書籍目録

『オランダ東インド会社遣日使節紀行』

モンターヌス

『オランダ東インド会社遣日使節紀行』

初版 1669年 アムステルダム刊

Montanus,Arnoldus.

GEDENKWAERDIGE GESANTSCHAPPEN DER Oost-Indische Maetschappy in ‘t Vereenigde Nederland, AEN DE KAISAREN van JAPAN:...

Amsterdam, Jacob Meurs, 1669. <AB2023145>

Currently on loan.

First edition.

Large 4to (19.7 cm x 30.6 cm), Front., Title., 2 leaves, folded map, pp.1-212, 214(i.e.213), 214-456, 7 leaves, double pages (some folded) plates: [24](complete), Contemporary white vellum, skillfully restored.
図版、テキストを完備しており、刊行当時の装丁を保持した非常に良い状態。ただし、冒頭の折り込み地図は同じ出版社による別の著作の図が誤って挿入されている。

Information

「当時のヨーロッパにおける日本情報を網羅的に集約したはじめての本格的な『日本誌』」

 本書は17世紀後半の西洋社会における日本観に決定的な影響を及ぼし、19世紀半ばに至るまで大きな影響力を有した作品で、網羅的に日本を論じた最初期の「日本誌」作品として高く評価されています。それまでのイエズス会士による日本年報や、カロンをはじめとしたオランダ東インド会社関連書を大いに参照しつつも、オランダ東インド会社関係者の機密内部資料をベースとして最新の日本情報を網羅的に伝えただけでなく、本文の随所を彩るバロック的世界観に満ちた魅力的な銅版画を多数収録していることが大きな特徴の作品で、記述内容の質の高さとより多くの読者に魅力的に訴える娯楽性とを兼ね備えた作品として、各国語に翻訳されるベストセラーとなりました。

 本書については、フレデリック・クレインス氏によって、その概要や特徴、重要性などについて『17世紀のオランダ人が見た日本』(臨川書店2010年)において既に詳細に論じられており、本書を理解する上で大いに役立ちます。

「オランダ人使節の旅行中に起こった不思議な出来事。村・城・都市・風景・寺院・宗教・服装・建物・動物・植物・山・泉・昔および最近の日本人の戦争についての記述。日本で描かれた多数の絵による装飾。アルノルデゥス・モンターヌスによる使節についての著述や旅行記からの抜粋。
 この副題が示している通り、『東インド会社遣日使節紀行』では将軍へ派遣されたオランダの使節団についての記述が中心的な存在を占めている。同署は2部から構成されており、合わせて4つの使節団の旅行記と1つの報告が掲載されている。第一部にアンドレアス・フリシウスによる1649〜1650年における江戸参府日記、第二部にウィルヘルム・バイルフェルトによる1643年に起きたブレスケンス号事件の報告、ヘンドリック・インダイクによる1660年〜1661年の江戸参府日記およびファン・ゼルデレンによる江戸参府日記が収められている。」

「モンターヌスは物語を進める上での指針としてこれらの日記を利用しながら、使節が日本を旅する中で立ち寄った各地やそこで遭遇した出来事を起点として、日本文化についての説明を展開させている。例えば、使節が大坂に着いた時には、秀吉について語り、京都に立ち寄ったときには、信長や本能寺の変、様々な寺院、日本の宗教などについて説明している。モンターヌスはこれらの説明の中にリンスホーテンやコメリンに掲載されている情報やイエズス会の書簡集の情報を巧みに盛り込んでいる。特にイエズス会士の書簡集から転載した情報の多くは、この『東インド会社遣日使節紀行』を通じてオランダの読者の目に初めて触れるものであり、それまでになかった完結した日本像を提供した。このようなモンターヌスの記述は当時の旅行記の様式を踏襲したもので、旅行経路、いわば「道」に沿った視覚的な叙述を行い、その「道」の通行人や周囲の店や建物の様子までをも詳細に描写することによって、概念的に日本文化を伝えるのではなく、読者自身がそこにいるかのような臨場感を醸し出している。」(前掲書、153 / 155-156ページ)

 このように極めて質の高い当時最新の日本情報を基盤としつつ、宗教書や哲学書なども多数著すほどの博識を有していたことでも知られる著者による包括的、かつダイナミックな筆致で認められた本書は、まさに「日本誌」と呼ぶに相応しい内容を備えた作品であると言えます。著者であるモンターヌス(Arnoldus Montanus, 1625 – 1683)は、オランダのプロテスタント改革派の牧師で、アムステルダム近郊で牧師とラテン語教師を務める傍らで多数の著作を著し、教養あるベストセラー作家として活躍したことが知られる人物です。モンターヌス自身は来日することはおろかオランダ国外に出ることさえ生涯なかったのではないかと言われていますが、上述したようなオランダ東インド会社関係者のもたらした最新機密情報を存分に活用して、それ以外の多くの既存の日本関係書も参照しながら本書を完成させ、その名を後世に残しました。

 また、本書の非常に大きな特徴として、100点近くにも及ぶテキスト中に挿入された(ときに見開き大の非常に大きな)銅版画を挙げることができます。それまでの西洋における日本関連書はいずれもテキスト情報を中心としたもので、殉教録など一部の作品では日本やその人々の姿が描かれることもありましたが、本書のように100点近くもの大量の銅版画を随所に配置した作品はそれまでになく、そのビジュアル性の高さという点でも本書は画期的な作品となりました。本書に収められた銅版画はいずれも当時のバロック文化に根差した劇的な効果を意図した刺激的な画風で、一見しただけでは現実の日本とはあまりにもかけ離れているように思われます。これは、銅版画を描いた絵師自身は(そして著者であるモンターヌス自身も)実際に来日したことがなく、テキスト情報とわずかなスケッチなどを頼りにして図版を作成せねばならなかったという事情によるところが大きいのですが、その一方で非常に写実的に思える図版も少なくなく、来日経験者がもたらしたスケッチ等の何らかの資料がもたらされていたことを示唆しています。

「バロック様式に則ってドラマチックに描かれているモンターヌスの図版は、現代的な視点で見ると、実際の日本とはかけ離れたものに感じられる。このような図版から受ける空想的な印象は、後の著者が『東インド会社遣日使節紀行』の内容の信憑性を疑う要因の一つとなった。モンターヌスの図版を作成した画家や版画家が来日した経験がないことを考えると、当時の日本の様子を写実的に描いていないのは当然ともいえる。とはいえ、モンターヌスの図版をより細かく見れば、ある程度の正確さがあることに驚かされる。例えば、京都の風景画は、一見するとヨーロッパの町のようにもみえるが、そこに描かれている要素を一つ一つ詳しく分析すると、街の真中を流れる川は明らかに堀川であり、東側に御所があり、西側に二条城が描かれている。また、三十三間堂や方広寺もほぼ正しい位置に描かれている。もちろん、建物の形は画家の想像によるもので、実物からはほど遠いが、それでも京都のかなり正確な外観が読者に提供されている。また、日本人の姿を描いた図の中にも想像のみで描いたとは思えないほど写実的なものもある。これらの絵を描くにあたって、オランダの画家はなんらかの原画を参考にしたのではないかと推測される。」
(クレインス前掲書、「156-157ページ)

 本書は上述の通り全2部で構成されていますが、特に章立てもなく、情報源としたそれぞれの江戸参府日記等の記述に添いつつも、関連した事項が随所で脱線しながら論じられていて、結果的に包括的な日本全体の叙述を成すという構成になっています。これらをおおまかな主題ごとに大別して記すと、概ね下記の通りとなります。

第1部
・天地創造と日本の人々の起源
・コロンブスに始まる大航海時代の歴史
・西洋人と日本との出会いと初期の交流史、天正遣欧使節について
・平戸についての記述
・台湾についての記述
・フリシウスの日本紀行
・日本概論
・長崎についての記述
・日本の地誌
・長崎から大坂までの参府記
・大坂と豊臣氏についての記述
・信長と京都についての記述
・京都から江戸までの参府日記、富士山と山伏
・江戸の街と江戸城について
・内裏と戦乱相次ぐ近年から現在に至るまでの日本の歴史
・日本におけるキリスト教の隆盛と廃滅の歴史、その理由について
・日光東照宮とオランダ東インド会社が贈った燭台、日本の葬式、盆について
・フリシウスの江戸から長崎までの帰路日記、動物崇拝、京都の大仏と大坂城について
・日蘭貿易の実態

第2部
・日本の諸国とその権力
・日本の貴族の名誉心と教育
・日本における女性の扱いの野蛮さについて
・ヘンリー・シャープの航海記
・ブレスケンス号事件と盛岡の街について
・ワーヘナルの江戸参府日記と明暦の大火
・インダイクの長崎滞在記と江戸参府日記
・国姓爺事件とその報復をめぐる幕府との交渉について
・ファン・ゼルデレンによる鹿児島滞在記と江戸参府日記
・日本における学問の隆盛と統一された度量衡について

 上記に挙げているのはごくおおまかなテーマでしかなく、実際のテキストでは、様々なトピックが随所で盛り込まれており、参府日記の臨場感ある筆致に合わせて、当時の日本社会や歴史、風習、宗教といった豊富な記述を愉しむことができる内容となっています。まさに、「当時のヨーロッパにおける日本情報を網羅的に集約したはじめての本格的な「日本誌」といえる」(クレインス前掲書、150ページ)と言われるにふさわしい内容で、当時の西洋社会で本書が多くの読者を獲得したことも大いに理解できます。

 本書はオランダ語で1669年に刊行された初版(本書)を嚆矢として、早くも同年中に同じ出版社(Jacob de Meurs)からドイツ語訳版(Denckwürdige Gesandtschafften der Ost-Indischen Geselschaft in den Vereinigten Niederländern, an unterschiedliche Keyser von Japan.)が刊行され、翌年(1670年)にはロンドンで英語訳版(Atlas Japannensis : being remarkable addresses by way of embassy from the East-India Company of the United Provinces, to the Emperor of Japan.)が刊行されているほか、やや遅れて1680年にはオランダ語原著と同じ出版社からフランス語訳版(Ambassades mémorables de la Compagnie des Indes Orientales des Provinces Unies, vers les empereurs du Japon.)も刊行されています(フランス語訳版は縮尺版など含めさらに2度再版)。このように多くの翻訳版が刊行されるほどの人気を博した同書は、18世紀に入ってからもその図版や記述が様々な書物に転載され続け、ペリー来航前後に多数刊行された日本関係書においてさえも見られるほど、非常に長期間にわたって西洋者期における日本観の形成に大きな影響力を及ぼしました。また、本書の英訳版は、戦前から日本でも注目されていて、1924年には和田萬吉によって日本語抄訳版(『モンタヌス日本誌』丙牛出版社)も刊行されています。

 多数の魅力的な図版で彩られている本書は、その図版だけが切り取られて転売されてしまうことも少なくなく、現存本の中には図版が欠落しているものが多数見られますが、本書は図版を完備しており、刊行当時の製本を保持して修復がなされている非常に状態が良い貴重な1冊です。この1冊は非常に興味深いことに、冒頭の折り込み地図(長崎から江戸までの参府経路を図辞した地図)の代わりに、同じ出版社(Jacob de Meurs)が1665年に刊行した『東インド会社遣清使節紀行』(Nieuhof, Johan. Het gezantschap der Neerlandtsche Oost-Indische Compagnie aan den grooten Tartarischen Cham, den tegenwoordigen Keizer van China. Amsterdam, 1665)に収録されている折り込み地図が収録されています。折り込み図の状態やその前後の窪み具合から見る限りでは、最近になって差し替えられたようには思われず、或いは刊行当時から誤って収録された地図である可能性も考えられる、オランダ語原著初版ならではの興味深い1冊と言えそうです。

「(前略)アルノルドゥス・モンタヌスによる1670年の Atlas Japannensis は、又聞きで間接的な記録であるが、富士山を含む日本のことを取り上げた影響力のある初期の出版物であるといえる。彼は、さまざまな日本の山々の中で、「HussinoJamma(富士の山)」は道中で見たもので、高く尖っていて、その高さは12リーグ(39マイル)に及び、その高い頂は雪に覆われている」と記している。おそらく、モンタヌスが西洋人に対して、富士山が高い山であるという見解を広めた最初の人物であるといえよう。」
(H・バイロン・エアハート / 三宅準(監訳) / 井上卓哉(訳)『富士山:信仰と表象の文化史』慶應義塾大学出版会、2019年、170ページより)

17世紀のオランダ語圏でよく見られる空押し装飾が施されたヴェラム装丁。補修跡が見られるが基本的に刊行当時の装丁を保持している。
非常に印象的な冒頭の口絵。
タイトルページ。
出版社(Jacob de Meurs)による献辞冒頭箇所。同社は本書刊行と同年にドイツ語訳版を、さらに1680年にはフランス語訳版も手掛けており、本書がベストセラーとなることに大いに貢献した。
冒頭に収録されている折り込み図。同じ出版社(Jacob de Meurs)が1665年に刊行した『東インド会社遣清使節紀行』に収録されている図版で明らかに本書に収録されるべき図ではないが、誤って収録されている。前後の綴込み跡から推測する限りでは、後年の差し替えというよりも、製本当初からこの図が(誤って)綴じ込まれていた可能性がある。
(参考)本書に本来含まれているはずの折り込み図(上掲はフランス語訳版収録図)
この図は地図としての精度は高くないが、江戸参府の経路を描いた図としては貴重な情報を多数含む図で、「富士山」(Fusinojama)」を初めて描いた図としても重要な地図。
第1部冒頭箇所。第1部はアンドレアス・フリシウスによる1649から1650年にかけて行われた江戸参府日記を中心としている。
出島図。意図したものかどうかはわからないが、明らかに実際の出島よりもはるかに大きく描かれている。
本文の随所に挿入されている図はいずれも興味深いものばかり。上掲で描かれている(高貴な)女性が外出する際は従者が傘を被して顔を隠す、という図柄はインパクトが強かったようで、19世紀に至るまで繰り返し多くの著作に転載された。
想像に基づく図が多く見られる一方で、上掲図のように明らかに何らかのスケッチを元にしたと思われるような写実性の高い図も見られる。
鉄砲を担いで歩く日本の戦士。この図はファン・ノールトの航海記に収録された図あたりからヒントを得て描かれた可能性が高い。
港湾都市として栄えていることが強調されている大阪図。
堀川を大きく描いた京都図。「京都の風景画は、一見するとヨーロッパの町のようにもみえるが、そこに描かれている要素を一つ一つ詳しく分析すると、街の真中を流れる川は明らかに堀川であり、東側に御所があり、西側に二条城が描かれている。また、三十三間堂や方広寺もほぼ正しい位置に描かれている。もちろん、建物の形は画家の想像によるもので、実物からはほど遠いが、それでも京都のかなり正確な外観が読者に提供されている。」(クレインス前掲書)
フリシウスの江戸参府日記中に見られる「富士山」(Fujinojama)についての記述は、オランダ商館関係者による富士山の記述としては最初期のもの。
富士山が極めて高い山であることや、常に雪に覆われていることなどが記されている。
富士山は山伏の信仰と関連づけて解説されている。
日本の葬儀、特に火葬については特に詳しく描かれているが、それだけでなく上掲で描かれているような「お盆」の風習にも著者は強い関心を持ったようである。
江戸図。
「モンターヌスによると、江戸には黄金の阿弥陀の寺院があり、その中の黄金の阿弥陀像は、顔が犬に似ていて、7つの頭を持った馬に乗っているという。」(クレインス前掲書、171-172ページ)
モンターヌスは江戸参府中に使節が訪れた日本の寺院に強い関心を持ったようで、多くの図に描かれている。
江戸の市街図
御所を中心とした京都市街図
高貴な女性が外出する際の方法の一つとして描かれている上掲図は、19世紀半ばに至るまで数多くの書物に転載されて日本を象徴するイメージの一つとして広く流布した。
大坂の陣において炎上する大坂城。日本近世史に関する本書の記述は非常に充実している。
雲仙におけるキリシタン迫害図。プロテスタントの牧師であった著者はカトリックに対して極めて批判的だが、日本におけるキリシタン弾圧の凄惨さについてはイエズス会を批判しつつも同情的に論じている。
当時京都の方広寺に存在していた巨大な大仏を描いた図。
日本の諸宗教についてモンターヌスは折に触れて詳しく解説している。
日本のレスラー(力士)を描いた図。
著者によって世界7大不思議に続く「世界8番目の不思議(驚異)」であるとされる、威容を誇る大坂城図。
後半の第2部はウィルヘルム・バイルフェルトによる1643年のブレスケンス号事件の報告、ザハリアス・ワーヘナールによる1657年ならびに1659年の江戸参府日記、ヘンドリック・インダイクによる1660年から1661年にかけての江戸参府日記、そしてファン・ゼルデレンによる江戸参府日記で構成されている。
1643年に日本の北東海域に存在するとされていた伝説の「金銀島」の探索のために調査公開を行なっていたブレスケンス号は南部藩の山田浦に漂着し、潜伏を試みた宣教師の疑いで拘束され盛岡藩に送られ、江戸で厳しい尋問を受けることになった。上掲図は一行が宣教師であるかどうかを確認するためにいわゆる「絵踏」を行なっている場面を描いた図。
日本で用いられている筆記具についての解説と図。
高貴な女性の外出時の風景を描いた図。
同じく多くの従者に囲まれている高貴な女性の図。
日本で頻発する地震については極めて劇的に図で描かれている。
江戸城における将軍を描いた図。
日本における結婚式を描いたとする図。この図も後年の多くの書物に転載され続けた。
ワーヘナール一行が遭遇することになった江戸城下を焼き尽くした明暦の大火を描いた図。
日本各地に見られる火山についてもモンターヌスの関心を引いたようで、世界の火山と比較しながら論じられている。
ファン・ゼルデレンの日記(クレインス前掲書によるとおそらく偽名で全く詳細不明とされる人物による本書でのみ確認できる記事)では鹿児島の様子が詳しく描かれている。
オランダ使節一行と日本の役人との挨拶(お辞儀)の場面を描いた図。
第2部の末尾には全体の索引が収録されている。
(参考)右は1680年に刊行されたフランス語訳版で、オランダ語版よりも一回り大きい。「
  • オランダ語版口絵。
  • (参考)フランス語訳版口絵。非常によく似ているが細部に変更が加えられている。本文中の図版等は基本的にオランダ語版と同じものを用いている。
  • オランダ語タイトルページ。
  • (参考)フランス語訳版タイトルページ