本書は、イエズス会の著作家であるグスマン(Luis de Guzman, 1544 - 1605)による、ザビエルによる日本宣教の開始から1598年頃に至るまでのまでのイエズス会宣教史を全2巻にまとめた著作で、1601年にスペインのマドリッドにほど近いアルカラで刊行されています。新井トシ氏による邦訳『東方伝道史』(天理時報社、1944年)として知られる、「日本教会史」不朽の名著として知られる作品で、現在に至るまで高く評価されている作品です。その一方で、現在では入手が難しく、また著しく高額な書物としても知られています。
ザビエルによって始められた、イエズス会による日本をはじめとした海外宣教活動については、現地に赴いた宣教師から送られた書簡が随時公刊され、多くの読者を獲得してきましたが、徐々にその蓄積は膨大なものになっていきました。やがて、それらの書簡をまとめて書簡集として刊行することで、宣教活動の展開を時系列に沿って理解できるようにする必要が生じ、一定の年代と地域を分類して編纂された書簡集が刊行されるようになります。こうした書簡集は、宗教改革と対抗宗教改革に揺れるヨーロッパにおいて、カソリックの正当性と権威を高めるものとして、また新たに海外宣教に赴く人材のリクルート、ならびに教育素材としての需要がありました。こうした書簡集の刊行に続いて、それらの書簡を駆使しつつ、イエズス会による海外宣教活動の歴史をまとめた通史が刊行されるようになっていきます。16世紀後半におけるイエズス会の優れた著作家の1人であるマッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1536? - 1603)による『インド誌(Historiarum Indicarum LibriXVI. 1588)』は、こうした作品を代表するものです。このような作品は、イエズス会による宣教活動だけを論じるのではなく、海外宣教地の地理、文化、歴史、社会状況なども詳細に論じており、その結果、宣教史としてだけでなく、「新世界」についての貴重な情報源としても評価され、多くの読者に広く親しまれました。
本書はこうしたイエズス会による宣教史の出版活動において一つの分水嶺となった名著で、まだ書簡集としての側面が強く残っていたマッフェイの『インド誌』をこえて、一つの通史として全く新たに書き起こされている点に大きな特徴があります。グスマンはザビエルによる海外宣教開始以降、イエズス会本部にもたらされた膨大な資料群を網羅的に精査し、その上で全く新しい宣教史を生み出すことに成功し、それゆえに本書以降に続く「宣教史」に類するすべての作品の基礎を築き上げることになりました。グスマンの経歴と本書の意義については、前述の新井トシ氏によって、下記のようにまとめられています。
「1601年の発刊にかかるグスマンの東方伝道史は2巻1300余頁よりなる広汎な大著書で、その第1巻は6篇に分れ、その4篇までが東インドにおける初期の耶蘇会伝道で、残る2篇及び第2巻7篇が日本伝道である。頁数より見るに日本伝道は実に千余頁にわたって論述されているゆえに、東方伝道史というよりむしろ日本伝道史というべきである。
原著者ルイス・グスマン神父は1543年バレンシヤ主教管区のオソルノ村で呱々の声を上、63年5月あるから大学に遊学中耶蘇会に入会、アルカラの有名なる学林で修学して司祭に叙せられ、マルエル・ローペス神父の伴侶として選ばれる。1573年修道志願者の教師となり、次いでベルモンテ学林の総長、アンダルシヤの菅区長となったが、病のためその職に絶えず、暫くしてベルモンテ学林に隠退した。1594年アルカラ学林の総長となり、翌年トレド管区の管区長、次いで当時の耶蘇会のアクワビバのスペイン管区における助手に選ばれたが、持病のためローマに赴き得なかった。数年後再びトレド管区の管区長となったが、在職中即ち1605年1月10日齢65歳にして逝去した。
この書は総長アクワビバの勧告とニエレンベルグ師の指図に基づき、逝去4年前に出版されたもので、当時耶蘇会が企画した伝道事業全般を含まず、東インド、シナ、日本伝道に限ったものである。著者はポルトガル全領土を東インドとし、従ってエチオピヤ、モノモタバ(蘭領東アフリカ)、さらにブラジル伝道をもその中に含めた。
師がベルモンテ学林の総長であった当時、九州三侯の使節がローマに赴く途中、その学林に宿泊し、師自らそれを歓待された。また耶蘇会の重要な任務を帯びてスペインの中央に常住していたので、マドリッド並びにローマに事業報告、その他の打ち合わせに行く伝道師たちと自然交渉があった。ヂエゴ・デ・メスキタ神父の旅行、アロンソ・サンチェス神父マカオ遠征は彼らがマドリッド、アルカラに赴く途中自ら物語ったものである。
著者は日本に来朝しなかったが、刊行年代の古い点、史実の正確なる点はフロエス神父に次ぐ日本伝道私の権威者である。著者が序文に言えるごとく真摯、正確を旨とし、当時文学界に風靡し始めた奇妙な誇張を用いず、簡潔、高雅にして激昂なく整然たる規律をもってこの不可思議な伝道報告を十分述べつくしている。私はこの書を訳すにあたり、伝道師の通信と一々照らし合わせ、いかにそれに忠実であったかを知った。」
(前掲書、9-10頁より)
この全2巻からなる名著の第1巻は全6部で構成されていて、その冒頭である第1部は、すべてのイエズス会海外宣教の礎を築いたザビエルの伝記からはじめられています。このザビエルの伝記は全33章からなる長大なものですが、そのうち第23章から第27章にかけては、ザビエルの日本における活動を論じており、まとまった日本関係記事として読むことができる内容となっています。第2部と第3部は、「東インド」全般の宣教史を論じたもので、ここでいう「東インド」とは前掲の通りポルトガル領インド全般を指しており、エチオピアやアフリカ、ブラジルをも含む宣教史となっています。さらに第4部は、中国における宣教活動を論じる内容となっています。
こうした第4部までの記述に続いて、本書の後半にあたる第5部と第6部、そして第2巻はすべて日本宣教について紙幅が費やされていて、非常に充実した内容をもつ日本関係記事となっています。邦訳書を参考にしつつ、第1巻5部以下の構成を列挙してみますと、下記の通りとなります。
[第1巻]
第5部:(p.385-)
イエズス会士によって日本の諸国に聖なる福音宣教の端緒が開かれ、日本の首都にして巨大な都市である京都にまで及んだこと
第6部:(p.463-)
京都に入って以来、日本の首長である公方様(Cubuzama)が逝去するまでに生じた聖なる福音宣教の経過について
目次:(p.561-)
[第2巻]
第7部;(p.1-)
公方様(足利義輝)が逆賊に殺害され(永禄の変)、尾張領主信長がその弟(足利義昭)を名義上の王として日本帝国の実権を掌握したこと、ならびに京都の街に武力侵攻し占領した時期における日本のキリスト教界の状況について
第8部:(p.101-)
信長が挙兵して京都市街に侵攻した頃から、日本の王族が教皇グレゴリオ13世に恭順の意を示すために使節を派遣するまでに生じた日本のキリスト教会の発展について
第9部:(p.125-)
日本の王子たちが教皇グレゴリオ13世に恭順の意を示すためにローマに赴いたこと、ならびにヨーロッパからインドに帰国するまでの出来事について
第10部:(p.299-)
信長の逝去と、その後任者となった関白殿(豊臣秀吉)の治世下の出来事、ならびにその時期に帰天した豊後王ドン・フランシスコ(大友宗麟)と大村王ドン・バルトロメオ(大村純忠)について
第11部:(p.361-)
関白殿によるキリシタンと宣教師に対する全面的な迫害(バテレン追放令)、ならびにその苦難の時期に主がわれらに与えたもうた成果について
第12部:(p.457-)
ヴァリニャーノ神父が(帰国した)日本の王子たちと共にインド総督名代の肩書きで関白殿のもとに赴いたこと、ならびに関白殿による朝鮮侵攻と、この間における日本のキリスト教界の状況について
第13部:(p.577-)
日本司教ペドロ・マルティネスが来日して日本での職務を開始したこと、ならびに太閤様がキリシタン迫害を再開し、ついに死に至ったことと、その間における日本のキリスト教界の発展について
補論:(p.645-)
イエズス会に対して寄せられた諸問題(に反駁する)のために執筆された諸論考
目次: (p.713-)
上記のうち、最後の補論だけは、それまでの部とはやや異なる内容となっていて、天正遣欧使節のローマ派遣に際して対立する他修道会らからなされた使節の真正性を疑問視する声や、イエズス会の日本宣教の在り方そのものに対する反発、また教皇グレゴリオ13世がイエズス会に認めた日本宣教の独占に対するや、1597年に生じたいわゆる日本二十六聖人殉教事件の原因やイエズス会の対処に対する反発等々といった、当時のヨーロッパにおいて噴出しつつあったイエズス会に対する批判に対して反駁する内容となっています。こうした修道会巻の紛争は本書刊行によって止むどころか、後年ますます激化していくことになったことはよく知られている通りです。ここで展開されている議論はイエズス会が置かれていた当時のヨーロッパの複雑な状況を理解する上で極めて重要なものばかりです。
このように本書では、ザビエルによる日本宣教活動の開始から秀吉が逝去するまでのおよそ半世紀近くの日本史が非常に詳細に記されている第一級の史料と言える作品で、それまでの書簡集のような作品には見られない、網羅的でかつ一人の著者によって通史として編纂された「日本教会史」となっていることが大きな特徴です。本書に見られるこれらの記事は、新井氏が述べられているように個別のイエズス会士による書簡を慎重に精査した上で執筆されており、その情報源把握の網羅性と客観性、そして通史としての記述の統一性の点において、他書で得難い唯一無二と言えるものです。
グスマンの『東方伝道史』は、早くからその存在が知られており、戦前において既に訳出されていることからも分かるように、多くの研究者によって活用されてきた不朽の名作と言える作品です。戦前の文献や古書店の目録を見る限りでは、20世紀前半ごろまでは比較的入手が容易な作品として、古書市場にも比較的安価で出現していたようですが、近年では入手が非常に難しくなってしまっており、また出現したとしても数百万円を超えるという著しく高額な作品となってしまっています。本書は刊行当時の現想定を保っていると思われる、歴史的な書物として理想的な状態を保持している極めて貴重なもので、展示、研究等多方面にわたって大いに活躍してくれることが期待できる書物です。
なお、本書はページ番号にかなりの混乱が見られますが、実際には本文内容が全く欠けることなく完備しています。各巻の詳細な書誌情報は下記のとおりです。
Vol.1: Title., 5 leaves, pp.1-87, 81(i.e.88), 89-165, 66(i.3.166), 167-250, 215(i.e.251), 252-395, 386(i.e.396), 397-430, 418(i.e.43)], 432-434, 447(i.e.435), 436, 437, 446(i.e.438), 439–501, NO LACKING PAGES, 506-519, 532[i.e.520], 521-528, 520[i.e.529], 530-556, NO LACKING PAGES, 561-573.
Vol.2: Title., 4 leaves, 1 wood-cut plate leaf, pp.1-96, 75(i.e.97), 98-141, 143(i.e.142), 144(i.e.143), 145(i.e.144), 145-208, 111-126(i.e.209-224), 225-297, [298(wood-cut plate)], 299-304, 205(i.e.305), 306-314, 305(i.e.315), 316-355, 36(i.e.356), 357-425, 425(i.e.426), 426(i.e.427), 427(i.e.428), 429-468, 466(i.e.469), 470-475, [476], 477-544, 543(i.e.545), 546-643, 620(i.e.644), 645-672, 573(i.e.673), 674-725, NO LACKIN PAGES, 728, 729.
「ルイス・デ・グスマンはアルカラの大学で学んだのち1563年イエズス会に入会。ベルモンテの学院長をつとめていた!584年、天正遣欧使節がこの地を訪間し、グスマンも面会しています。晩年はトレドの管区長をつとめています。
この『東方布教史』はザヴィエル以来、ほぼグスマンの同時代に至るまでの歴史を描き出しています。今日ではもはや散逸したスペインのイエズス会が保持していた資料を縦横に駆使し、他のイエズス会著作者には稀れな簡明、率直な筆致で述べていることは大きな特長といえるでしょう。「東方」とはいえ、インドや東南アジア、あるいは中国に関しては大冊二巻のほぼ四分の一を占めるに過ぎず、第一巻の後半ならびに第二巻のほとんどは日本布教史となっています。十六世紀末の日本に関して、同時代のヨーロッパが手にすることのできた知識の総合が見出される文献として著名。」
(放送大学附属図書館HP『西洋の日本観』「グスマン『東方布教史』1601年」より)(https://lib.ouj.ac.jp/gallery/seiyou_nihon/tohohukyoshi.html)