書籍目録

『日本誌』

ケンペル

『日本誌』

全2巻(揃い) 1727/28年 ロンドン刊

Kæmpfer, Engelbert.

THE HISTORY OF JAPAN: Giving an Account of The antient and present State and Government of that EMPIRE;…

London, (Printed for the PUBLISHER, and sold by) Thomas Woodward / Charles Davis, MDCCXXVIII. (1728). <AB2023188>

Currently on loan.

2 vols.(complete)

Folio (23.0 cm x 35.8 cm), Vol.1: Illustrated Title. in Latin, Title., 5 leaves, pp.[i], ij-lij, pp.[1], 2-392, 2 leaves,(most)folded / double pages plates, maps: [20](complete) / Vol.2: Title., 1 leaf, pp.393-612, pp.[1]], 2-75, Title. of 2nd appendix, pp.1-11, 5 leaves, (most)folded / double pages plates, maps: [25](complete). Contemporary full brown leather, skillfully restored.
刊行当時のものと思われる皮装丁を残す形で近年の補修が施されており、全体的に良好な状態。図版全45枚完備。

Information

西洋における日本観の形成に多大な影響を与えた日本関係欧文図書を代表する不朽の名著

 本書は、18世紀に西洋で刊行された日本関係図書として最も著名、かつ最も重要とされている作品で、同時代や後年に至るまで多方面にわたって大きな影響力を与えたことで知られる不朽の名著です。

 本書の著者ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651 – 1716)は、ドイツのレムゴー出身で、ドイツ各地の大学で研究遍歴を続けながら、言語学、哲学、歴史学、地理学などの研鑽を積み、30歳になる1681年にスウェーデンへと渡り、1683年からは同国がモスクワ大公国とペルシャに派遣した外交使節団に随行しました。イスファンに2年近く滞在したケンペルは、道中やイスファンで見聞したことを記録し続け、この時の研究成果の多くが本書に盛り込まれています。イスファンからさらに旅を続けることを希望していたケンペルは、オランダ東インド会社の船医となって1689年にバタヴィアへと渡り、翌1690年には日本の出島商館付き医師として日本の地を踏みました。同年9月から1692年10月末までの2年余りを日本で過ごす中で2度の江戸参府も経験し、離日後はバタヴィアを経由して1693年にアムステルダムへと戻りました。ケンペルはヨーロッパに戻ってからすぐに著作の執筆と刊行に専念するつもりだったようですが、様々な事情により困難を極め、日本を含めた中東、アジア各地での見聞と観察、研究論文を多数収録した『廻国奇観』(Amœnitatum exoticarum politico-physico-medicarum fasciculi V...Lemgoviae(Lemgo): Typis & Impensis Henrici Wilhelmi Meyeri, Aulæ Lippiacæ Typographi, 1712.)を、ようやく1712年に刊行したわずか4年後の1716年に世を去ってしまいました。

 ケンペルによって遺された原稿や研究ノート、日本で収集した数多くの和本や地図類などからなる膨大な研究コレクションは、ケンペル没後に紆余曲折を経た上で、イギリスのハンス・スローン(Hans Sloane, 1660 – 1753)に買い取られることとなり、1723年からその整理と、ケンペル自身が「Heutiges Japan」と題したドイツ語で書かれた印刷用整理原稿の英語での出版を見据えた翻訳作業が始められました。その後、当初の翻訳者の変更を引き継ぐ形で、スイスの博物学者ショイヒツァー(Johann Jakob Scheuchzer, 1672 – 1733)が、スローンの命を受けて編集と英訳を1726年から27年頃に完成させました。そして、ケンペルの没後から実に10年以上の時を経て、1727年から28年にかけてショイヒツァーによって編集、英訳された原稿が本書として刊行されました。その完成度の高さから本書は刊行直後から大きな反響を呼び、18世紀ヨーロッパにおける日本研究の金字塔として絶大な影響力を持つことになりました。

 この作品は比較的大きなフォリオ判で全2巻構成という、書物としても非常に格式高い作品となっています。第1巻は、目次、著者序文(iページ〜)、ケンペルの伝記(vページ〜)、ショイヒツァーの序文(xvi〜liiページ)、第1部(1ページ〜)バタヴィアからシャムを経由して日本に到着するまでの旅行記、日本の地理的概観、行政区分、人々の起源、気候や動植物、魚貝類について、第2部(143ページ〜)神話時代から現代(1692年)に至るまでの日本の歴史、第3部(203ページ〜)日本の諸宗教、特に神道、仏教、儒教について、第4部(253ページ〜)長崎の概観ならびに当地における貿易の実情、第1巻収録図版の解説(392ページ)と各種図版、となっています。本文中の随所に収録されている20枚の図版は、日本地図や中村惕斎『訓蒙図彙』から抜粋した生き物たちを描いた図、長崎湾図や小判図などいずれも興味深いものばかりで、これらの図版は、ケンペル自身のスケッチや、彼が持ち帰った日本の書物の挿絵などをもとにしています。

 第2巻は、第5部(393〜612ページ)として、ケンペルによる2度の江戸参府旅行記が中心となっており、それに続いて掲載された「第一補遺」(1〜74ページ)では、いわゆる「鎖国論」として後年日本でも知られるようになった論考をはじめとして、『廻国奇観』所収の日本関係論文が英訳された上で6本収録されています。続く「第二補遺」は、日英貿易の再会を求めて来日したリターン号に関する記事となっています。第1巻同様に、第2巻にも25枚もの各種図版とその解説記事が収録されており、長崎から江戸に至るまでの道中の各種地図や、清水寺や三十三間堂、京都、江戸の市街図、有名な「将軍の前で踊るケンペル」、いろは文字などの図を見ることができます。

 また、江戸参府道中で簡易測量を行っていたケンペル自身の測量データやスケッチに基づいて製作された、道中近隣地域の地図も多数収録されており、「富士山」に代表されるような特筆すべき自然についてもこれらの地図には描き込まれています。本書で描かれた富士山の姿は、江戸参府に際して富士山を実見したケンペルによる詳細で印象的な記述とともに、多くの西洋人読者に大きな影響を与えました。

「ケンペルの非凡な才能は、長崎から江戸への参府の途中で通った大坂や京都について詳細な観察や体験記をはじめ、途中で出会ったあちこちの村や街についても、まことに行き届いた観察の結果を記している。富士山についても、短い旅でここまで記していることは、のちに、富士山に登り、あるいは富士山を見た多くの外国人たちが、ケンペルの本に似た表現を使って記述していることからも、その影響力の大きさがわかるのである。」
(静岡県富士山世界遺産センター 館長 遠山敦子(編)『富士山と日本人:豊かな「富士山学」への誘い』静岡新聞社、2024年、247ページより)

「(前略)ケンペルは以下のように、富士山に高い賞賛を与えている。「駿河地方にある富士山は、カナリア諸島のテネリフェ山のごとく計り知れぬ高さである。富士山の山容は円錐のようで、四方から同じ形に見られ、規模は雄大で世界無比の麗しき山である。日本の詩人や画家はこの山の高き美しさを記述し、称賛している。」(中略)
 このケンペルによる「富士山」のスケッチは、おそらく西洋人が富士山を描いた最初の作品といえるものである。」
(H・バイロン・エアハート / 三宅準(監訳) / 井上卓哉(訳)『富士山:信仰と表象の文化史』慶應義塾大学出版会、2019年、170-171ページより)

「富士山が旅人の道標になったであろうことは想像に難くない。山容が青空に映える日は道標としてばかりでなく、一息入れる旅人の心に新鮮な息吹を吹き込んで疲れを癒したことも充分考えられる。それはわが国の旅人達が残した記録を見れば明らかだが、初めて富士山に接するケンペルもおそらく道標として眺めただけでなく、雪のマントに覆われた富士山を事ある毎に仰ぎ見てはいろいろな思いを馳せたに違いない。ケンペルのこの記録は、ただその場限りの印象にとどまらず多くの人々にできるかぎりの情報を求めて書いたものであるが、ケンペルをそうまでさせたのは「之を世界無比の麗しき山と謂いつべく」と言っているように、実に富士山が彼の心を捕えて離さなかったからであると言えるのではないだろうか。ケンペルの心には詩人や画家がいくら言葉を尽くし筆を巧にしても宣揚しきれないほど強烈な印象が残ったのである。」
(伏見功『富嶽歴覧:外国人の見た富士山』現代旅行研究所、1982年、35-36ページより)

 本書に収録された多くの図版は、ケンペル自身や編訳者ショイヒツァーの理解不足のために、誤りや不正確な点もあるものの、現在の私たちが見ても非常に興味深いものばかりで、同時代のヨーロッパでも大きな話題となって、後年に他の多くの書物にも転載され続けることになりました。。

 本書が刊行されるまでの西洋における日本研究書としては、カロン『日本大王国志』や、ヴァレニウス『日本国誌』、モンターヌス『オランダ東インド会社遣日使節紀行』などが代表的なものとして知られていましたが、本書は実際に日本で2年も過ごした著者による詳細な日記をもとにした作品であること、著者自身の考察と見解に基づいて日本の歴史や文化などが秩序立てられて叙述されていることから、それまでにない体系的で優れた日本研究書として高く評価されました。刊行されて間もなく、フランス語訳版、オランダ語訳版が出されて、いずれも版を重ねたことで、18世紀ヨーロッパにおける日本観の形成に極めて大きな影響力を与えたことがわかっています。モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689 – 1755)やヴォルテール(Voltaire / François-Marie Arouet, 1694 – 1778)といった同時代を代表する思想家たちは、日本について言及する際にこぞって本書(とその翻訳版)を典拠とし、また本書の影響を受けて日本を題材にした小説作品が刊行されるなど、本書が多方面に与えた影響の大きさははかりしれません。さらに、本書オランダ語訳版は江戸時代の日本へともたらされ、日本にも大きな影響をもたらしました。また、幕末に来校したペリーをはじめとした欧米各国の外交使節達もみな、日本に関する基本情報を得るために本書を熟読していたと言われています。

 なお、ケンペルの母語であり遺稿の原語であるドイツ語での『日本誌』は、「英訳版」である本書と本来同時に刊行されるはずでしたが、実際には刊行が大幅に遅れることになり長らく刊行されませんでした。フランスのイエズス会士デュ・アルド(Jean Baptiste Du Halde, 1647 - 1743)による、中国についての歴史、地理、文化、政治、自然などを包括的にまとめた著作(Description Géographique Historique, Chronologique, Politique et Physique de l’Empire de laChine et de la Tartarie Chinoise…4 vols, Paris, 1735)が、1747年から1749年にかけてドイツ語訳された際に、その補遺として『日本誌』が第4巻にようやく掲載され、これが事実上の「ドイツ語版」として流通しています。これはフランス語訳版から重訳する形で、テキストの一部や図版の大半を削除した抄訳でしたが、別のドイツ語書物に転載されるなどドイツ語圏では一定の影響を持つことになりました。本書が用いたものとは異なるケンペルの別の遺稿に基づいて、ドーム(Christian Wilhelm von Dohm, 1751 – 1820)が全く新たに編纂したドイツ語版『日本誌』(通称ドーム版)が刊行されたのは、本書刊行から約半世紀も過ぎた1777年から1779年にかけてのことです。こうした本書と各種翻訳版の変遷(18世紀末まで)をまとめますと、下記のようになります。

1727年-28年
『日本誌』初版初刷刊行。
The history of Japan...: together with a description of the Kingdom of Siam. London: Printed for the translator, 1727-28.
ラテン語のタイトルページは1727年の刊年表記で英語のタイトルページは1728年の刊年表記がなされている。通常はフォリオ判2巻本だが、極小部数のみ余白部分が極端に大きい通称「Large Paper Edition」が極小部数のみ刊行された(http://www.aobane.com/books/71)。

1729年
英語版を底本としたフランス語訳初版(フォリオ判2巻本)が刊行される。
Histoire naturelle, civile, et ecclesiastique de l’Empire du Japon... 2 vols. A la Hae(Hague): P. Gosse & J. Neaulme, 1729.

英語訳版を底本としたオランダ語訳初版(フォリオ判1巻本)が刊行される。
De beschryving van Japan,... 2 vols. Hague / Amsterdam: P. Gosse en J. Neaulme, Balthasar Lakeman, 1729.
この年ショイヒツァーが急逝(4月)。ドイツ語訳版の刊行計画が頓挫し始める。

1732年
フランス語訳第2版(小型3巻本版)が刊行される。
Histoire naturelle, civile, et ecclesiastique de l’Empire du Japon... 3 vols. A la Hae(Hague): P. Gosse & J. Neaulme, 1732.
→基本的に内容は初版と同じだが、日本図など一部の内容に相違が見られる。判型をフォリオ判から八つ折り版に縮小して3巻にまとめたもの。

この頃ドイツ語版の迅速な出版を求めるヨハン・ヘルマン(ケンペルの甥でハンス・スローンにドイツ語版の出版を条件にケンペルコレクションの売却に応じたとされる)の求めに応じて、ロンドンから「Heutiges Japan」の原稿の写しがヨハン・ヘルマンの手元に送付される。

1733年
オランダ語訳第2版(フォリオ判1巻本)が刊行される。
De beschryving van Japan:... Amsterdam: Jan roman de Jonge, 1733.
→出版社が初版から変更されているが、基本的に内容は初版と同じ。志筑忠雄が「鎖国論」の底本としたのはこのオランダ語訳第2版。

1736年
ヨハン・ヘルマンが『日本誌』ドイツ語版の刊行という悲願を果たすことなく逝去。
彼の手元に残されていたもう一部の「Heutiges Japan」の原稿とロンドンから1732年に送られていた英訳版に用いられた原稿の写し、ケンペルの旧蔵書とわずかなコレクションは妹のマリア・マグダレーナが継承。

1749年
デュ・アルドによる『中華帝国と大韃靼史』(フランス語、1735年)の下記ドイツ語訳版第4巻に『日本誌』フランス語訳版からの抄訳(重訳)記事が掲載され、これが実質的な『日本誌』ドイツ語訳版として流通する。
Du Halde, Jean-Baptiste. Ausführliche Beschreibung des Chinesischen Reichs und der grossen Tartarey. 4 vols. Rostock: Johann Christian Koppe, 1747-1749.
http://www.aobane.com/books/870

1758年
フランス語訳第3版(小型3巻本版)が刊行される。
Histoire naturelle, civile, et ecclesiastique de l’Empire du Japon... 3 vols. Amsterdam / Pairs: Herman Urtwerf / Desaint & Saillan, 1758.
→基本的に1732年版の再版と言える内容。

1773年
マリア・マグダレーナが逝去。彼女が管理していた「Heuitiges Japan」の原稿2部は、マイヤー社の社主クリスティアン・フリードリヒ・ヘルヴィングが購入。ケンペルの旧蔵書とわずかなコレクションはこの時に散逸したと考えられている。ヘルヴィンが18世紀ドイツを代表する地理学者であるビュッシング(http://www.aobane.com/books/323)に「Heutiges Japan」の出版について助言を求め、ビュッシングの推薦でクリスチャン・ドームが編集者に任命される。ビュッシングとドームは、ビュッシングが主催する雑誌「Wöchentliche anchrichten von neuen landcharten, geographischen statistischen und historischen büchern and sachen」上でドイツ語版の出版予告を行う。

1774年
ドームが下記の小冊子にて、ドイツ語版の出版計画と、ヘルヴィンが入手した原稿が英訳版に用いられた原稿よりも「完全な」ものであると主張(この主張は誤りであることが後年明らかにされている)。
Dohm, Christian Wilhelm. Nachricht, die Urschrift der Kämpferischen Beschreibung von Japan betreffend. Lemgo, 1774.

1777年-79年
ドームによるドイツ語版(四つ折り2巻本)が刊行される。
Engelbert Kämpfers Geschichte und Beschreibung von Japan : aus den Originalhandschriften des Verfassers. herausgegeben von Christian Wilhelm Dohm. 2 vols. Lemgo: Meyerschen Buchh., 1777-1779.
→英語版『日本誌』とは異なる原稿にもとづいて編集されているが、実際には英語版『日本誌』に拠るところがかなり大きいことがわかっており、このドイツ語版を「決定版」とみなすことは難しいとされる。

1791年
大英博物館に収蔵されていたケンペルの遺稿の一部を用いて、英国王立協会会長ジョセフ・バンクスが編集を手がけた『日本植物図選集』(ラテン語、フォリオ判1冊)が刊行される。
Icones selectæ plantarum, quas in Japonia: collegit et delineavit Engelbertus Kæmpfer ex archetypis in Museo Britannico asservatis. London, 1781.

刊行当時の革装丁を保持する形で近年に修復が施されており、良好な状態と言える。
印象的な意匠を採用したラテン語表記のタイトルページ。こちらでは1727年が刊行年として記載されている。
第1巻タイトルページ。こちらでは1728年が刊行年として記載されている。
ショイヒツァーによる献辞文冒頭箇所。
第1巻目次冒頭箇所。
購読予約者名のリストも掲載されている。当時の高額な書物にはしばしばこうした予約者リストが掲載された。
ケンペル自身による序文冒頭箇所。
ショイヒツァーによるケンペルの伝記も掲載されている。
ショイヒツァーによる序文冒頭箇所。本書全体の解説とも言える内容となっている。
本文冒頭箇所。本文最初は、ケンペルが来日前に訪れたシャムに関する記事で、シャム史研究とっても非常に重要な史料となっている。
日本に関する記述冒頭に収録されている折り込みの大型日本図。ケンペル自身が描いた日本図をベースにショイヒツァー自身の研究を踏まえて作成されており、特に不明な点が多かった本州北端と北海道周辺については、分図で複数の検討案が併記されている。
『訓蒙図彙』から転載したと思われる日本の動物、鳥類、魚類などが(創造の生き物も含めて)図版として掲載されている。
下段に見られる、クマゼミやニイニイゼミとその抜け殻の図はケンペル自身のスケッチと思われ、非常に写実性が高い正確な図。
第1巻は総合的な日本研究とも言える内容となっていて、日本の政治、宗教、歴史、自然、人々の起源、文化などがさまざまな角度から論じられている。
日本の年代記を理解するために欠かせない暦についての解説もなされている。
歴代天皇の一覧図も転載されている。
ケンペルが主に過ごすことになった長崎と日蘭貿易について論じた章の冒頭に収録されている長崎港図。この図は後年になって非常に多くの著作に(無断で)転載された。
巻末には収録図版の簡単な解説が掲載されている。
第2巻外観。第1巻と同じく現装丁を保持する形で近年の修復が施されている。
第2巻タイトルページ。
第2巻目次冒頭箇所。ページ番号は第1巻から連続する形で付されている。
第2巻本文冒頭箇所。第2巻は、ケンペルの2度にわたる江戸参府についての記録が主な内容となっている。
ケンペルは道中で観察したさまざまなことを詳細に記録しながら、簡単な測量も行い地図も作成していた。
瀬戸内海で主に用いられた日本の船舶についても詳細なスケッチを掲載している。
オランダ商館一行の江戸参府の行列の様子を描いた図。
長崎から江戸に至るまでの各地の詳細な地図も収録されている。
ケンペルにとって非常に印象的であった富士山については地図中においても大きく目立つ形で描かれている。
富士山についてのケンペルの記述は多くの西洋人読者に影響を与えただけでなく、後年の来日外国人の富士山描写にも大きな影響を与えたことで知られる。
日本で入手した地図をもとにしたと思われる江戸図。
将軍との謁見の際に歌と踊りを披露する羽目になったケンペル自身の姿を描いた図。
2回目の江戸参府記事冒頭箇所。2回の江戸参府の記事はそれぞれが重複しないようにしつつ、ケンペル自身が訪れることができなかった地についてもケンペルの調査結果を踏まえて詳述している。
清水寺を描いた図。
三十三間堂を描いた図。
本文に続いて収録されている補遺は、ケンペルが生前ラテン語で刊行した『廻国奇観』に収録された日本関係記事を英訳した日本研究論文集となっている。
ケンペルは上掲図に見られる茶をはじめとして、日本の植物研究にも熱心に取り組んだことで知られる。
日本の喫茶文化や用いられる道具なども図版で紹介されている。
ケンペルが茶と並んで強い関心を持ったのが日本の製紙技術で、当時ボロ布等を溶解することで紙の原料を得ていたヨーロッパから見ると、日本における楮などの植物を用いた高度な製紙技術は非常に新鮮であったとされる。
ケンペルは日本の医療技術にも関心を持ち、鍼灸についても解説を試みている。
日本が他国に対して関係を閉ざし、自国民にも交流を禁じている政策の是非を論じた論文。この論文はオランダ語訳版を通じて江戸時代に志筑忠雄によって「鎖国論」の名で翻訳され、日本国内でも大きな影響を与えたことが知られる。
日本のイロハ文字なども図版で紹介されている。
第二補遺として収録されているのは、1673年に日本との貿易再開を求めて来日したイギリスのリターン号に関する記事が収録されている。
第二補遺本文冒頭箇所。ショイヒツァーによる序文が付されている。
第2巻末尾にも第1巻と同様に収録図版の簡単な解説が掲載されている。
第2巻の最終末尾には、両巻全体の索引が設けられている。