書籍目録

『草木誌』

ドドネウス / クルシウス

『草木誌』

(プランタン最終改訂版) 1644年 アントワープ刊

Dodoens, Rembert / Clusius, Carolus.

CRVYDT-BOECK REMBERTI DODONÆI, volghens sijne laetste verbeteringhe:... Item, in ’tlaestste een Beschrijvinghe vande Indiaensche ghewassen, meest ghetrocken uyt de schriften van CAROLVS CLVSIVS. Nu wederom van nieuws oversien ende verbetert.

Antwerpen, Plantijn, Balthasar Moretus, M. DC. XLIV(1644). <AB202421>

Reserved

Final revised edition by Plantin.

Folio (23.0 cm x 37.0 cm), Half Title., illustrated Title., 16 leaves, pp.1-1492, 30 leaves, Modern brown full leather, skillfully repaired and restored.
タイトルページ最初の用紙の余白部に補修跡あり(欠損なし)。 pp.318-799の図版には手彩色が施されている。 Zzzzz6(pp.1379/1380)の余白部分に欠損があるが和紙?にて補修済み.。図版やテキストに欠損なく、全体として非常に良好な状態。

Information

「本書ほど長く、かつ大きな影響を日本の学問界に与えたものはない」とまで言われるほど、ヨーロッパ、日本の双方において長きにわたって読み継がれた植物図譜の傑作

フォリオ判で1,500ページに迫る分量と2,000枚を超える膨大な数の木版画を収録しているこの書物は、「江戸時代に輸入された西洋博物書は数多くあるが、本書ほど長く、かつ大きな影響を日本の学問界に与えたものはない」(印刷博物館、後掲書92ページ)と評価されている作品で、1644年にアントワープの名門出版社、プランタン社から刊行されています。博物学が急速に興隆しつつあった16世紀後半の北ヨーロッパにおいて絶大な影響力を誇り、それが後年の日本においても多方面において大きな影響力を与えたという、極めて重要な作品です。

 本書の著者であるドドネウス(Rembert Dodoens, 1517 - 1585、ラテン語表記ではDodonaeus)は、現在のベルギー北部の街メヘレンで父が医師を務める家庭で生まれました。メヘレンにほど近く当時のヨーロッパ北部のカトリック諸国を代表する大学であったルーヴェン大学で天文学や医学、薬学を修めたのちに父を継いでメヘレンで医師となりますが、スペインとの間で勃発したオランダ独立戦争において1573年にメヘレンが壊滅的な被害を被り家業の断絶を余儀なくされてしまいます。ドドネウスは1550年代からすでに多くの天文学や植物学に関する著作を刊行しており、高い名声を得ていたため母校であるルーヴェン大学やフェリペ2世らから要職を提示されましたが、ドドネウスはこれらをいずれも断り、神聖ローマ帝国マクシミリアン2世らによるウィーンへの招聘に応じた後に、オランダがプロテスタントのために新たに設置したライデン大学において医学教授となり、彼の地で1585年に亡くなりました。

 ドドネウスが活躍した16世紀後半のヨーロッパでは、ルネサンスによって古代ギリシャにおいて発展した自然学への注目が高まると同時に、大航海時代において次々ともたらされる地理的発見とそこに生息する動植物に対する関心が高まっており、あらゆる動植物や鉱物などを収集、分類して研究する「博物学」と呼ばれる学問が興隆しつつありました。こうした動向は、図版印刷のための優れた印刷技術を有していたドイツ語圏において特に盛んになり、豊富な図版入りの書物が数多く刊行されるようになっていきました。コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner, 1516 -1565)の『動物誌』(1553年〜1587年)や、レオンハルト・フックス(Leonhart Fuchs, 1501 - 1566)の『草木誌』(1542年)をはじめとして、中世期の写本と比べてはるかに精緻で正確な木版画をふんだんに用いた「図譜」とも言えるこれらの書物は、ドイツ語圏を中心にして各国、地域へと伝搬し、神の御業である被造物の世界の探究が信仰を高めると考えたプロテスタント地域において特に大きな影響を与え、各地で研究が一層進められていくことになりました。ドドネウスによる『草木誌』はまさにこうした時代背景のもとに生み出された作品であると言えます。

 ドドネウス『草木誌』は、1554年にオランダ語で書かれた初版が刊行されて以降、継続的な増補、改訂、図版の追加等がなされながら幾度も版を重ねるとともに、ラテン語、英語、フランス語等の各国語への翻訳版も刊行され、当時のヨーロッパにおける大ベストセラーとなりました。ドドネウスの死後も出版社であるプランタン社によって増補改訂作業は継続され、その内容の充実が図られるとともに、記述のあり方が一層洗練されていっており、こうした変遷は同時代の植物学、博物学の発展を反映しているとも言えます。このように長期間にわたって多くの版画刊行されたドドネウス『草木誌』にあって、本書はその内容が最も完成されているとみなされている最終改訂版で、1644年にアントワープにおいて刊行されています。本書に至るまでの各版のおおよその変遷を簡単にまとめますと次のようになります。

①1552年:初版(オランダ語)
②1557年:フランス語訳版
③1563年:改訂第2版(オランダ語)
④1578年:英語訳版
⑤1583年:プランタン本社による全面改訂版(ラテン語)
⑥1608年:⑤を底本としたライデンのプランタン社によるオランダ語版
⑦1618年:⑥を底本としたプランタン本社による改訂オランダ語版→江戸時代の日本へ舶載される
⑧1644年:⑦を底本としたプランタン本社による最終改訂オランダ語版→江戸時際の日本へ舶載される

 ドドネウス『草木誌』はアントワープの名門出版社が手がけた⑤において、図版、テキストともに特に大きな全面買い手がなされており、以降に出版されたオランダ語版や翻訳版は基本的にこの⑤においてなされた全面改訂を基本としています。ドドネウスは1582年にアントワープに滞在して、当時のヨーロッパを代表する屈指の印刷技術力を有していたプランタン社と『草木誌』の全面改定のための作業を進めています。プランタン社はその前年(1581年)に取得していた『草木誌』のそれまでの図版に用いられていた版木と、同社がそれ以外の植物図譜作品のために製作していた版木とを合わせるとともに、ドドネウスと共同で新たな図版のための版木製作を進め、以前の版を質・量ともにおいてはるかに凌ぐ木版図を完成させました。また、ドドネウスはテキストの構成もあらためて、本書中で論じられる膨大な数の植物をより整理して論ずるべく、次のような構成としました。

索引
第1部:総論、ならびに第2部以降の分類のいずれにも該当しない例外的な植物(全1類) [pp.1-228]
第2部:花類、香草類など(全5類) [pp.229-520]
第3部:薬草類、毒草類、シダ類、キノコ類など(全5類) [pp.521-790]
第4部:雑穀類・豆類、飼料植物類、水草類など(全5類) [pp.791-960]
第5部:野菜類、根菜類、食用香草類など(全5類) [pp.961-1160]
第6部:樹木類(全5類) [pp.1161-1362]
補論:インドの植物* [pp.1363-1492]
(*この部分はドドネウスによるものではなく、『草木誌』のフランス語訳も手がけた植物学者で、ドドネウスと同じくライデン大学で植物学の教授を務めたクルシウス(Carolus Clusius, 1526 - 1609)の著作からの抜粋が中心となっている)
各国語別名称索引

 上記全6部はさらに各5章構成となっており、各省において一つの類が取り上げられ、合計26類(+インドの植物)に分離して膨大な数の植物たちが紹介されています。ドドネウスによる分類は、実用的な観点による分類と、形質的な類似性に着目した客観的な分類とが混合しており、近代的な植物学と比べると未整理な分類とも言えますが、「植物の同定が容易な説明文と薬効に関する豊富な情報を掲載していることが同書の特徴であり、広く流布した理由の一つである」(クレインス後掲書)と評価されていることに鑑みると、実用性と科学性とをあえて併用して分類することで、双方のニーズに応えることを可能とした画期的な構成であったとも言えます。「収録植物1種ごとに、異種、形態、生育地、時期、名称、性質、薬効などの項目別に説明文が掲載されている。また収録対象となった植物の大部分には、その形状を示す木版画が付されている」(前掲同書)本書は、当時の学問的、実用的なニーズの双方に応えることができる極めて優れた植物図鑑であったと言えるでしょう。

 このように当時のヨーロッパにおいて高く評価され、大ベストセラーとなったドドネウス『草木誌』は、江戸時代に日本へともたらされ、日本における「本草学」研究に多大な影響を与えただけでなく、それ以外の蘭学関連書において図版、テキストが引用、参照されるなど、多方面にわたる影響を与えることになりました。「江戸時代に輸入された西洋博物書は数多くあるが本書ほど長く、かつ大きな影響を日本の学問界に与えたものはない」(印刷博物館、後掲書)とまで評されるように、本書が江戸時代の日本社会の多方面にわたって与えた影響は絶大なものでした。当時の日本にもたらされたドドネウス『草木誌』は、1618年オランダ語版(上記⑥)と、本書である1644年オランダ語版(上記⑦)であることがわかっており、江戸時代の早い時期から注目され、「独独匿烏斯」や「鐸度涅烏斯」といった表記でドドネウスの名は知られて八代将軍吉宗の時代の蘭学推奨期に本格的に活用、翻訳が進み、幕末に至るまでの長期間にわたって読み継がれる作品となりました。

「長崎オランダ商館史料にみられる情報によると、1650年代から1680年代にかけて複数の『草木誌』が日本に舶載され、大目付井上正重や老中稲葉正則、加賀藩主前田綱紀に献上された。平賀源内によると、徳川吉宗の時代にも5部が舶来し、吉宗が1部、田村藍水が1部、長崎通詞が2部、源内自身が1部を保有していたという。蘭学勃興期にさらに複数部が舶載されたと推測される。
 『草木誌』に最初に注目したのは井上正重である。1653(承応2)年に同書のポルトガル語への翻訳をオランダ商館長に要請したが、実現しなかった。その80年後の1737(元文2)年と1741(寛保元)年には書物奉行の深見有隣が長崎屋に滞在中のオランダ商館長をたびたび訪問し、幕府所蔵の『草木誌』について質問している。野呂原状は1742(寛保2)年以降1750(寛延3)年までほぼ毎年、オランダ人の江戸滞在期間中に長崎屋に通い、通じたちの助けを借りて『草木誌』から抜粋した119種の植物についての記述を抄訳し、各年ごとの「阿蘭陀本草和解」として記録した。
 18世紀後半に複数の通詞がそれぞれ『草木誌』の翻訳に取り組んだ。松村元綱編「和蘭本草摘要解」には『草木誌』から8種類の植物の図版の模写と一部の抄訳がみられる。訳者は加福安次郎である。ほぼ同時期に吉雄耕牛が著した「独独匿烏斯本草アベセ類聚」には、63種の植物についてそのオランダ語名とそれに対応する日本語名と中国語名が掲載されている。ほかに、189種の植物の図と説明を掲載している「鐸度涅烏斯絵入」(編者未詳)という手稿本がある。
 松平定信は1793(寛政5)年に石井当光(庄助)に『草木誌』の全訳を命じた。当光の死後に吉田正恭が翻訳作業を継続し、羽栗費(吉雄俊蔵)と荒井行順の協力を得た上で、1823(文政6)年頃に「遠西独度匿烏斯本草譜」の題で訳稿を完成させた。しかし、江戸の大火で訳稿の大部分が焼失した。
 この頃、本草学者小野蘭山は幕府の命により医学館に配属され、『草木誌』の本格的研究に乗り出し、668種について中国語名と日本語名を同定した。その成果は蘭山没後の1815(文化12)年に宇田川榕菴によって「遠西鐸度涅烏斯私物品考名疏」として編纂された。
 『草木誌』は、幕末に至るまで西洋植物学の参考書として蘭学者と本草学者の間で絶大な影響力を持ち続けた。」
(フレデリック・クレインス「ドドネウス『草木誌』 洋学史学会(監修)『洋学史研究事典』思文閣出版、2021年、142ページより)

「『草木誌』は意外な書籍にも引用されている。例えば医学書。前掲『解体新書』にも『草木誌』は引用された。巻四。4折表にある原文への注記で「小嚢を称する際その形がペールス(洋梨)のようであり、「実際の洋梨の形を確認するためにトトニウス(ドドネウス)の『草木状(草木誌)』を調べてみると、その形は長く、わが国で産する梨とは形状が異なっていた」、と杉田は述べている。次に外国地誌。蘭学者の森島中良が1789(寛政元)年に著した『萬國新話』は、アジアの地理概説から始まり、植物・動物の名称、国別、人種別の内容に触れた書物であるが、『草木誌』からの引用が2カ所、①巻一・8折裏「根樹之図「ドドニヨース」紅毛本草なり、に載る所の図なり、②9折裏「哀樹之図「ドドニヨース」の図」がある。医学書にしろ外国地誌にしろ、未知の植物、薬草を知るために「草木誌』の、とくに詳細な挿絵がおおいに参照されていたことがわかる。(中略)
 日本でプランタン蘭書が活躍するのは、18世紀から19世紀にかけてである。ワルエルダ『銅版画を用いた人体解剖図詳解』にしろドドネウス『草木誌』にしろ、17世紀前後に印刷された書物であることを考えると、情報の「新鮮さ」に欠けたのは明らかだが、洗練された挿絵と見事なアルファベット群を通して、西洋合理主義に基づいた自然科学の精神を江戸中期の日本に植え付けることに成功した。プランタン蘭書の価値はまさにこの点にあるといえるだろう。」
(中西保仁「オフィシーナ・プランティニアーナと日本」印刷博物館(編)『プランタン=モレトゥス博物館展 印刷革命がはじまった:グーテンベルクからプランタンへ』2005年97ページより)

 ドドネウス『草木誌」は、刊行当時のヨーロッパを代表する出版社であったプランタン社の傑出した印刷技術力と、高い名声を得ていたドドネウスとの協力によって生み出され、広く、長くヨーロッパで大きな影響を与えた名著でありつつ、江戸時代の日本においても多大な影響を与えたという類稀な書物であると言えます。本書はこの名著の、江戸時代の日本へともたらされてたことが確認されているプランタン社が手がけた最終改訂版であるという点、また後年のものとは言え非常に見事な製本が施された状態の良さに鑑みますと、極めて価値ある1冊であると言えるでしょう。

 なお、本書を刊行したアントワープのプランタン社はその工房全体が往時の姿のまま保村されており、本書のために用いられた表紙の銅版や図版のための版木も現存しています。現在は世界遺産にも登録されている公共の博物館として一般に開かれており、来館者は同社に保管されていた書物(本書と同じく1644年版)と合わせて実際に同社で用いられたこれらの版木や銅版を目にすることもできます。


*ドドネウス『草木誌』とその背景事情や影響に関する参考文献は、上記中で引用した書物以外にも多数ありますが、特に下記の3点が参考になり、上記解説の執筆に当たっても大いに参照しています。

W. F. Vande Walle (ed.) Dodonæus in Japan: Translation and the scientific mind in the Tokugawa period. Leuven: Leuven University Press/ International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, 2001.

西村三郎『文明の中の博物学:西欧と日本』上下巻、紀伊國屋書店、1999年

東洋文庫ミュージアム(編)『フローラとファウナ:動植物誌の東西交流』、2023年


「(前略)(野呂)元丈は、吉宗の命によって、江戸城内の紅葉山文庫に蔵されていた西洋本蔵書の翻訳を、毎年将軍に拝謁するために江戸へ来る商館長ら一行に問いただしておこなうことになった。もちろん一行に随行してくる通詞の通訳を介してである。この作業は、寛保元年(1741)から寛延三年(1750)までの通算9回にわたって行われた。最初に取りあげられたのはヨンストンの『諸動物の詳説』だったが、これは本草つまり薬物学的記述が少ないとの理由で、初回のみで打ち切り、第二回からはもっぱらドドエンスの『草木誌』をテキストにしておこなわれた。その翻訳のやり方は、元丈があらかじめ書物のなかから質問したいと思う品目を決めておいて、それについて通詞をはさんで、商館医との間で質疑応答しながら訳出していくというものだった。こうして、ドドエンスの書物を元に、西洋博物書の最初のある程度まとまった和訳と称すべき、毎回の質疑応答の報告書『阿蘭陀本草和解』8冊が、成った(寛保二-三年)。部分訳にしかすぎなかったとはいえ、杉田玄白らの、あの『解体新書』の訳述に先立つこと、二十余年である。」
(西村前掲書(下巻)461-462ページより)

比較的最近のものと思われる改装と修復が施されており、良好な状態。
仮表題紙初め冒頭の何葉かの余白部に補修跡が見られる。
印象的なタイトルページ。
出版を手がけたプランタン社の第3代目にあたるバルタザール・モレトゥスによる序文
本書全体の構成が最初に示されている。
プランタン社が1583年から1618年までの間に設けていたライデンの工房を率い、卓越した学識の持ち主としても名高かったラファレンギウスによる序論。
本文の前には索引が設けられている。
第1部:総論、ならびに第2部以降の分類のいずれにも該当しない例外的な植物(全1類) [pp.1-228]
第2部:花類、香草類など(全5類) [pp.229-520]
pp.318-799の図版には手彩色が施されている。
第3部:薬草類、毒草類、シダ類、キノコ類など(全5類) [pp.521-790]
第4部:雑穀類・豆類、飼料植物類、水草類など(全5類) [pp.791-960]
第5部:野菜類、根菜類、食用香草類など(全5類) [pp.961-1160]
第6部:樹木類(全5類) [pp.1161-1362]
補論:インドの植物* [pp.1363-1492] この部分はドドネウスによるものではなく、『草木誌』のフランス語訳も手がけた植物学者で、ドドネウスと同じくライデン大学で植物学の教授を務めたクルシウス(Carolus Clusius, 1526 - 1609)の著作からの抜粋が中心となっている。
森島中良が『萬國新話』の中で「ドドニヨース紅毛本草」として引用し、図版を転載した「根木之図」
本文末尾。本文に続いて収録されている植物の各国語での名称を記した索引が設けられている。
各国語で名称が異なり混乱の原因の一つとなっていた問題を解決し、当該植物の同定を可能にするために極めて有用な索引と言える。
ギリシャ語、ラテン語、アラビア語での名称も収録している。
索引末尾。
巻末にはプランタン社の象徴である「ゴールデン・コンパス」が掲載されている。
(参考)プランタン・モレトゥス博物館に現在も保管されている本書の印刷に用いられたタイトルページの銅版。
(参考)本書と同じ1644年版は同社を代表する作品として常設展示されている。