書籍目録

『日本帝国の暴君達がカトリック信仰に抱いた憎悪によって命を奪われたイエズス会士たちの血と栄誉に染められた花束:信仰に対する憎悪によって1640年までに殺害された全ての聖職者と世俗人目録を添えて』(『日本殉教精華』)

カルディム

『日本帝国の暴君達がカトリック信仰に抱いた憎悪によって命を奪われたイエズス会士たちの血と栄誉に染められた花束:信仰に対する憎悪によって1640年までに殺害された全ての聖職者と世俗人目録を添えて』(『日本殉教精華』)

ポルトガル語訳版 1650年 リスボン刊

Cardim, António Francisco.

ELOGIOS, E RAMALHETE DE FLORES BORRIFADO COM O SANGV(U)E DOS RELIGIO-sos da Companhia de Iesu, a quem os tyrannos do Imperio de Iappaõ tiraraõ as vidas por odio da Fé Catholica. COM O CATALOGO DE TODOS os Religiosos, & seculares, que por odio da mesma Fè

Lisboa(Lisbon), Manoel da Silva, 1650. <AB2023124>

Sold

Edition in Portuguese

4to (13.5 cm x 19.2 cm), Title., 6 leaves, folded map(facsimile), pp.1-8, [9], 10-22, [23], 24-29, 50(i.e.30), 31-40, 51(i.e.41), 42–56, [NO DUPLICATED LEAF], 55-165, 196(i.e.166], 167-232, 234(i.e.233), 234-253, [NO LACKING LEAF], 256-322, 32(i.e.323), 324-326, LACKING 4 LEAVES(pp.327-334), 335-380, 86 numbered plates(i.e. LACKING 83]. Later gilt decorated vellum with 2 leather bands.

Information

「日本殉教録」として最も著名な作品の非常に珍しく、重要な意義を有するポルトガル語訳版

 本書は、イエズス会士カルディム(António Francisco Cardim, 1596 - 1659)によって編纂された日本における数多くの殉教者の記録を網羅的に収録した作品で、個々の事例の殉教場面を描いた凄惨な銅版画を多数収録していることでも非常に有名です。本書は1646年にローマで刊行されたラテン語版に続いて、1650年にリスボンで刊行された非常に珍しいポルトガル語訳版で、カルディム自身が原著ラテン語から訳したもので、銅版画もラテン語版同様に収録しています。本書には多くのラテン語版に見られる折り込みの日本図は収録されていませんが(代わりに後年の成功な複製図が綴じ込まれています)、ポルトガル語訳版は市場に出現することが滅多になく、ラテン語版に比べて極めて稀少なことで知られることから、とても貴重な1冊です。

 カルディムによるこの作品は、特徴的な銅版画を多数収録していることでこれまでよく知られていましたが、その実際の内容や執筆の背景、著者カルディムについての本格的な研究は比較的近年になるまでなされていませんでした。こうしたこれまでの状況に対して、2010年代以降は本書を正面から論じた論考がいくつか発表されるようになり、本書に対する注目が改めて高まっています。なかでも阿久根晋氏による「ポルトガル人イエズス会士アントニオ・カルディンの修史活動:『栄光の日本管区におけるイエズス会の闘い』の成立・構成・内容をめぐって」(『歴史文化社会論講座紀要第12号、2015年所収)をはじめとする一連のカルディムに関する論考は、カルディムの活躍した時代におけるイエズス会をはじめとした宣教師の活動について、当時すでに禁教政策が激化して久しい日本だけではなく、アジア全域に視点を拡大して考察することで、「キリシタン世紀の日本」の「その後」を時間的にも空間的にも拡張して理解する必要があることを多くの史料を駆使して実証的に論じています(ここでの店主による解説記事についても同氏の一連の研究成果に多くを負っています)。こうした研究の成果によって、それまで本書の著者としての名前ばかりが知られていたカルディムの活動全体や当時の時代背景などが明らかになってきており、その結果、本書に対する注目が改めて高まっていると思われます。

「ポルトガル人イエズス会士アントニオ・フランシスコ・カルディン(António Francisco Cardim, c.1596-1659)は、2001年にローマで出版されたイエズス会の公式歴史辞典において、”historiador”すなわち「史家」として位置づけられている。カルディンは約半世紀間に及んだイエズス会材会中、対内的な書信や年次報告を執筆するとともに、複数の著作を公にした。それらのジャンルは、自らが所属したイエズス会日本管区(本部はマカオに置かれ、当時の管轄地域は日本からマカオ以南の南方諸地域にまで拡大していた)の布教史、日本宣教の殉教者列伝、1640年のマカオ市使節の日本渡航記、さらには1649年のポルトガル船海南報告など多岐に亘る。カルディン死去の2年後にマカオで作成された「1659・60年度イエズス会日本管区年報」も、カルディンの長年の功労を顕彰するに際し、複数の著作がヨーロッパ各地で出版された事実に触れ、著述実績の面でもイエズス会に齎した貢献が多大であったことを報じている。17世紀中期のイエズス会日本管区のなかから、著作数の点でカルディンとほぼ同様の成果を残した者を挙げるとすれば、フランス人会士アレクサンドル・ド・ロード(Alexandre de Rhodes, c.1591-1660)を指摘できるに過ぎない。
 このように、カルディンは当時のイエズス会日本管区における有数の著述家であったと見做すことができ、それに相応しい関心が寄せられて然るべき人物であると考えられるが、カルディンの修史活動とその成果に焦点を当てた研究は少ない。従来の研究史において著作が翻訳や翻刻の形式に紹介されることもあったが、それらは短編の報告書の方であった。カルディンの主著の一つであり、キリシタン研究史上特に有名なものとして、日本宣教の殉教司祭、修道士の図版を多数掲載した殉教録が存在するが、この著作が分析の対象となったのはごく最近のことである。」
(阿久根前掲論文、75ページより)

 カルディムは1621年にゴアで叙階を受け、1623年にマカオに到着してからは、消滅の危機にある日本布教の継続を模索しつつ、東南アジア方面の布教拡大にも従事するなど多方面にわたって精力的に活動を続けました。1632年にはマカオのコレジオ院長として、マストリリ(Marcello Francesco Mastrilli, 1603 - 1637)をはじめとした日本における殉教者に関する証言を収集し、1638年には日本管区を代表するプロクラドールに選出されています。このプロクラドールという役職は「①ローマに赴いて会の当局に管区の情勢を報告すること、②管区の要務のためにローマで働くこと、③旅行を利用して宣伝、要員の勧誘、財政上・物質状の義損を集めること」(阿久根晋「アントニオ・フランシスコ・カルディンの弘報運動をめぐる文脈:イエズス会日本管区と聖ザビエルの「遺功」」川村信三 / 清水有子(編)『キリシタン1622:殉教・列聖・布教聖省 400年目の省察』(キリシタン文化研究第30冊)教文館、2024年所収、107ページ)をその任務としており、カルディムは1641年からのヨーロッパへの一時帰国に際して、こうした「弘報運動」を精力的に展開していくことになります。同氏によると、当時の「日本管区」は1626年度の年報作成以降、すでに15年以上も年報作成が中断しており、それとは対照的に精力的に活動していた中国準管区との間でアジア宣教の主導権をめぐる摩擦も生じており、カルディムはこうした状況にあって日本管区の健在を聖俗両界において広くアピールする必要がありました。1644年から46年にかけてのローマ滞在中に、「マカオ以南の諸地域が主たる活動部隊になりつつあった管区の状況と、それでいてなお「日本」の名が保持されていることの背景と意味を周知する」(同115ページ)ことを目的として、1645年に『日本管区報告』を、そして翌1646年には本書のラテン語版を刊行しています。

 本書は全3部で構成されていて、その構成や内容については1646年に刊行されたラテン語版と、本書であるポルトガル語訳版との間ではほとんど差異はありません。すなわち、

①ザビエルをはじめとした日本で宣教活動に従事し、現地で落命した宣教師や修道士たちについて一人一人をその銅版画とともに紹介(pp.12-234)
①’大村純忠、大友宗麟、高山右近ら名高い日本のキリシタン大名を紹介した補遺(pp.235-259)

②日本で殉教した人々を年代順(1557年〜1640年4月、ただし本書では1633年10月までで以降はページが欠落)に列挙した殉教者名簿(pp.261-326 *本来はp.332まで)

③幕府との貿易再会を求めて来日したものの幕府によって61名が処刑されたポルトガル使節についての報告(pp.335-380 *本来はp.333から)

という構成となっています。このうち本書の中で最も有名なのは①に当たる部分で、時に非常に凄惨な場面を描いた銅版画を多数収録しており、簡便に記されたテキストによる文字情報以上に、誰が見てもインパクトのある視覚情報を広く提供することに重きが置かれています。現在の視点から見ても非常に印象的なこの部分は、当時のヨーロッパにおける読者にとっても非常に衝撃的であったと思われ、カルディムの「弘報運動」の成果の一つとして大きな影響力を与えたことがうかがえます。

「同書には、その書名にある通り、イエズス会の殉教者のみが取り上げられており、日本人を含めてすべてがイエズス会士である。収録されている画像は、その多くが殉教図であるが、なかには殉教図ではないものもある。殉教図ではないものには、殉教者の生前の様子などを描いたものもある。初期の殉教者を中心として、殉教者が蛇を持っている図が複数確認できる。キリスト教芸術や聖人伝においては、龍や蛇は征服されるべき悪魔の象徴である。殉教者が蛇を持っているのは、その人物が悪魔を屈服させたことを意味していると考えられる。
 同書に収録されている殉教者は、1552年12月に広東省上川島において没したフランシスコ・ザビエルに始まり、1637年10月17日の長崎において殉教したマルチェロ・マストリーリまでが収録されている。ザビエルは、迫害者によって殺害されたのではないが、殉教者に数えられることがあり、しばしば日本における殉教者の象徴的存在とされている。同書の刊行以前となる1622年にザビエルがロヨラと共に列聖されたこともザビエルが同書に収録されたことに関係すると考えられる。」
(浅見雅一「アントニオ・カルディン著『日本の精華』について」同(編)『近世印刷史とイエズス会系「絵入り本」』慶応義塾大学文学部、2014年所収、145ページより)

 興味深いことに本書では殉教者を描いた銅版画のうち、マストリリの図版だけが欠落しており、これは製本時の落丁によるものというよりも、本書が刊行された当時にマストリリを崇敬する運動が広く非常に高まっていたとされることに鑑みると、当時の信者が切り取ってしまったために欠落しているのではないかと推察されます。その意味では、本書は本来あるべき図版を欠落した書物ではあるものの、その欠落自身が何事かを物語っているという大変興味深い事例と考えることもできるでしょう。

 ②と③についてはラテン語版では独立したタイトルページとページ付がなされており、現存本の中にはこれらを含まないものも存在することが確認されていますが、ポルトガル語版では、統一したページ番号が与えられ、一つの作品内の各部として収録されています。残念ながら本書では、②の末尾から③の冒頭に該当する327から334ページが欠落しています。また、現存するラテン語版やポルトガル語訳版の多くに収録されている特徴的な折り込みの日本図も、本書では欠落していますが、こちらは後年に作成されたと思われる、やや厚手の用紙に印刷された非常に精巧な原寸大の複製図が綴じ込まれています。

 カルディムの『日本殉教精華』は当時大きな反響を呼んだものと思われ、多くの現存本を確認することができるほどの一定部数が刊行されたことがうかがえ、それに呼応するようにラテン語版については日本国内でもそれなりに所蔵機関を確認することができます。それに対して、本書であるポルトガル語訳版については発行部数が相対的に少なかったのか、現在では所蔵機関が非常に少なく、世界的に見てもラテン語版よりも著しく現存部数が少ない作品であることが知られています。

「同書についての不自然な点としては、ラテン語の初版がこれほど広く流通した形跡がありながら、ラテン語版が再版された形跡がないことである。ポルトガル語版についても再版は確認できない。また、その他の言語に翻訳されたことも確認できない。なぜ同署は1650年刊のポルトガル語版以降は再版されなかったのか。一つの可能性として、ラテン語版とポルトガル語版の双方に使用された銅版が、カルディン自身の手によってローマからリスボンに齎されたので、ローマにおいては再版できなかったことが考えられる。」
(浅見前掲論文、145ページより)

 このようにラテン語版と比べ、相対的に発行部数が少なかったと思われるポルトガル語訳版ですが、逆に考えると、カルディムは、言語的なマイノリティ性(市場性の小ささ)を十分に理解しつつも、あえてこのポルトガル語訳版をラテン語版を再版することよりも優先させて、しかも自らの手で翻訳を手掛けてまで、リスボンで小部数ながら刊行したということになります。一見すると、カルディムの「弘報運動」において非合理的とも思われるこの判断は、本書刊行直前とも言える1640年にポルトガルが再独立を果たしたこと、カルディムがその「弘報運動」の重要なターゲットとしてポルトガル王ジョアン4世を念頭に置いていたことが大きく関係していたのではないかと思われます。

「この弘報活動に取り組む直前、カルディンは近世ポルトガル史上の転機にも際会していた。すなわち、1640年のポルトガルの「復活」である。彼はジョアン4世即位の報せを受け、アジア貿易・布教拠点としてのマカオの重要性を王室に説き、日本への特使派遣の提案もおこなっていた。この遣使は好結果をもたらさなかったが、日葡関係の復交を期したカルディンの試みそれ自体は、「1659・60年度日本管区年報」が報じたように、プロクラドール就任中の一つの「実績」として評価しうるものであろう。」
(阿久根前掲論文(2024)123ページより)

 このように考えると、当時のカトリック世界にあって公用語であったラテン語版だけでなく、発行部数が極めて限られることが予想されるにもかかわらず、カルディムは明確な意図を持って、このポルトガル語訳版を手掛けたのではないかと思われます。その意味では、本書はいくつかの欠落が見られるものの、当時のイエズス会の「日本管区」に置いて中心的な役割を果たしていたカルディムの多岐にわたる精力的な「弘報運動」全体と、その複雑な時代背景を理解する上で非常に重要な示唆を提供してくれる、大変重要で貴重な1冊であると言えるでしょう。


「フェルナンデスが「元和大殉教」の記録を書き、そこにアントニオ・フランシスコ・カルディン(António Francisco Cardim, 1596頃-1659)の註記が加わるまでの30年近くのあいだに、イエズス会の日本布教は徳川政権の徹底した禁教策のために幕を閉じ、フェルナンデスが言及していた年報の作成も1627年に中断された。だがそれ以降もなお、「日本管区」の名は保持されてゆく。
 この「日本管区」の名と歴史に特別の意味を見出し、その名のもとで進められた広域的事業の成果発信に役割を果たしたイエズス会士こそ、アントニオ・フランシスコ・カルディンその人であった。かかる弘報運動にカルディンが従事したのは、先の引用文に示された役職、すなわち管区代表プロクラドールに就任したことと関わりが深い。
 従来の研究史でカルディンの名が言及される場合、その多くは、本稿の第3節でも触れる殉教録の著者として、または同書所載の日本図の作者としてであろう。彼の他の著述とその成立事情、そして管区代表としての一連の活動を総合的に探求する試みは、いまだ道半ばにある。」
((阿久根前掲論文(2024)103ページより)