書籍目録

『鎖国論附尾』

覚世道人 / (ケンペル)

『鎖国論附尾』

木活字版 嘉永6(1853)年 刊行地不明

<AB2023176>

¥88,000

18.0 cm x 26.0 cm, [1], 17丁,
題箋あり。虫食い穴あり。旧蔵印(稲垣大業家蔵記)あり。[NCID: BA73214916 / BA90700659 / BB11868557]

Information

英語→オランダ語→日本語へと編訳が重ねられた「西洋と日本交流史概説」

 本書のタイトルにある『鎖国論』は、ケンペル『日本誌』付録に収録され、そのオランダ語訳版を底本として志筑忠雄によって翻訳されたことによって非常によく知られており、志筑忠雄による『鎖国論』は、幕末に写本や木活字本が数多く流布しました。本書は、こうした幕末当時の志筑忠雄による『鎖国論』の広範な流布を背景とした作品で、『鎖国論附尾』と題されていますが、その主題は志筑忠雄の『鎖国論』とはまったく異なる、「西洋から見た日本」「西洋と日本の交流史概説」とも言えるもので、大変ユニークな作品です。

 本書の内容は、当時幕府の翻訳局で『和蘭宝函』として知られていたオランダ語雑誌 Nederlandsch Magazijn, Ter Verspreiding van Algemeene en Nuttige Kundigheden. の1839年号201ページに掲載されたJAPAN と題した日本紹介記事を要約、編訳したものではないかと思われます。幕府は当時オランダ語雑誌の翻訳によって海外情勢の把握を行おうとしており、当時のオランダで広く読まれていた絵入週刊誌 Nederlandsch Magazijn の翻訳を定期的におこなっていました。その翻訳テキストは基本的に幕閣関係者の間で閲覧するためだけのもので、一般に向けた公刊は意図されていませんでしたが、実際には「和蘭宝函」 「日本の記上下」となどと題した写本や木活字本の形で広まっていったことが知られています。

 本書もこうして流布した作品の一つであると思われたもので、嘉永6(1853)年に詳細不明の「覚世道人」によって木活字版の刊本として発行されたものです。木活字版は金属活字の代わりに木製の活字を組んで行う印刷法で、この煩雑な印刷法のために印刷部数が通常の版木による印刷よりも限られていたため、奉行所による許可を経ずに刊行が可能でした。このため、幕末期には禁制に触れるような政治や外交問題を論じた作品の脱法的な流通方法として、写本と並んで木活字による印刷が用いられることが多く、幕末期には多くのこのような木活字本が流布しています。

 本書の元テキストであったと思われる上述のNederlandsch Magazijn の記事は、実はオランダ語の独自記事ではなくて当時のイギリスで広く読まれた大衆教養雑誌 The Penny Magazine of the Society for the Diffusion of Useful Knowledgeの記事をオランダ語に編訳して掲載したものです。このThe Penny Magazine の補遺(Monthly Supplement)として、1838年(August 31 to September 30=417号、ならびにOctober 13=419号)に掲載された「THE EMPIREOF JAPAN」と題された英語記事を独自に編纂した上でにオランダ語記事としてNeederandsch Magazijnに掲載されたものが幕末の日本にもたらされることになり、このオランダ語編訳テキストをさらに編訳する形で日本語訳がなされ、本書のような形で流布したものと考えられます。

 The Penny Magazine の「THE EMPIRE OF JAPAN」と題した英語記事は、当時分冊形態で刊行中であったシーボルト『Nippon』 などを参照しながらコンパクトまとめられた日本論のようで、記事に収録された図版は(時にキャプションを誤りながら)明らかに『Nippon』から採られています。その内容は当時のヨーロッパにおける日本紹介記事として標準的なもので、日本の地理的位置、マルコ・ポーロによる「ジパング」に始まる西洋諸国との交渉史、1549年のザビエル渡来以降のキリスト教の隆盛、キリシタンの弾圧、ウィリアム・アダムズに始まる英蘭との関係史、島原の乱とオランダを除くヨーロッパ諸国との関係謝絶、それ以降の和蘭経由の日本情報、天皇(Dairi)と公方(Kubo)による二重統治、ゴロウニンを主とする近年の西洋諸国との新た交渉史、などが扱われています。この英語記事は概して当時の西洋社会における日本情報をコンパクトにまとめたものと言える内容となっています。加えて、この記事は「モリソン号事件」を報じた P. Parker Journal of an expedition from Singapore to Japan, with a visit to Loo-Choo…London, 1838.を紹介しています。

 ただし、本書が直接の底本としたと思われる Nederlandsch Magazijn に掲載されたオランダ語記事は、原文の英語記事と比べるとかなりの相違点があり、英語記事とオランダ語記事の内容は一見似ているように見えますが、同一ではありません。 特にオランダ語記事は英語記事よりも「モリソン号事件」をかなり詳しく扱っているように見受けられ、日本の対外認識に大きな影響を与えることになった事件を伝える内容だけに、この相違点の重要性は小さくないように思われます。このようにオランダ語テキストには独自の編纂がなされた上で英語テキストから翻訳がなされており、このオランダ語テキストがさらに、日本語に翻訳されて幕末に流布したわけですので、テキストの伝搬状況は非常に複雑なものであったと言えそうです。いずれにしましても、当時のヨーロッパにおける平均的な日本像を提供した通俗的な英語記事が、独自の編纂が加えられたオランダ語記事を通じて比較的早く日本において翻訳され、「外から見た日本像」が日本国内で流布していたことが興味深いことと言えるでしょう。

(参考)
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