書籍目録

「勲一等贈正二位右大臣大久保公」(大久保利通像 銅版画)

キヨッソーネ

「勲一等贈正二位右大臣大久保公」(大久保利通像 銅版画)

初版 1879(明治12)年(3月) [東京](大蔵省印刷局)刊

Chiossone, Edoardo

OKUBO TOSHIMICHI

[Tokyo], (Grave et publié par) le Bureau d' Imprimerie du Ministere des Finances de l' Empire du Japon, 1879. <AB2023135>

Sold

First edition.

48.4 cm x 67.0 cm, 1 large engraving,
スポット状の細かなシミが散見されるが概ね良好な状態。

Information

近代日本の紙幣印刷技術導入と向上に最大の貢献をなしたキヨッソーネによる大久保利通像

 この大きな銅版画作品は、明治の御雇外国人として最大の貢献を成した人物の一人であるイタリア人キヨッソーネ(Edoardo Chiossone, 1833 - 1898)が手掛けたもので、彼を雇い入れていた大蔵省印刷局から1879年に刊行されています。キヨッソーネは高度な近代印刷技術を必要とする紙幣印刷技術の導入と向上のために招聘されたお雇い外国人で、日本の近代紙幣発行において多大な尽力を成した人物として知られています。キヨッソーネは紙幣印刷技術の導入に尽力する傍らで、本作品に見られるような明治政府の主要人物の肖像版画作品も手掛けており、この「大久保利通像」は一連のこうした作品の最初に製作されたものです。

 本作品に見られる当時最新の極めて高度で多彩な銅版画印刷技術は、キヨッソーネが最も得意としていたところで、彼のもたらしたこうした技術が日本の近代紙幣発行に大きな貢献をなしたことは非常によく知られています。すでに多くの研究が明らかにしているように、この作品では異なる銅版画印刷技法が自在に駆使されており、その細部を具に見ることで、彼の技術が当時の世界全体で見ても屈指のものであったことが見て取れる作品となっています。

 また、キヨッソーネは印刷技術そのものだけでなく、その人物やモチーフを的確に把握して表現する才にも極めて長けており、この「大久保利通像」においては、キヨッソーネ自身が大久保に会う機会がなかったにも関わらず、その豊かな表情や威厳、そしてテーブルに置かれた書物などのモチーフに至るまで、見事に大久保の特徴を鮮やかに描き出しているとして高く評価されています。

 キヨッソーネによる明治政府の人物肖像銅版画作品は、記念品として製作される一方で、一般にも販売されたといわれており、また近年に至るまで何度も増刷が繰り返されたことでも知られています。本作品は、初版刊行に見られる刊行年が明記されている貴重なもので、別掲の「三条実美像」とともにごく最近になってバルセロナにおいて発見されたというその来歴にも鑑みますと、おそらく初版刊行当時にヨーロッパに贈答品として贈られたものの一つではないかと思われます。

「多忙な印刷局の業務が一段落した明治12年3月にキヨッソーネは、縦が51センチ、横が40センチの大型銅版画の第一号の作品として「贈右大臣大久保利通公」を完成させている。この銅版画は明治9年(1867)に描いたコンテ画の「大久保利通像」をそのまま銅版画に彫刻したものであり、志半ばにして暗殺された大久保利通を偲んで得能局長が製造を委嘱したものであろう。この作品は印刷局から出版され、一般にも販売したものである。
 肖像部分は柔らかな点線を主体とした画線で構成され、毛髪やひげ、目の部分などは直刻エングレービングにより鋭く繊細な曲線の画線で表現されている。また衣装やポーズも威厳を持たせるように工夫されており、左胸に付けた大勲位菊花章は鋭角的なビュランの直線で表現されているのに対して、桐の花や唐草模様のモールは柔らかな質感を出すためにニードルを使った針彫りを用いている。また黒い礼服部分は、メゾチントによる彫刻で下地の黒を作り、その上から腐食凹版を用いてラシャの洋服の布地の素材を太い画線で表現するなど、各種の凹版技法を組合わせて、最新の技術を駆使して大型の銅版画を完成させている。
 特に人物のポーズ、背景、小道具や衣装には特別な配慮がなされており、権威を強調するために胸を張った立ちポーズを選び、右手を机上の本に乗せて、安定したスタイルとしている。また衣装には正式の礼服を着用させ、サーベルやリボン、帽子もしっかりと彫刻されている。右手下の本にも『征西日記』『辨理始末』というタイトルが見えており、大久保の業績と関連したものであることが分かる。さらに背景の置き時計や花瓶も人物を引き立たせるための奥行きを与える効果を持っている。この作品の左下のテーブル部分にはあまり目立たないように、凹版の文字で「Chiossone Tokio 1878」という作者の銘が彫刻されている。」
(植村峻「大蔵省印刷局におけるキヨッソーネの業績」明治美術学会 / (財)印刷局朝陽会(編)『お雇い外国人キヨッソーネ研究』中央公論美術出版、1999年所収、60-61ページより)

「(前略)キヨッソーネは大蔵省紙幣寮にあって、おもに紙幣印刷のための原版制作につとめた。周知のとおり、紙幣印刷にあっては、腐食銅版(エッチング)ではなく、直刻銅版(エングレーヴィング)によって、微細な紋様をほりこむか、あるいはメゾチントのような細密技法が望ましかった。キヨッソーネは、直刻ばかりかのちには電胎法などの新規の技法をも開発にむかった。
 直刻法は、江戸時代この方、日本には存在しなかった。明治初年における銅版画は、その頂点としての玄々堂二台目の松田緑山にあってもエッチングであり、紙幣印刷には好適とはいいがたい。むろん、日本には江戸期以来、すでに藩札という根強い伝統が存在した。けれども、この藩札は和紙に木版で印刷する様式であり、近代貨幣社会における直刻銅版印刷に代替できるわけではない。こうして、キヨッソーネによって導入された紙幣印刷術は、紙幣寮において独占的に適用されて、日本の通貨制度をささえることになる。
 一般に、日本の近代社会にあっては、金・銀や銅による通貨とならび、もしくはそれ以上に、発券銀行による安定した発行に信頼をよせることをえらび、キヨッソーネの紙幣原版の制作技術は大幅にうけいれられることになった。日本職人の伝統的彫刻技術は、きわめて高度に展開しており、金属紙幣の彫刻にあってその特徴をよくいかしたとされるが、おなじくキヨッソーネの直刻法(エングレーヴィング)の受容にあっても、特筆すべき水準に達したといえる。「お雇い」としてのキヨッソーネは、じつに16年におよぶ紙幣寮勤務をまっとうし、印紙・切手などの国家的印刷物の全般に貢献して日本の近代化に尽力した。1898年に東京で死去したのち、生涯をとおして蒐集された東洋美術品は、故国イタリアのジェノヴァに遺贈され日本紹介に有為の貢献をはたした。もっとも実質度の濃厚な「お雇い」であり、19世紀を文字どおり体現したイタリア人であった。」
(樺山紘一「お雇いのイタリア人芸術家たち」印刷博物館『印刷と美術のあいだ:キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本』2014年所収論文、8ページより)

「本作品は、明治12(1879)年に制作された銅版画で、印刷局でお札等の原版彫刻に携わったキヨッソーネ の手によるものです。描かれているのは大久保利通、明治政府の重鎮で維新の際には西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)と並んで三傑と呼ばれた人物です。
 これには銅版画の彫刻技法である、エングレーヴィング(彫刻刀で直接、溝を彫る)、エッチング(薬剤で線を腐食して溝とする)、メゾチント(あらかじめ全面に溝を彫っておいてから不要な部分を削る)が駆使されており、銅版画の持ち味である豊かな階調表現と微細さによって、大礼服の布地の質感や袖口の飾りの刺繍糸などが写実的に再現されています。
 記録によれば、本作品が本邦初のメゾチント技法を使ったものとされています。」
(お札と切手の博物館HP「キヨッソーネ彫刻 大久保利通像 解説」より)


「(前略)彼が銅版画家として日本の紙幣や諸印刷などにかかわりその発行を指導する重積を負って見事にそれを果たしただけでなく、後継者を養成したすぐれたお雇い外国人であった点を強調しなければならない。
 ヨーロッパで版画専門家というのは、日本の浮世絵師などと異なり創造者というより過去の名作を版画に写すコピーライター的な性格をもっていた。フォンタネージは油絵画家でもあり版画家でもあってすぐれた創造者であったが、キヨッソーネが来日以前にすでに銅版彫刻家として名をなし、ルネッサンス期の傑作のよい版刻を残しているのは彼の技術の才能を充分証明することになっている。うまれつき彼はデザインに興味をもって、紙幣の改造に熱心であり、イタリア政府のために働いていたので、彼の来日は実際人を得た選択だったといえよう。そして、明治政府が彼に明治の元勲たちの肖像を銅版でつくらせたのはその技術を見込んでのことで彼は充分才能を発揮した。」
(井関正昭「イタリアからきたお雇い外国人」『キヨッソーネと近世日本画里帰り展:イタリア・ジェノヴァ市・キヨッソーネ東洋美術館所蔵』毎日出版社、1990年?より)

「キヨッソーネは「銅板彫刻師」としての腕(技術)を見込まれての雇用であった。日本での功績としては、ビュランを使っての「エングレービング」や、「メゾチント」などの直刻銅版技術の教授であり、また、印刷界にあって最も重要なのが、大量印刷を行うために、原版からの精巧な複製の版(製版)を起こす「クラッチ法」と「電跆法」など、西欧の本格的な近代製版術を伝えたことである。さらには、浮世絵版画や古楽器・武具などに注目して優れた収集を行い、それを後世に遺したことである。このことはイタリアと日本の両国にわたる文化交流の意味でも重要で、その収集品はジェノバ東洋美術館の設立となって実現している。」
(岩切新一郎『明治版画史』吉川弘文館、2009年、97、98ページより)