書籍目録

『源氏物語:最も著名な日本の古典小説』

紫式部 / 末松謙澄(訳)

『源氏物語:最も著名な日本の古典小説』

英訳初版 1882年 ロンドン刊

Murasaki Shikibu / Suyematz, Kenchio (tr.).

GENJI MONOGATARI(源氏物語)THE MOST CELEBRATED OF THE CLASSICAL JAPANESE ROMANCES.

London, Trübner & Co, 1882. <AB2023128>

Reserved

First edition in English.

8vo (12.8 cm x 19.0 cm), pp.[i(Half Title)-iii(Title.)-vii], viii-xvi, pp.[1], 2-253, Original decorative light green cloth.
仮表題紙に書き込みあり。時折シミが散見されるが概ね良好な状態。[NCID: BA13065578]

Information

ロンドンの名門出版社から刊行された『源氏物語』最初の西洋語翻訳となった末松謙澄による英語訳版

 本書は、『源氏物語』が初めて英語に翻訳されて刊行されたという記念すべき作品です。翻訳を手掛けたのは当時ケンブリッジ大学に留学中でのちに外交官などとして多方面で活躍することになる末松謙澄で「絵合」までの17巻を英訳して、東洋研究関連の出版で著名だったロンドンのTrübner 社から1882年に刊行しています。

 『源氏物語』の英語訳としては、後年のウェイリー(Arthur David Waley, 1889 - 1966)によるものがつとに有名ですが、末松謙澄によるこの英語訳版は第17巻までの部分訳とはいえ、それよりもはるかに早く刊行されている英語訳版として、注目に値します。本書が刊行された1882年の時点では、日本文学史の近代的な研究がようやくその端緒についたばかりの時期で、昔噺集などの英語訳などが次第に現れつつあったとはいえ、『源氏物語』のような本格的な古典作品の英語訳はまだなされていませんでした。こうした時期にあって刊行された末松訳は先駆的な英語訳であったといえますが、そもそもの日本文学史に対する認識、研究が西洋社会において不十分であったという時代的な制約もあって、刊行当時はそれほど芳しい評価を得られなかったとされています。しかしながら、近年ではこの末松訳を再評価する機運が高まっており、同書に対して改めて注目が集まってきています。

 また、末松によるこの英語訳は、日本の古典文学作品の紹介としてだけでなく、日本の伝統性や文化の豊かさを西洋社会に積極的に紹介するという意図もあったと言われています。本書は、東洋学研究の作品を当時多数手掛けており、横浜や上海といったアジア各地にもネットワークを有していたTrübner 社から刊行されていますが、同社から刊行することによってロンドンのみならず、西洋人居留民が多数滞在していた同社のネットワーク拠点(横浜や上海)においても本書は販売されたであろうと推測されます。末松はこうした点もある程度考慮した上で同書の出版をTrübner社に委ねたのではないかと考えられます。

 上述の通り、本書は刊行当時にそれほど芳しい評価を得られなかったようで、そのことも影響してか、残念ながらTrübner社から本書の再版が刊行されることはありませんでした。初版の発行部数は300部ほどとされていて、国内の研究機関には一定の所蔵が認められるものの、現在では極めて貴重な書物となってしまっています。また、ずっと後年になって1894年に東京において「改訂第2版」(Second edition, revised)が丸屋(丸善)から出版されていますが、こちらも初版と同様に現在では入手が困難な書物として知られています。


「それにしても、忘れてはならない。世界で最初に源氏物語を外国語(英語)に翻訳したのは、日本人の末松謙澄であった(1882年)。明治初年のことである。源氏物語の翻訳というと、一般的にはウェイリーの名前が最初に出てくる。しかし、それよりも44年も前になされた末松の功績は、銘記されるべきである。末松訳は全54巻を訳したのではなく、第17巻の「絵合」までであった。しかし、ウェイリー訳のように抄訳ではない。英国人に日本の文化をわかってもらおうとして、苦心して翻訳したのである。」
(京都文化博物館『源氏物語千年紀展:恋、千年の時空を超えて』2008年、226ページより)


「1882年に『源氏物語』最初の英訳が英国のTrübner社より出版された。翻訳家の末松謙澄は当時イギリスに留学していた。末松は英語が雄弁で、ケンブリッジ大学の法律学部を卒業した。末松の英訳は17章まで、全54章の約三分の一を訳したが、近年の研究によると、登場人物をおとすことやこの英訳の政治的な動機、日本での源氏物語と紫式部のとらえ方などが集中的に多くなっている。末松英訳は数回にわたって重版されているが、ケンブリッジ大学のClements氏によると初版の数はおよろ320冊であった。そのうち現在世界中100冊未満しか残されておらず、主にヨーロッパの図書館に保管されている。(後略)」
(ラリー・ウォーカー「『源氏物語』末松英訳初版表紙のバリエーションについて」人間文化研究機構 国文学研究資料館『海外平安文学研究ジャーナル 3.0』2015年、42ページより)


「『源氏物語』の英語翻訳は、1881年(原文ママ、正しくは1882年:引用者注)の末松謙澄にはじまり、1925年、アーサー・ウェイリーによる本格的な英訳が出た。以来、英語訳はもちろん、多くの外国語訳が次々となされてきた。末松謙澄の『源氏物語』の英語訳の18年後に出版されたW・G・アストンの『日本文学史』(William George Aston, A History of Japanese Literature 1899)の中で、彼は「今から40年前までは、日本語の本を1ページでも呼んだことのあるイギリス人は誰一人としていなかった。」と言っている。このような状況は、1878年頃から変化をみせはじめてきた。それは、末松謙澄が在英日本大使館一等書記官として渡英したこと、もう一つはアメリカの哲学者アーネスト。フェノロサが東京大学にて哲学を講義するために来日したことである。これにより『源氏物語』の世界へのデビューの足がかりが作られていったと考えられる。」

「末松謙澄は豊前国生まれで、十歳の時から村上仏山について漢学を真なび、かなりのレベルに達している。末松が自由に漢詩・漢文を作れるようになったのは、この仏山のお陰である。末松16歳の頃、高橋是清に漢文を教え、高橋は末松に英語を教えている。この時高橋是清は末松の才能が尋常ではないことに驚嘆している。末松は一年も経たぬうちに一通り英文を解読するだけの力をつけている。二人は協力し、外国から来る英字新聞の記事を東京の諸新聞社に売り歩き、非常に歓迎されている。さらに東京日々新聞の社長福地桜痴が末松の英才ぶりに目をとめ、これにより末松は明治政府中央に加わっていく。(中略)
 末松は英国留学中の1879年頃、英文による最初の試みとして、The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitune を出版した。それは、ヨーロッパにまで支配を広げた世界歴史上例をみない大征服者ジンギスカンと、日本の悲劇のヒーロー源義経の同一人説を展開したものである。義経の伝説、痕跡のようなものが衣川から東北、北海道、そして大陸にまでつながっていることを、末松は自分の得意な漢文、漢詩の素養を生かし、中国の古文献や江戸時代の学者の説などをこれに加えて書きあらわしたのである。当時の英国人たちは呆気に取られたという。源義経を蒙古風に読むと「ゲン・ギ・ギャン」というところに目をつけ、島国日本が西洋文明に劣らないことをなんとか紹介しようとしたのである。また末松は、村上仏山に学んだ漢学を英詩の翻訳に役立てている。トーマス・グレー(Thomas Gray 1716〜1771)の Elegy in a Country Churchyard の漢訳(1879年)、この他バイロン(George Byron 1788〜1824)(1880年)、シェリー(Percy Bysshe Shelley 1792〜1822)の作品の漢訳(1882年)もしており、末松は日本における英詩翻訳の先駆者としても名を残している。
 彼は1880年に、ケンブリッジ大学にて文学を学びはじめている。そこで学んでいる最中、『源氏物語』翻訳の必要性に気づかされたのではないか。1881年に、日本国はこんなに早くから西洋文明諸国に伍する文明国であったとして紹介したのが、千年もの昔の『源氏物語』である。西洋人はその時はじめて日本文化と紫式部という女流作家の存在を知らされたのである。末松は、この頃、逆啓蒙家として働いたことになるのではなかろうか。
 そうして渡英中もおそらくこれと同じような意図であろう、かれは「日本の偉大な文学的遺産の証しを西洋人が手に触れることができるようにということで、『源氏物語』を翻訳した」とその序文に記述している。またその中で「この『源氏物語』は自国語で書かれ、日本人がいかなる外国の影響も受けずに、著しい発展を遂げた平安時代文化の作品である」と強く訴えている。末松の『源氏物語』に関する知識の深さは、その序文の中でかなり詳しく彼なりの批判をも加え、解説していることからも伝わってくる。このように文学においても博学であった末松は、この『源氏物語』を日本の誇る文化芸術として世界に発信したく思っていたことが伺われる。
 『源氏物語』の翻訳のはじまり、その歴史を振り返るなら確かにこの末松謙澄訳(1881年)がはじめてである。それは「桐壺」巻から「絵合」巻まで十七帖の部分訳であった。(中略)
 これからすると末松はこの『源氏物語』翻訳を外交官として、日本を欧米に伝える仕事の一つとしていることがみえてくる。逆にそれほど文学的に翻訳することには重きを置かなかったと言ってよいであろう。これがヨーロッパで出版された時の評価の低さにつながったのだろうか。現在の『源氏物語』の世界的な評価とはほど遠いものだったのである。
 1889年、W・G・アストンが出版した『日本文学史』によると、ジョルジュ・ブスケ(George Bousquet)というフランス人がこの翻訳を読んで「日本のスキュデリともいうべき退屈きわまる作品だ」と酷評し、チャンバレン(Basil Hall Chamberlain)までが同様の意見を述べている。アストン自身がその『日本文学史』の補註でこの翻訳を”highly creditable performance!(非常に見事な出来映え)と述べているのはむしろ例外的であった。」
「末松の『源氏物語』英訳は何故このように殆ど埋もれてしまったのであろうか。いくつかの理由が考えられる。まず前述の武助の酷評、それを支持したチェンバレンの影響が大きいであろう。これらの大御所からの評価をくつがしにくい状況ができたこともあったのではないか。また突然の遥か彼方、東洋の島国から現れた異質な作品で、西洋の文学者がその評価に戸惑ったとも考えられる。
 当時の末松には、強い使命感と共に相手に対する敬意と謙虚さ、思いやりが、常にあったようである。このような末松の性格が、彼の『源氏物語』翻訳、序文の中での「この作品が持つ多くの欠点については許してもらいたい」などの発言にもつながるのであろう。しかしこのような発言は、文学における世界の中心を自負し、遠いアジアの島国日本を見下していた西洋の文学者、批評家たちの優越性から考えると、末松『源氏物語』英訳が、正当な評価を得られなかった原因にもなったであろう。極言するなら、実績のないものがあまりにもへり下ると評価されないということがあったのではないか。(中略)
 末松謙澄はまさに発想豊かな向学心に燃えた英才であって、若い時から日本のために何かをしたいという気持ちが非常に強かった。その彼が西洋の中心ともいえるイギリスにおいてこの『源氏物語』を、日本は西洋より古い千年もの昔から高い文明性をもっていたことの証として、広く紹介しようとしたのである。しかし翻訳そのものの価値以外の様々な時代的な事情もあり、この末松訳は『源氏物語』を世界に広めるまでのエネルギーには成り得なかったのである。」
(キン ワイン シ「世界における『源氏物語』翻訳者、その出会いと翻訳の意図」筑波大学文学研究会『文学研究論集』第26号所収、2-4ページより)

参考)右は、末松訳第2版となった国内版(1894年)