書籍目録

『ジャパン:海外旅行雑誌:(関東大震災)1周年記念号』

東洋汽船会社 / キング・スティール(編)/ 小圃千浦(表紙)

『ジャパン:海外旅行雑誌:(関東大震災)1周年記念号』

1924年9月号(通算第13巻第12号))  1924年(8月1日) サンフランシスコ刊

Toyo Kisen Kaisha / King Steele, James (ed.)

JAPAN: OVERSEAS Magazine of Travel: "ONE YEAR AFTER EDITION" Presenting illuminating views of what has been accomplished in Tokyo since the disaster of 1923.

San Francisco, Toyo Kisen Kaisha / James King Steele, 1924. <AB202401>

Sold

September 1924(Vol. XIII, No.12)

23.5 cm x 31.0 cm, pp.1–3(colophon), 4-104, Original pictorial paper wrappers.
一部のページに汚れ、破れが見られるが大きな欠損はなく概ね良好な状態。

Information

関東大震災からの復興1周年を記念した通常号よりもボリュームが増した特別号

 この英文雑誌を発行した東洋汽船は、明治から昭和にかけて日本の旅客業界の中心の一角を担っていた海運会社です。現在の商船三井である大阪商船と日本郵船と並ぶ海運会社として大型客船や太平洋航路の運営など積極的な経営方針で知られており、特に海外旅客の誘致には特に熱心で、創業者である浅野総一郎は、紫雲閣と名付けた自身の邸宅に海外からの主要な旅客を招いて宴会を催したりもしています。また、ジャパン・ツーリスト・ビューローの活動にも尽力し「亡くなられる迄殆んど欠かさずビューローの総会に出席され、われわれを大いに激励された」とビューロー25周年回顧録に記されているほどです(山中忠雄『回顧録』ジャパン・ツーリスト・ビューロー、1937年)。残念ながら東洋汽船の旅客部門は、1926年に日本郵船へと売却されてしまいますが、本誌は全く同じ体制と頻度で刊行を継続しています。

 

 この1924年9月号は、「1周年記念号」とされており、これは前年9月の関東大震災から1周年を迎えるに際しての特集号であることを意味しています。小圃千浦による表紙も、震災から復興する街並みの様子が描かれており、伝統的な木造建築の背後に聳え立つ近代的なビルディングの後ろから上る朝日という構成は、震災から急激な復興を遂げつつある日本を象徴したデザインであると言えます。本文中でも東京や横浜といった甚大な被害が生じた都市の首長や、渋沢栄一、後藤新平らによる寄稿記事が掲載されていて、現在の復興状況と課題などが論じられています。また、17ページから52ページにかけては、本業の副題が明記しているように現在の東京、横浜各地の状況を撮影した写真が掲載されており、その復興状況が伝えられています。また、浮世絵、特に歌川広重の研究家であったJohn Stewart Haperによる震災よって失われた貴重な浮世絵作品を悼む記事や、東洋汽船会社の総帥である浅野総一郎、日本郵船会社社長の伊藤米治郎による記事など、通常号に比べてかなり充実した内容となっています。本紙の通常号は概ね70ページ前後ですが、こうした特集記事が多数掲載された本号は104ページとなっています。

 本誌は英文で発行された日本観光関連雑誌としては極めて早い時期のもので、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立以前の1910年に創刊された旨が記された号も存在しますが、正確な時期は明らかではありません。1917年6月号として刊行された号には、「旧シリーズ」(Old Series)としては、、「第6巻第2号」(Vol.VI, No. II)とされており、「新シリーズ」(New Series)の「第1巻第1号」(Vol.I, No.I)とされていることから、この号がリニューアル創刊号であることがわかります。「旧シリーズ」の第6巻とされていることに鑑みると、創刊時期は1912年頃ではないかと推測されます.

 1917年6月号をよく見てみますと、「Published monthly by Toyo Kisen Kaisha, succeeding T. K. K. Topics」と目次に記載されており、本誌が月刊誌として刊行される雑誌であることと、継続前誌が「T.K.K. Topics」すなわち「Tokyo Kisen Kaisha Topics」であることが、ここから明らかにできます。つまり、「旧シリーズ」とされていた本号以前までは、「Toyo Kisen Kaish Topics」という誌名で発行されていたということを特定することができます。この誌名の雑誌を所蔵している研究機関は国内外でもほとんど確認できませんが、ニューポートにある The Marinners’ Museum and Parkの所蔵資料目録に、「第3巻第9号:1915年1月号」(Vol.3, no.9(Jan. 1915))、第5巻第2号:1916年6月号」(V.5, no.2(june 1916))という記載があることをかろうじて確認できます。この書誌情報では「T.K.K.Topics」の副題として「A representative monthly of Oriental travel and development published in connection with the passenger department of the Toyo Kisen Kaisha(Oriental S.S. Co.)」という表記があることも明記されています。これらの情報から類推すると、東洋汽船による英文月刊誌の最初期の変遷は下記の通りになるのではないかと思われます。

T.K.K.Topics(Toyo Kisen Kaisha Topics)
:A representative monthly of Oriental travel and development published in connection with the passenger department of the Toyo Kisen Kaisha(Oriental S.S. Co.)

1912年5月〜1913年4月:第1巻第1号〜第1巻第12号*
1913年5月〜1914年4月:第2巻第1号〜第2巻第12号*
1914年5月〜1915年4月:第3巻第1号〜第3巻第12号*
1915年5月〜1916年4月:第4巻第1号〜第4巻第12号*
1916年5月〜1917年4月:第5巻第1号〜第5巻第12号*
1917年5月:第6巻第1号
1917年6月:第6巻第2号=新シリーズ第1巻第1号(下記)

*実際には12号まで毎月刊行されなかった可能性もある。

Japan
: An illustrated magazine of Oriental travel and development. Published monthly by Toyo Kisen Kaisha, succeedint T.K.K.Topics.

1917年6月〜(新第1巻(通算第6巻)第1号〜

 この「新シリーズ創刊号」は、「第1巻第1号」とされていますが、その後は旧シリーズからの巻表記を引き継いだものと思われ(ただし号表記は一旦リセット)、1917年6月号を「第6巻第1号」として、以降も表記が継続されているように見受けられます。ただし、この後も不規則な発行であった可能性が高く、例えば「1918年12月号」は「第8巻第4号」とされていることが確認できるため、毎月発行であったとすれば、明らかに巻、号表記のいずれも齟齬が生じてしまいます。こうしたことに鑑みると、「Japan」と誌名を変更してからしばらくは変則的な刊行が続いたものと思われ、実際に現物を確認しない限りその変遷を辿ることはできないと言えそうです。

 また、この「新シリーズ創刊号」は、後年のものと比べるとそのサイズが一回り判型が小さくなっていますが、これも「1918年12月号」ではすでに以降見られるような大きさに変更されており、比較的早い時期にこのサイズに落ち着くことになったのではないかと思われます。さらに発行元も、この創刊号では東洋汽船がPublisherとして明記され、東洋汽船総帥の浅野総一郎(S.Asano)がPresident、W.H.AveryがEditior in-Chief、James King SteeleがManaging Editorとされていましたが、1921年12月号からは出版元として東洋汽船と並んでキング・スティールの名が編集者名と合わせて記されています。

 本誌創刊当時(1910年から12年頃)の日本における英文観光発行物としては、ビューローの前身にあたる喜賓会によるガイドブックやガイドマップ、日本郵船によるガイドブックなどがありましたが、月刊での英文雑誌としては、帝国ホテル内で発行されていた「武蔵野」と並んで最初期のものと言えます。しかも本誌は、日本で発行されていた「武蔵野」と違い、サンフランシスコで発行されていたため、アメリカをはじめとした国外への販売配布網が当初からかなり充実していたものと思われ、同時代の観光関係英文出版物に見られる広告のほとんどが日本国内企業によるものであるのに対して、アメリカの鉄道会社、ホテルなどの在米企業の広告が大半であることも大きな特徴と言えます。

 

 本誌の創刊から1930年3月号までの20年にわたって編集を務めていたのは、キング・スティール(James King Steele, 1875 - 1937)で、サンフランシスコを拠点にして日本を中心としたアジア諸国の情報をアメリカの人々に伝えることを目的に掲げ、精力的に編集活動に取り組み、自身もたびたびその筆をふるっています。キング・スティールが観光促進事業のためにフィリピンに招聘されてからはルーカス(Leonard J. Lucas)が編集を引き継いでいます。キング・スティールについては、カリフォルニアのHuntington LibraryのArt Collectionsに書簡や文書類のアーカイブがJapmes King Steele papers, 1909-1936(全2箱)として保管されている他、同じくHuntington LibraryのManuscripts Departmentにも James King Steele and travel-related ephemera collection(全5箱)というアーカイブが存在していることから、これらのアーカイブの収蔵されている資料を調査することによって、本誌編集や発行の背景、出版の変遷などをより詳細に辿ることができるのではないかと思われます。

 雑誌名は当初『ジャパン:東洋旅行と交易発展の絵(写真)入り雑誌』( "Japan" - An Illustrated Magazine of Oriental Travel and Trade Development)とされていましたが、1924年から25年はじめごろにかけての時点で、『ジャパン:海外旅行雑誌』(JAPAN. Overseas Travel Magazine)へと変更されています。店主自身は変更が行われた号を未見のため、確かなことはわかりませんが、店主の見る限り誌面構成や編集方針に大きな変更点はないように見受けられます。また、前述の通り、当初の発行主体であった東洋汽船の旅客部門が1926年に日本郵船会社へと売却されてからも、本誌は従前と大きな変更もなく刊行が継続されています。

 

 記事の構成は年代によって変化がありますが、月々の時節に応じた特集記事、日本の文化紹介記事、時事関連記事、紀行文、新造船、新路線の紹介、編者の論説、書評、在米日本協会の動向報告、書評記事、乗客のスナップショット紹介、季節のファッション紹介などが主な内容となっています。

 毎号工夫を凝らした意匠のカラー表紙と、本文中にふんだんに掲載されるモノクロ写真からすぐにわかるように、本誌は、当初からビジュアル面において大変魅力的な紙面構成をとっていることが特徴です。特に日本各地の風景を撮影したスナップ写真は、撮影者の作為性が過度に感じられないもので、被写体となった人々の自然な表情や雰囲気が伝わってくることから、日本への旅客誘致という目的においては、非常に効果的だったのではないかと思われます。現代の視点から見ると、日本をはじめとした近隣アジア諸国に人々の生活風景を伝える貴重な写真資料としても魅力的なものです。

 

 また、乗客紹介のページでは、太平洋間を往復する汽船の主だった乗客が写真入りで紹介されていて、後藤新平や大隈重信、新渡戸稲造といった政府、財界関係者の渡航履歴を追うことができるだけでなく、ハリウッドで活躍した映画スター早川雪舟や、オペラ『蝶々夫人』で国際的な名声を得ていた三浦環といった芸能、文化関係者、日本各地で西洋建築を手掛けたヴォーリズ(William Merrel Vories, 1880 - 1964)、作家で文学者の野口米次郎というように、政財界以外の多彩な人々が紹介されていて、思わぬ人物をスナップショットとともに見つけることができます。

 

 本誌のもう一つの大きな特徴は、アメリカから日本への旅客誘致という実利的な目的を越えて、優れた論説文や紀行文、書評記事などを掲載していることで、親日家、知日派とされる作家、知識人による記事や、東洋汽船で太平洋を渡った旅行者による紀行記事は、それ自身読み物として大変優れたものとなっています。なかでも、単身アメリカに渡り現地でジャーナリストとして成功し、積極的に日本事情を英文で発信していた河上清による時事問題を扱った記事は本誌に何度も登場しており、本誌が、国際的な政治状況の変動が激しかった時期において、日米友好の機運を高めるための媒体となっていたこともうかがえます。日本文化を紹介する記事もありきたりで一方通行的なものではなく、独自の切り口が感じられるもので、伝統文化や季節行事の紹介だけでなく、日本における女性の地位と社会進出といった、社会問題にも切り込んだ記事が多いことも特徴といえるでしょう。こうした記事内容そのものの質の高さと執筆陣の多彩さにおいては、同時代の類似雑誌と比べても際立って優れているといってよいでしょう。

 
 
 紀行文は、日本や中国、台湾、朝鮮、東南アジア諸国を訪れた旅行者によるものが多く、写真とともに著者それぞれの切り口からの見聞記や旅の経験が綴られています。東洋汽船の運営母体である浅野財閥総帥であった浅野総一郎は、東京三田に建てた自身の豪邸である紫雲閣に、東洋汽船の一等乗客を招待したことが知られていますが、本誌には紫雲閣に招待された人物による訪問記なども掲載されています。本誌に掲載されている紀行文は、直接的に見所や名所の訪問記を広告的に紹介することよりも、それぞれの著者の独自の視点や切り口に重きが置かれていることが特徴で、それ自身が優れた随筆として読めるようになっていることが特徴といえるでしょう。

 

 本誌には広告が多数掲載されていますが、先述の通り、サンフランシスコで発行されていたという類似他誌にない利点を生かして、在米企業の広告が中心となっていて、本誌がその販売網を通じてアメリカの読者に強い影響力を有していたことがうかがえます。また、こうした在米企業の広告は、日本をはじめとした東洋汽船が発着するアジア各国の企業がアメリカとのビジネスを模索する際のディレクトリーとしての役割を果たしていた面もあるようです。多くの商社、自動車会社といった企業国公だけでなく、サンフランシスコやニューヨークの主要なホテル、鉄道会社、汽船会社の広告などに加え、日本の鉄道局(Japanese Government Railways)や、ジャパン・ツーリスト・ビューローの広告も掲載されていて、これら広告の変遷を辿るだけでも、当時の観光業界の様相を垣間見ることができそうです。

 

 本誌は、日本を対象とした観光関連英文雑誌の嚆矢として創刊され20年以上の長きにわたって刊行が続けられた雑誌である一方、国内研究機関における所蔵は極めて少なく、また断片的となってしまっています。英文観光雑誌の先駆者としての意義だけでなく、観光誘致の枠組みを越えた本格的な日本文化発信のための総合雑誌としても評価することができる本誌は、その全体像の把握と本格的な研究が待たれるものと言えるでしょう。