書籍目録

『1841年1月7日のアンソン湾において、中国のジャンク船を粉砕する(イギリス)東インド会社所有の(鉄製)汽船「ネメシス号」と5隻のボート』

テリー(画) / グレートバッチ(彫版) / (アヘン戦争)

『1841年1月7日のアンソン湾において、中国のジャンク船を粉砕する(イギリス)東インド会社所有の(鉄製)汽船「ネメシス号」と5隻のボート』

(手彩色鋼版画) 刊行年不明 ロンドン刊

Terry, George W. (illustration) / Greatbach, George (engraving).

THE HON: EAST INDIA COMPANY’S STEAMER “NEMESIS” AND THE BOATS OF THE SULPHUR, CALLIOPE, LARNE, AND STARLING, DESTROYING THE CHINESE WAR JUNKS IN ANSON’S BAY, JANUARY 7, 1841.

London, The London printing and publishing company, n.d. <AB202422>

Reserved

Steel engraving, hand-colored.

18.2 cm x 28.8 cm, Pasted on paper cover flame.
[Royal Museums Greenwich: PAD5865]

Information

「ネメシス号」を描いたもう一つのアヘン戦争図

 本図は、1841年1月7日のアンソン湾(Anson’s Bay)とイギリスで呼ばれていた広州近郊の珠江河口付近にある虎門におけるイギリスと清とのアヘン戦争での戦闘場面を描いたものです。イギリス東インド会社の鉄製汽船「ネメシス号」が清のジャンク船を撃破する象徴的な場面をテリー(Edward W. Terry)が描いたもので、鋼版画(steel engraving)で印刷された後に(おそらく刊行当時の)手彩色が施されています。いわゆる「アヘン戦争図」としては、同じくネメシス号を描いたエドワード・ダンカン(Edward Duncan, 1803 - 1882)による大型銅版画(東洋文庫が所蔵する異なる特徴を有する3枚が特に有名です)が世界史の教科書などでもお馴染みですが、本図はそれよりも小型でありながらもネメシス号の活躍をダンカンの作品よりも直接的に描いた構図をとっていることから、もう一つのアヘン戦争図として大変重要と思われる作品です。

 アヘン戦争におけるネメシス号の活躍を描いたダンカンとテリーによる2つの版画作品については、吉澤誠一郎「ネメシス号の世界史」(大阪大学文学部西洋史学研究室『パブリック・ヒストリー』第10号、2013年所収)による優れた論考があり、作品を理解する上で非常に大きな助けとなります。いずれの作品も、イギリスによる最新の鉄製汽船が圧倒的な科学力・軍事力を背景に、海上戦において中国のジャンク船を圧倒している場面を描いているように見受けられますが、同論文では、そのような後年の印象と異なり、同論文は、アヘン戦争においては、艦隊と艦隊とが海上で砲撃を交えるような海上戦が主戦となったのではなく、清朝側は、河口に設けた砲台を主戦力として、それに対してイギリス側は、上陸部隊と汽船からの砲撃とを組み合わせるという海陸を交えた戦闘が行われ、どちらかというと陸戦を主としていたことが指摘されています。

 また、イギリス側の汽船からの砲撃についても、砲撃の主力となるような大型汽船は、陸上砲台を攻撃できる射程範囲となる浅瀬の海域には近づくことができなかったこと、喫水の浅い特殊な鉄製汽船であったネメシス号が例外的に海上からの攻撃として効果を発揮したものの、その手段は大砲砲撃ではなく、コングリーヴ・ロケットと呼ばれるロケット花火のような特殊な攻撃手段によるものであったことを指摘しています。さらに、イギリスの圧倒的な科学力と軍事力の象徴のように思われる鉄製汽船軍艦は、アヘン戦争時のイギリス艦隊においては、まだまだ実験段階の例外的な存在に過ぎず、この作品で描かれているネメシス号は試験的意味合いを持って実戦に投入されたもので、主戦力の大部分は木製汽船であったことが指摘されています。

 つまり、この作品を一見して思い浮かべるような、また教科書の解説から得られるような、高度な科学力に裏付けられた圧倒的な海上戦力を誇るイギリスが、それらに劣る清朝の艦隊を海上戦において完膚なきまでに破壊している、という印象は、「アヘン戦争」の実際の様相とはかなり異なっていて、この作品は、アヘン戦争において例外的な存在であった鉄製汽船ネメシス号による、特殊なコングリーヴ・ロケットを用いたという、アヘン戦争全般の中でも非常に特殊な攻撃場面を描いていることを指摘しています。

「中国の学者による最近の研究では、アヘン戦争期の船や銃砲について、確かにイギリスのほうが様々な点で技術が勝っていたことが詳細に分析されている。他方で、その技術の相違は、程度の差であって、全く異質な次元にあったというわけでもないことも指摘されている。アヘン戦争を軍事の側面からみる場合の難しさは、このような過渡期の歴史性をどのように理解するのかというところにあるというべきだろう。
 この点は、1853年の「黒船」来航という日本誌の出来事にも関係してくる。周知の通りこの年、浦賀沖に現れた4隻のアメリカ船のうち、2隻のみが汽船であり、2隻は帆船であった。いずれも木製である。
 アメリカ合衆国の海軍がこの時点でどれほどの蒸気力を評価して採用していたのかは、また別の話となる。少なくとも、19世紀において急速に技術進歩を果たしていた欧米の艦船や銃砲に接して、幕末の人々は強い衝撃と大きな驚異を感じていただろう。そして、このような日本の歴史的経験が、ネメシス号銅版画の見方にも影響を与えているのかもしれない。
 たしかに、ここまで述べてきたような軍事的な事情を日本の高校生に丁寧に教えるというわけにはいかないだろう。しかし、ネメシス号は、あくまで過渡期の実験的な存在であり、だからこそ清軍の意表をついたという経緯、ネメシス号は海戦の主役ではなく、上陸する部隊を運んだり主力艦を曳航したりする任務を負っていたこと、ジャンク船を爆裂させたのは一種のロケット弾だったということを踏まえて、アヘン戦争において軍事力のもった歴史的意味を考えていくことは不可欠だと思われる。」
(吉澤前掲論文11-12ページ)

「常に保守的なイギリス政府は、1850年以後まで海軍の軍艦にさえ鉄の船体を用いなかった。或いは、1852年までイギリスの郵便船は、木船によってのみ運送された。イギリスの大汽船会社も、1860年代までは、木船を好む傾向があった。」
(黒田英雄『世界海運史』成山堂書店、1972年、62ページ)

 このように、本図で描かれている場面から受ける印象とは裏腹に、ネメシス号がアヘン戦争において活躍した場面はかなり限定的であったことが分かります。それでもあえてこのような作品が印刷されたのは、ネメシス号の活躍を特に強調して記念する意図が明確にあったからで、特にダンカンの作品についてはネメシス号を製造したレナード社からの製作依頼があったことがわかっています。テリーが手がけた本図についてはレナード社との直接の関係は不明ですが、海上において黒煙をあげて炎上するジャンク船の爆砕という、見るものにとって強い印象を残す構図で描くことで、試験段階にあったとはいえ当時最新の鉄製汽船であったネメシス号の活躍を喧伝、記念しようという意図はダンカンによる作品と同じ、あるいはそれ以上に強いものであったことが明らかにうかがえます。

「ところで同じ海戦を描いた銅版画としては、テリー(G.W.Terry)という画家が作製した全く別の構図のものがある。蒸気船ネメシス号のほかに、イギリス側の5隻のボートが見える。このテリーの絵のほうが、両軍の対戦の様子が明解に示される構図になっている。ボートに大砲を載せて発射するという戦法をイギリス側がとっていることも、よくわかる。」
(吉澤前掲論文、5ページより)

 本図はダンカンによる銅版画作品よりもかなり小振りですが、上記で言われているように、より直接的にネメシス号の活躍と、それによって爆沈するジャンク船を描いており、この作品に触れた当時の人々に強烈な印象を与えたのではないかと思われます。ダンカンの作品が、おそらくレナード社と一部の関係者のみに配布されたと思われるのに対して、比較的小さいテリーの作品はより多くの部数が発行されたと思われることから、より多くの人々に強いインパクトをもたらしたことも推測されます。とはいえ、現存するテリーの作品もやはりそれほど多くはないようで、特に本図のように美しいて彩色が施され、かつ良好な状態で残されているものは大変貴重ではないかと思われます。ダンカンによる作品と並んで、「描かれたアヘン戦争」を象徴する版画作品として、あらためて注目されるべき1枚ではないでしょうか。

(参考)上掲は同じ作品であるが、一枚ごとにて彩色が施されているため、現存作品ごとに(保存環境や経年変化による影響もあるが)色味が微妙に異なる。