カテゴリ一覧を見る
Categories
木活字版 1861(文久元)年 出版地不明(黄雪刊)
<AB2023191>
¥55,000
14.0 cm x 22.0 cm, 3、3、4、2、11、2丁, 一部に虫食いによる損傷が見られるが、概ね良好な状態。
Information
ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちくださいませ。 「江戸幕府が初めて欧米世界に派遣した使節である万延元年の遣米使節は、安政5年(1858)に締結した日米修好通商条約の批准書を米国ワシントンで交換するのを第一の目的とし、併せて米国の諸事情を視察・調査するものであった。正使として外国奉行兼神奈川奉行の新見豊前守正興、副使として同じく外国奉行兼箱館奉行・神奈川奉行の村垣淡路守乃範正が任ぜられ、目付として小栗豊後守忠順が同行、これら三使を含めて一行17名がアメリカ海軍のポーハタン号に乗ってアメリカへ向かった。軍艦奉行木村喜毅(芥舟)・艦長勝麟太郎(海舟)が乗り組み、日本の船として初めて太平洋横断に成功した咸臨丸は、この時の随行鑑である。福沢諭吉も木村喜毅の従者としてこの咸臨丸に乗り組んでいた。 幕府勘定組頭の職にあった森田清行(号を桂園)は使節の会計方を務めていた。使節の中では三使に次ぐ地位にあり、年齢的にも49歳ということもあって、森田は一行における裏方の要として大きな役割を果たした。正使新見正興には、『亜行詠』という紀行歌文集が残されているが、その中には(中略)、行き届いた気配りを見せた森田に対する感謝の言葉が記されている。篤実な森田は、使節の随員として『亜行日記』『亜米利加航海出入簿』などの数種な貴重な記録も残している。 しかし、森田は役人として有能なだけの人物ではなかった。森田は勘定組頭に就く以前に、学問所教授方出役や学問所勤番を勤めたこともあり、また妻は幕府の御儒者で漢詩人として知られた友野霞舟の娘であったことからも分かるように、漢詩文の素養を十分に備える知識人でもあった。この森田桂園の使節随員としての紀行漢詩集が『航米雑詩』である。桂園はアメリカから帰国した翌年の文久元年、不運にも50歳で病没するが、遺言にしたがって息子が草稿を整理し、関係者に序跋を依頼して、その年のうちに出版されている。 板本『航米雑詩』には百首の詩が収められ、帰国直後に書かれた桂園の自序も付されている(後略)」 (揖斐高「幕末の欧米見聞詩集:『航米雑詩』と『環海詩誌』」『江戸文学』第32号、ペリカン社、2005年所収論文、178-179ページより)