけでなく、Observations sur la Carte des isles du Japon, Terre de Yesso…と題した小論も追加した。彼はこの中で、カムチャッカ半島とJesso(北海道)が同じ場所だと考えさせた誤りを認めている。しかしそれでも、日本の島々については上記の誤りを除けば1735年の描写で正しく、より正確な経度観測を含めたことで地図は訂正されたと主張している。」
(ジェイソン・ハバード / 日暮雅道訳『世界の中の日本地図:16世紀~18世紀 西洋の日本の地図に見る日本』柏書房、2018年、363-365ページより。*一部引用者が改訳)
シャルルボアによる日本関連著作は、現代では誤りが多いものとして時に否定的な評価が与えられことがありますが、本書をを見る限りでは、著者自身に来日経験がなかったとはいえ、同時代のヨーロッパにおける最高峰水準の日本研究者であったことは間違いないと言えるでしょう。まとまった邦訳がないせいもあって、クラッセ『日本教会史』などと比べても参照されることが少ない作品といえますが、当時の西洋社会における日本表象のあり方に大きな影響を与えた作品として、改めて注目されるべき作品であると思われます。
なお、全6巻の詳細な書誌情報下記の通りです。
Vol.1: Half Title., Title., pp.[i], ij-xxiv, pp.[1], 2-32, 35(i.e.33), 34-225, 160(i.e.226), 227-325, 226(i.e.326), 327-417, [418(Errata)], folded maps & plates: [22].
Vol.2: Half Title., Title., pp.[i], ji-lxxix, xx(i.e.lxxx), lxxxj-lxxxv, 1 leaf, pp.[1], 2-100, [101-103], 104-125, 26(i.e.126), 127-131, 232(i.e.132), 133-197, [198-201], 202-245, 346(i.e.246), 247-296, [297-299], 300-429, [300(Errata)], folded maps & plates: [2].
Vol.3: Half Title., Title., pp.[1, 2], 3-84, [85-87], 88-171, [172-175], 176-264,[NO LACKING PAGES], 295, [296-299], 300-336, 237(i.e.337), 338-344, 245(i.e.345), 356(i.e.346), 347-385, [386-389], 330(i.e.390), 391-439, 460(i.e.440), 441-447, 447(i.e.448), 449-558, [559(Errata)], folded maps & plates: [3].
Vol.4: Half Title., Title., pp.[1-4], 5-108, [109-111], 112-190, [191-194], 195-294, [295-298], 299-310, 312(i.e.311), 312-393, [394-396], 397-534, [535(Errata)], folded map: [1].
Vol.5: Half Title., Title., pp.[1-4], 5-76, [77-80], 81-162, [163-165], 166-218, 119(i.e.219), 220-250, [251-254], 255-341, [342-345], 246(i.e.346), 347-464, [LACKING pp.465-472], pp.473-479, [480(Errata)], folded map: [1].
Vol.6: Half Title., Title., pp.[1-3], 4-100, 10(i.e.101), 102-144, 144(i.e.145), 146-191, 292(i.e.192), 193-197, 298(i.e.198), 199-219, [220], 221-342, 34(i.e.343), 344-384, 3 leaves, (folded) maps & plates: [29].
「ピエール・フランソア・ザビエル・ド・シャルルヴォア(1682-1761)は、フランス東北部のサン・カンタン(St. Quentin)で生まれ、イエズス会の宣教師として、また探検家として活躍する傍ら、キリスト教史に関する多くの著述を残した。彼は16歳でイエズス会に入り、神学や哲学・文学の研究に打ち込んだと言われている。その後、伝道の地を求めて前後2回にわたって新大陸へ赴いた。第一回目は1705年から1709年まで、主にケベックに滞在した。二回目は、1717年からで、セント・ローレンス川に沿って五大湖に達し、さらにミシシッピー川を下ってメキシコ湾に至るなど精力的な探検旅行を行い、この2度に及ぶアメリカ大陸探検の成果として"Histoire et description générale de la Nouvelle-France"(『新フランス植民地史』)を記した。
また、彼は日本でのキリスト教布教にも関心が高く、我が国の歴史やキリスト教伝道史の研究をおこなっている。」
(京都外国大学附属図書館『日仏交流150周年記念稀覯書展示会:フランス人による日本論の源流をたどって』2008年、22ページより)
「ピエール=フランソワ=ザビエル・ド・シャルルヴオア(1682〜1761年)は、イエズス会の伝道師であり探検家だった。彼は1705年にまずカナダへ行き、そこに4年とどまった。フランスに帰国して数年過ごしたあと、政府によって太平洋への河川航路を探索のために1720年にカナダへ戻された。彼は五大湖を探索し、さかのぼる予定でミシシッピ川を下ったが、病気になった。その後バハマ海峡の入り口で難破したものの、生き延びてヒスパニオラ島に向かい、その後フランスへと航海して1722年12月にたどりついた。
ド・シャルルヴォアは探検をやめたあとの人生を作家として過ごし、Histoire et Description Génerale du Japon(日本史)(1736年)や Histoire de L’Isle Espagnole…(スペイン島の歴史)(1730年)だけでなく、Histoire de La Nouvelle France(新フランスの歴史)(1744年)、Histoire du Praguay(パラグアイの歴史)(1756年)を書いた。
日本については、これより前の1715年にルーアンでHistoire de l’etablissement, des progrés et de la decadence du christianisme dans l’Empire du Japon(日本国におけるキリスト教の確立と発展、そして衰退の歴史)を出版している。)
(ハバード前掲書、363ページより)