書籍目録

『ブラウエルによる1643年の地理航海記と統治の風俗、貿易、習慣についての記録:強大な日本帝国から約30マイル、北緯39度49分に位置する蝦夷島についての記録』

ブラウエル / フリース

『ブラウエルによる1643年の地理航海記と統治の風俗、貿易、習慣についての記録:強大な日本帝国から約30マイル、北緯39度49分に位置する蝦夷島についての記録』

(第2版) 1650年代  アムステルダム刊

Brouwer, Hendrick / Vries, Marten Gerritsz. de.

JOURNAEL ende historis verhael van de reyse gedaen de Straetle Maire, naer de Custen van Chili, onder het beleyt van den Heer Generael HENDRICK BROUWER, Inden Jare 1643 voor gevallen: …Als mede Een beschryvinge van het Eylandt Eso, gelegen ontrent dertigh

Amsterdam, Jan I. Bouman, c.1650s. <AB2023126>

¥385,000

(2nd edition)

Small 4to (14.8 cm x 18.5 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-104, Folded plates: [2](i.e. LACKING 2(No.1 & 2)plates), Modern marble paper wrappers.
マーブル紙を用いた近年に施されたと思われる簡易装丁。折り込み図版1と2が欠落しているが、他本に見られない4枚目の折り込み図版あり。テキストは完備しており、概ね良好な状態。[NCID: BA34565295] [Landwehr: 372 (first edition)]

Information

蝦夷地や得撫島、択捉島近海の測量情報やアイヌの人々との交流を記録したヨーロッパにおける最初の記録として大きな反響を呼んだ航海記

 本書はともに1643年に行われたオランダ東西インド会社の2つの航海記を収録した作品です。その前半部分は、オランダ西インド会社のブラウエル(Hendrick Brouwer, 1581 - 164)によるチリ沿岸の航海記と地理の風俗等をまとめたもので、後半(95ページ〜)では、現在の北海道や樺太、千島列島をヨーロッパ人として初めて航海、記録し、択捉島を「(オランダ)国の島」(Staten Eylandt)、得撫島を「(オランダ東インド)会社の土地」(Compagnies Lant)と命名したことで知られる、フリース(Maerten Gerritsz. de Vries, 1589 - 1647)の航海記が収録されています。

 前半に収録されているブラウエルの航海記は、それまでに1613年から1614年にかけて平戸オランダ商館長や、1632年から1634年にかけてオランダ東インド総督などを歴任していたブラウエルがオランダ西インド会社として、チリ近郊での金鉱発掘調査のために1643年に行った航海記で、直接日本と関係がある内容ではありませんが、当時のオランダ東インド会社、西インド会社、そして敵対するスペインとの関係などにおいて重要な役割を果たした航海の貴重な記録と言えるものです。

 本書の後半に収録されているフリースの航海記は、日本の北東沖に存在すると当時考えられていた「金銀島」探索のために行われたもので、スハープ(Hendrick Cornelisz Sshaep, 1611 - 1647)の率いるブレスケンス(Breskens)号と、フリースの率いるカストリクム(Castricum)号の2隻によって1643年の夏に実施され航海のうち、後者のカストリクム号の航海記のうち、彼らが上陸した蝦夷地とそこでのアイヌや日本の人々との交流に関する部分を収録したものです。フリースは日本近海(房総半島沖とされる)を航行中の同年5月にブレスケンス号を見失ってしまいますが、単独でそのまま航海を続け、択捉島と得撫島、蝦夷東岸の一部を測量し、蝦夷地(現在の厚岸付近)に上陸してしばらく滞在して同地のアイヌや日本の人々との交流も行いました。現在の北方領土や北海道、樺太にあたるこれらの海域、地域は、それまでヨーロッパ人にとって全く未知のエリアであったことから、「金銀島の発見」という当初の目的は果たせなかったものの、結果的にフリースの航海は初めてこの海域や地域、人々の情報をヨーロッパにもたらした画期的な航海となりました。そのため、フリースによる蝦夷地に関する情報を中心とした航海記と測量図はフリース帰還後すぐに、多くの人々の関心を呼ぶこととなり、彼のもたらした最新情報にもとづいた新しい海図や地図が多数刊行されました。

 フリースによるこの画期的な航海記の蝦夷地とその近海に関する記録は、フリース帰還後すぐの1646年にアムステルダムで最初に刊行されています。本書には刊行年の記載がありませんが、この1646年初版に次いで、1650年代に刊行されたと思われる第2版に相当するものです。「日本の人々によって蝦夷と呼ばれている島についての短報」(Korte beschrijvinge het Eyulandt by de Iapanders Eso genaemt)と題されたこの記事は、蝦夷地における松前の位置付けや江戸幕府との関係、彼らが「発見」した「オランダ国の島」(択捉島)や「オランダ東インド会社の土地」(得撫島)に関する測量情報、そしてフリースらが2週間余り滞在した北緯45度10分に位置する蝦夷のある地(現在の厚岸と考えられている)における人々との交流や観察の記録などが記されています。この記事に収録されている航海記や蝦夷地の人々に関する記述は、ヨーロッパでこれまでに前例のない貴重な情報として大きな反響を呼び、18世紀に至るまで複数の航海記などの著作に転載、翻訳され続けるなど、長きにわたって大きな影響を与えたことが知られています。

 なお、フリースの航海において航海長を務めていたクーン(C.J. Coen)は、本書より詳細な航海記を作成してましたが、この航海記は当時刊行されることはなく、1858年になってようやく、シーボルトによる図を付して公刊されています(Leupe, P. A.(ed.) / Coen, C. J. Reize van Maarten Gerritsz. Vries in 1643…Amsterdam: Frederik Muller, 1858)。したがって、実質的にそれまでの間、本書は当時入手しうる公刊された唯一のフリース航海記として、長きにわたって影響力を有した作品であるといえます。

 本書は前半の「チリ沿岸航海記」に収録されている折り込み図版3枚のうち、2枚が欠落(簡易コピーによる補填あり)していますが、後半に収録されているフリースによる「蝦夷航海記短報」は完備しています。本書は全体でも100ページ強ほどの小冊子として刊行されたためか、当時の大きな反響とは裏腹に現存するものが非常に少なく、今日では入手が困難になっていることに鑑みると、大変貴重な1冊と言えるでしょう。本書に収録された「蝦夷航海記短報」は、わずか10ページほどの短い記録ではありますが、フリースによる画期的な航海の記録と、蝦夷地の人々との交流を描いた当時公刊された唯一の貴重な記録として、長きにわたって大きな影響を与えた重要な作品です。

「厚岸の歴史がもつ特質の第一は、オランダ船、後にはロシア船やオーストラリア船という具合に、自然の良港として立地によって、外国船がたびたび訪れ、諸外国との接点になってきた点にある。その二は海の資源の豊かさにある。そこには資源をよりどころとするアイヌ民族の存在や、交易で訪れる松前藩との交点が生まれている。そして特質の第三が、松前、函館と根室、千島との中継地としての役割であった。

 厚岸に暮らす人々について記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。それは長らくオランダの国立総合公文書館に眠っていた。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号が厚岸に寄港し、当時の厚岸に様子を航海記録に残したものがそれである。

 記録にはノイアサックという長の元で暮らしているアイヌの生活とカキに代表される豊かな山海の幸に恵まれた厚岸の自然が記されている。記録に描かれたアイヌたちは、慎み深く、長ノイアサックを中心に秩序だった生活を送っていた。フリースの部下とノイアサックの娘に誤解を招く行為があったとして、ノイアサックは怒り、村人を集めて自分の娘を打って懲らしめた。このためフリースは、ノイアサックに、船員の行為の詫びとして、長に衣類と刀を与えて怒りを鎮めたという。村人は、フリースらに機会のあるごとにカキとハマナスの実を贈り物として届けている。当時から厚岸ではカキが重要な産物だったことがうかがえる。

 厚岸の語源は、アイヌ語のアッケウシイ(アツ=オヒョウニレの樹皮、ケ=はがし、ウシ=いつもする、イ=所)であるという。カストリクム号の航海記録では、当時のアイヌが自らの土地を「アッキス(オランダ語発音)」と呼んでいたことが記録されている。いずれにせよ「アッケシ」という地名はアイヌ民族の言葉であり、それはこの地に和人より先に住んでいた人が誰なのかを物語っている。

 カストリクム号の厚岸での滞在は、8月15日から9月2日までの18日間に及んだ。その間、彼らは日本の交易船にも遭遇した。
 カストリクム号の寄港する以前、寛永年間、厚岸は松前藩とアイヌ民族の交易場、すなわち商場であった。蝦夷地の資源に対する関心は、アイヌ民族との交易を通じた資源の入手から、本州の商人が資本、道具、働き手を連れてきて、自ら造材や漁業を直接経営することに移っていった。これが場所請負制度といわれるものである。

 この時、カストリクム号が出会った和人は場所請負商人ではなく、藩主手舟の上乗役小山五兵衛であった。厚岸に場所請負商人が登場するのは、安永3年(1774年)飛騨屋が、厚岸・室蘭・霧多布・国後の4場所を請け負うようになってからである。(後略)」
(厚岸町HP「厚岸町の歴史物語」https://www.akkeshi-town.jp/syoukai/rekishi_bunka/history/rekishi/ より)