書籍目録

『中国学院(現ナポリ東洋大学)の歴史とその創立者マッテオ・リパらの生涯』

[アンニバリ] / ガンジェーミ

『中国学院(現ナポリ東洋大学)の歴史とその創立者マッテオ・リパらの生涯』

初版 1789年 ナポリ刊

[Annibali, De Latera Flaminius] / Gangemi, Nicola.

STORIA DELLA CONGRAZIONE, E COLLEGIO DELLA SACRA FAMIGLIA DI GESU’ CRISTO Colla vita del Fondatore D. MATTEO RIPA DEL CANONICO NICCOLA GANGEMI SOCIO DI VARIE ACCADEMIE: Estratta dal quarto Volume della Storia degli Ordini Regolari.

Napoli, s.n, MDCCLXXIX(1789). <AB202420>

Reserved

First (and only?) ed.

8vo (11.5 cm x 16.6 cm), Front. pp.[1(Title.), 2], 3-148, Contemporary vellum.

Information

ヨーロッパ最古の「中国学院」(現ナポリ東洋大学)の歴史とその創立者の伝記を初めて刊行した重要稀覯文献

 本書は、1732年に設立されたヨーロッパにおける最初の「東洋学」(ないしは中国学)の研究機関である「中国学院」(Collegio dei Cinesi)、すなわち現在のナポリ東洋大学(Università degli Studi di Napoli L’Orientale)の歴史と、その創設と初期の活動推進に尽力した宣教師マッテオ・リパ(Matteo Rippa, 1682 - 1746)の伝記をまとめた書物で、1789年にナポリで刊行されています。「中国学院」とリパについての最初の刊行作品と思われるもので、ヨーロッパにおける中国学と東洋学の礎となった人物と機関についての極めて重要な作品と言えるものですが、国内外を問わずほとんど現存が確認できない非常に貴重な書物です。口絵にはリパを描いた銅版画が付されており、康熙帝の宮中において銅版画技術の導入に尽力したことでも知られる著者を称えるに相応しい一冊です。

 本書の主役であるマッテオ・リパが康熙帝の宮中において活躍するおよそ1世紀ほど前、イエズス会は、中国宣教を志しながらも道半ばで帰天したザビエルの意志を継いで、ミケーレ・ルッジェーリ(Michele Ruggieri, 1543 - 1607)やマテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552 - 1610)らといった傑出した宣教師らを派遣して中国宣教を本格的に開始することに着手しました。彼らは天文学や測量学、幾何学、地理学といった実学分野での優れた見識を大いに活かして明朝の北京宮廷で信頼を獲得し、継続的に宮廷内で影響力を保持することに成功しました。清朝へと王朝が変転してもイエズス会士の有する実学知識は有用とみなされ、浮き沈みはありつつも、暦の作成や武器製造といった分野で存在感を発揮することで中国国内での宣教の足場を確保することができました。中国におけるイエズス会のこうした宣教活動は、ローマをはじめとしたヨーロッパのカトリック諸国で称賛される一方で、その布教方針をめぐって大きな反発(いわゆる「典礼問題」などは非常に有名です)も引き起こしており、中国に対する関心がヨーロッパ中で急速に高まっていくことになりました。さらに絶対王政の地盤を固め繁栄を極めつつあったルイ14世のフランスが、対外政策強化の一環として東インド会社を立ち上げて使節団を派遣するなど、ヨーロッパと中国との関係は急速に深まりつつありました。

「上述の如き道程を辿って漸次発展してきた宣教師の支那研究、これに関連して起こりつつあった欧州在住学徒の支那学的労作等は1600年代の末期に至って更に一進転を遂げることとなった。それは本章の序説にも一言したようにルイ14世の対外方針の一として仏蘭西が諸種の目的、特に支那文物の研究を盛にする目的から一層積極的に優秀なる宣教師を東派することとなったのが原因であるが、当時あたかもかの「典礼問題」は更に紛糾を増し、益々彼等にとって支那事情の探究熱を高め刺したことも既に述べた通りであって、これらの形勢が互に表となり裏となって支那研究にかくのごとき新局面の展開を将来したのであった。勿論ルイ14世の意図の裏面には名宰相コルベールの政策が動いていたことはいうまでもないが、この時彼は偶々世を去るに至ったので実際にこの計画の実現に携わったのはその後事を託せられた陸軍卿ルヴォワ侯爵なる人であった。当時仏国には地理学・星学に関する従来の知識を補訂するの議があり、1666年コルベールの設立せる科学院 Académie des Sciences はこの目的のためにその会員を欧米各地に派遣したが、支那方面へは会員を派せず、耶蘇会の宣教師を以てその任に充つることとなったため、これが対支那新方針実現の最初の機縁となって俊秀の布教師が新たに支那に向かうこととなったのであった。1685年3月3日、特に数学に精通した6人の耶蘇会士を載せた船がブレストの港を解纜し、その年の9月に暹羅に到着、暫時その国都に滞在の後同行せる仏国の遣暹大使ド・ショーモンに別れ、一行の領袖フォンタネー(洪若望)以下ルコント(李明)、ヴィスデルー(劉應)、ブーヴェ(白進)、ヂェルビヨン(張誠)等の耶蘇会士は更に支那に向かって航海の途に上った。」

(石田幹之助『欧人の支那研究』日本図書株式会社、1946年、176-177ページより)

 こうしたヨーロッパにおける中国を取り巻く状況が聖俗双方において複雑化しつつあった事態を受けて、教皇クレメンス11世は、1622年に海外宣教の統括を目指してローマにおいて設立されていた布教聖省からの教皇直轄遣清使節として、1703年にトゥルノン(Charles-Thomas Maillard de Tournon, 1668 - 1710)らを北京に向けて派遣しました。この使節は、典礼問題においてヨーロッパで問題視されていた中国における祖先崇拝や儒教儀式への参加を厳密に禁止することを清の康熙帝に要求するべく派遣されたものでしたが、当然ながら康熙帝がそのような要求を飲むはずもなく、むしろそれまで比較的寛容であった康熙帝のキリスト教布教に対する態度を硬化させることとなりました。その結果、トゥルノンはマカオへと追放され、さらに許可なき宣教師の中国からの追放令が出されることになってしまいました。

「『典礼問題』とは何かというに、(中略)要するにこれは新来の西教士間に耶蘇教の本義と支那在来の礼俗との間にどの程度までの妥協を許すかというのが理論上の中心問題であるが、実質的には耶蘇会派の宣教師と他派のカトリック教士との間における勢力争いとも見得る問題である。初めマッテオ・リッチ等の支那に伝道するや、改宗者にはその古来の慣習儀式の保守を許し、祖先の祭祀・孔子の崇拝等も皆これを寛容して敢えて問わず、祭天の儀礼も必ずしも耶蘇教の上帝尊崇と矛盾するものに非ずと認め来ったものであるが、彼らが多くの入信者を得、その声望を増した成功の因もまたここにあったと思われる。しかるに耶蘇会派の執ったこの布教方針は後から至った他派の宣教師、すなわちドミニコ派、アゴスチーノ派、海外伝道教会(Mission étrangés)等の教士の大いに難ずるところとなり、これらの異論者は一致団結してこれをローマ法王に訴えることとなった。よって法王クレメント11世は1704年(康熙四十三年)教書を下して支那在来の祭祀は偶像崇拝に堕せるものなるを宣告し、耶蘇教徒は何派といえどもこれを容認修合することを禁止した。翌年アンチオキアの大僧正、デ・ツルノンは法王の命を奉じて北京に至り、康熙帝に謁して法王の意のあるところを奏したが、帝は一面非常なる優遇礼遇をもってこれに対すると同時に、その述ぶるところには断固として耳を傾けず、支那における祖先崇拝の真意を説明し、また他国の君主なるローマ法王が支那の人民に対して法令を制定するの謂れなきことを縷述した。デ・ツルノンは北京に滞在中、改めて法王より1704年11月20日付の教書を得たが、これは一層明確に耶蘇会派の伝道方針を難じその実行を厳禁したものであったがために、彼は四周の形成を観望して敢えてこれを発表せず、まづせめて在支各会派の宣教師を統括すべき総主教の如きものの設置とその権限との承認を懇請したが、帝は耶蘇会派諸師の勧告にもとづいてこれを拒み、支那人の祭天・崇祖・釈尊等の諸礼が決してキリスト教の真諦と撞着するものにあらざるを指摘し、この決定に従わざる宣教師は一律に国内より追放を命ずる旨を諭達した。その結果もと南京に在り、初めよりこの問題について法王との間に居仲斡旋の任にあった海外伝道教会のメイグロー師は直ちにマカオに放逐せられたが、デ・ツルノン大僧正は一旦南京に至り、なお帝と法王との間に最後の妥協点あるべきを思いて種々苦慮するところあり、北京において受領せる法王の教書もなお形勢を慮って敢えて公表せず、時局の好転を庶幾して時機の到来を待っていた。而も一般の情形は有利に展開せず、遂に意を決して教書の摘要を作り、これを一個の声明書として自己の名を以て公宣し、康熙帝の見解を反駁してこれを排斥し、法王の諭旨に服従しない宣教師は即刻支那より退去すべきことを命令した。これは1707年2月のことであるが、これにおいて帝は直にツルノンを逮捕し、マカオに送って葡萄牙人をしてこれを監視せしめることとした。葡萄牙人はつとに耶蘇教の宣布に関し東洋伝道の特権を掌握し、他国人のこれを侵すことを甚だ喜ばぬ風があった。今デ・ツルノン大僧正がリスボンに至て葡萄牙王の允許を受けず、恣に支那に発向したことは大いにその感情を激発し、ゴア大主教の統管権を無視して別に支那教区の総司教創置のことを清廷に請うた件もまたこれを助け、葡人はデ・ツルノンを悪むこと甚だしく、這次勅命の下りしを好機として彼を監禁すること厳重を極め、ツルノンは遂に限りなき憤瞞のうちに1710年獄裡に客死するに至った。」
「この問題の起こった結果として各派の宣教師はいずれも自派擁護のために詳らかに支那の礼俗の研究を試み、その報告・論難等は大いに欧州の教界を刺激し、茲に支那の文物に対する西人の知識に一大進展を見るに至ったのであって、これは近代における欧西の支那知識発達史上に忘るべからざる事件であった。」
(石田前掲書、148-151、152ページ)

 リパはトゥルノンと同じく布教聖省からの康熙帝への使節として、他の聖職者ら数名と共に教皇から派遣された後続の宣教師で、トゥルノンの後を追って北京へと向かうべく1708年にヨーロッパを出発しました。トゥルノンら先行使節と康熙帝との交渉が完全に破綻したことを受け、北京に到着したリパらは非常に厳しい立場に置かれますが、康熙帝は宣教師たちがもたらす実学知識の有用性については高く評価していたこともあって、幸い画学と銅版画技術において優れていたリパは康熙帝からの信頼を得ることに成功し、北京宮中に滞在することが許されました。リパはその後、康熙帝が没するまで10年余り北京宮中に仕え、その間に康熙帝の避暑地であった熱河の山荘を描いた『御製避暑山荘三十六景詩図』や、宣教師らの測量によって完成した中国最初の実測中国図とされる『皇輿全覧図』の銅板製作と印刷を行うなど、康熙帝以後の皇帝らにも影響を与える精緻な銅板印刷を中国にもたらしたことでも知られています(リパによってもたらされた銅版画技術の発展版として、後代の乾隆帝が宣教師カスティリオーネらに製作させた自身の「十全武功」中の西方遠征を16枚の精緻な銅版画で再現した「準回両部平定特勝図」(現在は東洋文庫等が所蔵)などは特に有名)。康熙帝の没後10年以上過ごした北京を1723年に去ったリパは、ヨーロッパへと帰国する際に4人の中国人キリスト教徒を連れ帰り、ヨーロッパで中国人宣教師を養成することを計画し、そのための教育・研究機関をナポリに設立することに尽力しました。この機関こそが、現在のナポリ東洋大学の起源となった「中国学院」で、教皇クレメンス12世によって1732年に正式に認可、発足したヨーロッパ最古の中国学・東洋学研究所です。

 この「中国学院」では、中国に派遣するための宣教師を養成することを主目的として、中国語や中国文化についての教育、研究が活発に行われ、また当時ナポリを支配下に置いていたオーストリア・ハプスブルク家の東インド政策に資する人材を養成することも目的の一つとされるなど、聖俗双方から次第に関心の高まりつつあった中国、東インドについてのより深い理解と実践的な政策を進めるための教育・研究機関となっていきました。リパ自身が北京宮中で10年以上も康熙帝に使えたという類稀な経歴を有する人物であったからこそ、その彼が創設と初期の発展に尽力した「中国学院」は、それまでのヨーロッパでは見られなかった本格的で実践的な中国・東洋学研究所となることができたと言えます。その意味ではリパがナポリのみならずヨーロッパ全体における中国学、東洋学研究の歴史において果たした役割は非常に大きなもので、現在のナポリ東洋大学の校章においてリパの姿が描かれていることにもうなづけます。

 1789年にナポリで刊行された本書は、このようにヨーロッパにおける本格的な中国学・東洋学の教育・研究機関の創始者であったリパの伝記と、「中国学院」設立の背景、最初期の活動史を綴った作品で、このような主題を扱った刊行書物としては最初の書物ではないかと思われます。タイトルに「諸修道会の歴史、第4巻からの抜粋」(Estratta dal quarto Volume della Storia degli Ordini Regolari)と書かれているのは、イタリアのフランシスコ会史で歴史家であったアンニバリ(Flaminius Annibali de Latera, 1733 - 1813)とガンジェーミ(Niccola Gangemi)が当時執筆中であった全4巻からなる壮大な作品『既存修道会の歴史とその創立者たちの伝記』(Storia degli ordini regolari colla vita de’loro fondatori del P. Flaminio Annibali.)の第4巻の一部として執筆された記事が、本書の底本となっているからです。ただし、本書刊行時点ではこのアンニバリらによる『諸修道会の歴史』全4巻はまだ刊行されていない(1790年から91年にかけて初版刊行、96年に改訂版刊行)ため、本書は先行版とも言える位置付けで、リパの生涯と彼が創立に尽力した「中国学院」がいかに偉大なものであるのかを、ヨーロッパの読者にいち早く、他の記事とは切り離して個別に広めるために、あえて本編に先駆けてナポリで刊行されたのではないかと推測されます。

 このような背景のもとで刊行された本書の内容は、リパの伝記と「中国学院」についての記述が主眼に置かれているとは言え、リパに至るまでのヨーロッパと中国との交流史、とりわけ先述したイエズス会士マテオ・リッチらに始める中国宣教と文化交流の歴史が非常に詳しく論じられていることが注目されます。先に見たルイ14世が派遣した宣教師団についても言及されているほか、中国の歴史の概要や孔子をはじめとした諸学問(信仰)のことなど、中国誌概説のような記述もあり、当時の読者に中国がそもそもどのような国であるのかといった解説も丁寧になされているように見受けられます。
 また、リパが中国に派遣される直接の契機となった先行遣清使節であるトゥルノンらが教皇クレメンス11世によって派遣された背景事情や、康熙帝との交渉過程などについても詳しく言及されていて、どのような歴史的文脈においてリパが北京に入京し、康熙帝の信頼を勝ち得ていったのかが詳述されています。北京入り後の宮廷におけるリパの宣教師としての活躍と、帰国後の中国学院の設立に尽力する様子は特に詳しく記述されており、康熙帝とのやりとりに関するさまざまな具体的なエピソードや、リパが「中国学院」設立を思い立つきっかけとなった中国人のキリスト教信者との出会い、北京を発ってから帰国するまでに生じたさまざまな困難や、学院設立に至るまでの幾多の苦労、そして現在の学院の様子とカリキュラムなど、本書がリパと中国学院について最初に刊行された書物であることに鑑みると、非常に充実した記述で構成された作品であると言えます。著者とリパとの年齢差を考えると両者の間に直接の交流があったとは考えにくいですが、おそらく著者はリパに関する豊富な史料群をもとに本書を執筆することができたであろうことが推測されます。

 このようにヨーロッパにおける中国学・東洋学の礎を築いた人物として、非常に重要な役割を果たしたリパについては、欧米列強諸国が中国への進出を一層強めていく19世紀半ばからに改めて再評価が進められ、1832年には全3巻からなる浩瀚な伝記作品(Storia della fondazione della congregazione e dell collegio de’ dinesi sotto il titolo della Sagra Famiglia di G. C. scritta dallo stesso fondatore Mateo Rippa e de’ viaggi da lui fatti. 3 vols. Napoli: Mangredi 1832)が刊行され、1852年には再版が、さらにはその英訳版(Memoirs of father Ripa, during thirteen years' residence at the Court of Peking in the service of the Emperor of China. London, 1861)も刊行されています。リパや中国学院についての基本文献として同書が参照されることが多いようですが、それよりもはるかに先んじて刊行された本書については、これまでその存在すらほとんど認知されていないようで、国内研究機関は言うに及ばず、イタリア国内においてですらわずか数点しかその所蔵を確認することができません。17世紀から18世紀初めにかけての中国におけるイエズス会士の活躍や上述したトゥルノンの康熙帝への派遣、またルイ14世による宣教師団の派遣など、リパの中国滞在と同時代の多くの出来事について多数の文献が刊行され、研究がなされている状況に鑑みると、本書がこのように半ば忘却されてしまっているのは不可思議とも思えることです。

 康熙帝の下で10年以上北京に滞在し、ヨーロッパにおける最初の中国学・東洋学研究機関を設立したリパの伝記作品として、またリパに至るまでのヨーロッパ人宣教師たちを中心とした西洋と中国との関係史を詳述した作品としても、本書はその重要性、希少性の双方において大変貴重な1冊ではないかと思われます。

刊行当時のものと思われる装丁で良好な状態。
口絵にはリパを描いた銅版画が付されており、康熙帝の宮中において銅版画技術の導入に尽力したことでも知られる著者を称えるに相応しい
タイトルページ。
序文冒頭箇所。
本文冒頭箇所。
中国の歴史の概要や孔子をはじめとした諸学問(信仰)のことなど、中国誌概説としても読める記事となっている。
イエズス会士マテオ・リッチらに始める中国宣教と文化交流の歴史が非常に詳しく論じられていることが注目される。
絶対王政の地盤を固め繁栄を極めつつあったルイ14世のフランスが、対外政策強化の一環として東インド会社を立ち上げて宣教師使節団を派遣したことにも言及している。
リパが中国に派遣されるまでの西洋と中国との関係や中国研究の概説といった、リパ派遣の背景事情が詳しく論じられている。
その上で「典礼問題」に揺れるローマでクレメンス11世によって遣清使節の派遣が決まったことや、その目的などについて論じている。
クレメンス11世が派遣した
トゥルノンら先行使節と康熙帝との交渉が完全に破綻したことを受け、北京に到着したリパらは非常に厳しい立場に置かれることになったが、康熙帝は宣教師たちがもたらす実学知識の有用性については高く評価していたこともあって、幸い画学と銅版画技術において優れていたリパは康熙帝からの信頼を得ることに成功した。
10年以上に及ぶリパの北京滞在については、リパの事績がさまざまなエピソードと共に語られている。
10年以上過ごした北京を1723年に去ったリパは、ヨーロッパへと帰国する際に4人の中国人キリスト教徒を連れ帰り、ヨーロッパで中国人宣教師を養成することを計画し、そのための教育・研究機関をナポリに設立することに尽力した。
リパがその創設と初期の活動に尽力した「中国学院」について、その歴史、初期の活動、(執筆当時の)現在のカリキュラム、状況などは詳しく論じられている。
本文末尾。