書籍目録

『中国近海水路誌 第4巻:朝鮮沿岸、韃靼ロシア、日本諸島、韃靼海湾とアムール、オホーツク海ならびに宮古、琉球、リンスホーテン(吐噶喇)、ボーニン(小笠原)、サハリン、千島列島』

ジャラッド / 英国海軍水路部 / (『寰瀛水路誌』)

『中国近海水路誌 第4巻:朝鮮沿岸、韃靼ロシア、日本諸島、韃靼海湾とアムール、オホーツク海ならびに宮古、琉球、リンスホーテン(吐噶喇)、ボーニン(小笠原)、サハリン、千島列島』

第2版 1884年 ロンドン刊

Jarrad, W. / The Hydrographic Office, Admiralty.

THE CHINA SEA DIRECTORY, VOL. IV. COMPRISING THE COASTS OF KOREA, RUSSIAN TARTARY, THE JAPAN ISLANDS, GULFS OF TARTARY AND AMÙR, AND THE SEA OF OKHOTSK; ALSO THE MEIACO, LIU-KIU, LINSCHOTEN, MARIANA, BONIN, SAGHALIN, AND KURIL ISLANDS.

London, (Printed for)The Hydrographic Office, Admiralty / (and sold by) J.D. Potter(, Agent for the Admiralty Charts), 1864. <AB2023119>

Sold

Second edition.

8vo (15.3 cm x 24.0 cm), pp.[i(Title.)-iv], v-xii, folded map, pp.[1], 2-21, [22], 23-664, Original yellow cloth.
装丁背部に傷み、表紙見返しに補修跡あ流が本文は概ね良好な状態。[NDLID: 023676288]

Information

明治政府最初の公式水路誌『寰瀛水路誌』に多大な影響を与えたイギリス海軍公式水路誌

「海図が見るための航路案内図であるならば、水路書誌は海図と併用することにより、海図では表現できない種々の要素を記述して、航路・港湾の案内をする指導書の役割を果たすものである。」
(海上保安庁水路部(編)『日本水路誌:1871〜1971 HYDROGRAPHY IN JAPAN』(財)日本水路協会、1971年、581ページより)

 本書は、イギリス海軍水路部によって刊行されていた、中国沿岸部や日本周辺といった東アジア周辺海域の情報をまとめた水路誌です。上記で言われているように、当該海域の海図と合わせて用いるためのもので、欧米列強諸国による東アジア進出に伴って航行する船舶が激増しつつあった当時にあって、あらゆる船舶がその航海において必要としていた、現在でいうところのナビゲーションのような書物です。「アジアの海の大英帝国」とも称されるように、当時イギリスは同海域において圧倒的な影響力を有し、周辺海域の情報を収集、整理してそれを公開するという責務を自らに課しており、その意味で、本書は当時最新で最も権威ある「アジアの海のナビゲーション」として広く用いられたと言える重要な書物です。

  イギリスにおける日本を含む東アジア海域の水路誌刊行は、中国近海までをカバーした『東インド水路誌』(Horsburgh, James. India directory, or, directions for sailing to India directory, or, directions for sailing to and from the East Indies, China, New Holland, Cape of Good Hope, Brazil and the interjacent ports. 2 vols. London, 1809-11) が最初期のものではないかと思われます。同書はイギリス東インド会社が実質的に監修していたもので、初版刊行以後も1850年代まで何度も改訂版が出されていて、当時、東アジア海域を航海する際に必携の水路誌であったと思われますが、日本近海の水路情報に関しては長崎(Nanga-Saque harbor)を中心とした極めて限定的でしかありませんでした。
 こうした状況にあって、初めて日本近海の水路情報を本格的に広く提供することになったのは、ペリー来航直前の時期にあたる1851年にフィンドレー(Alexander George Findlay, 1812 - 1875)が刊行した『太平洋航海水路誌』(A directory for the navigation of the pacific ocean)ではないかと思われます。フィンドレーは王室地理学協会のフェロー会員であったことが示すように海図製作者としての評価は極めて高く、フィンドレーによる海事関係の出版物は、海図、水路誌をはじめとして、灯台設備に関するものも含まれていて、当時のほとんどの海事関係者が彼の著作の影響(恩恵)を受けていたのではないかと思われます。『太平洋航海水路誌』はこのフィンドレーが、18世紀に遡る歴史を有する、地図、海図出版を中心に活躍していた老舗ローリー社(Richard Holmes Laurie)から刊行したもので、日本近海の水路情報を含む本格的な水路誌の嚆矢となりました。
 これに続いて1855年に、イギリス海軍水路部が東アジア海域の「公式」水路誌として初めて刊行したものが本書初版です。『チャイナ・パイロット』と題されたこの水路誌は、インドや東南アジア海域とは別個に、東アジア海域を独立して扱ったもので、これがイギリス公式の日本を含む東アジア海域を対象とした最初の水路誌となりました。この初版における日本近海の情報は、基本的にペリー日本遠征時の測量記録や、フランスのセシーユによる琉球周辺の測量記録を主要な情報源としています。1858年に刊行された第2版は、これらの情報をさらに精査しつつ、サラセン号による自国の測量調査なども盛り込んで情報の充実が図られました。そして、この第2版に続いて1861年に刊行された第3版である本書において、初めて日本が独立した章で詳述されるようになり、イギリス公式の水路誌として一つの大きな転換期を迎えることになります。1864年に刊行された第4版は、第3版刊行からわずか3年後に刊行されているにもかかわらず、全体で約200ページも分量が増えており、日本近海についての情報も大きく増補、改訂がなされていることから、この間に日本近海海域の測量情報が大幅に拡充されつつあったことを物語っています。

 本書は上記の『チャイナ・パイロット』を全面的に刷新して、1873年に全4巻構成として刊行された『チャイナ・シー・ディレクトリー』とした、イギリス海軍水路部の公式水路誌の第2版にあたるもので1884年に刊行されています。1873年に全4巻構成と大幅に増補された日本を含む東アジア近海の水路誌は、それまでの『チャイナ・パイロット』第3版では第11章ならびに第13章から第16章において扱われていた、朝鮮半島沿岸部と日本近海部を独立した1巻(第4巻)として編んでおり、同海域の情報量が飛躍的に向上したことを示しています。

「明治初年までに調査された日本沿岸について、イギリス水路部刊行の1873年版(明治5)「支那海水路誌」(The China Sea Directory)によれば、従来の水路記事とは完全に改訂されたものになっていた。同誌4巻のうち、第4巻の編成は、「朝鮮東岸・韃靼・日本列島・韃靼海湾およびオホーツク」となっており、など随時刊の追補によって以下記述する英艦測量による成果また諸外国資料を加えるものとなってしだいに充実していった。
(前掲書、34ページより)

 本書は、この1873年版をさらに改訂して1884年に刊行された第2版で、『チャイナ・パイロット』の各章での記述をある程度踏襲しつつも、明治期に入って開始されたイギリス測量鑑による日本近海測量の成果がふんだんに盛り込まれており、その内容や構成が大幅に変更されています。この第2版は、当時はまだ黎明期にあった日本の水路誌作成に大きな影響を与えたことが知られており、水路局による最初の公式水路誌である「寰瀛水路誌」編纂に際して、大いに参照されたことが伝えられています。

「各国との図誌交換交換により、世界の水路事情を把握する必要に迫られた水路局は、明治13年3月世界各国の水路誌翻訳に着手し、それを計100巻に収録する規模の目録を作り、「寰瀛水路誌」と題した。
 その第1巻を2本、第2巻を朝鮮および沿海州、第3・4・5巻をシナ沿岸として順次外国に及ぼす計画であった。しかし第1巻は12か年測量計画実施以前の未測海域が多く資料も不十分であった。(中略)
 そこで初刊となったのは第3巻の「支那東岸」(14-10刊)で、広東から福州に至る区域を内容としたものであった。続いて同15年に4冊、16年に3冊、17年に2冊、18年に2冊と順次刊行して、北はカムチャッカから南はニュージーランドに及ぶ太平洋西部と東南アジア地域のものを編集したが、ほとんど英版水路誌の翻訳であった。
 明治18年6月、ようやく日本海域の原著となるべき第1巻が完成した。しかしその資料を豊富に盛り込んだため、上・下の2巻に分けることとし、しかも南東岸を扱った上巻だけの刊行であった。(中略)
 日本の北西岸および離島を扱った下巻は、同19年12月に刊行された。」
(前掲書、69,70ページより)

 上記において言及されている「英版水路誌」とは本書のことに他ならず、こうした事情に鑑みると、本書は当時の日本の水路情報の理解、発信において大きな影響力を与えたという点でも非常に重要な作品であると言えます。本書を詳に検討することによって「寰瀛水路誌」を刊行しつつあった当時の水路局(並びに明治政府)は、本書を通じて自国周辺海域に関する当時の世界における共通認識を獲得していったものと言え、本書と「寰瀛水路誌」を対照することで、各海域に対する当時の日本政府の認識をある程度把握することができるのではないかと思われます。この第2版はシルヴィア号やフライング号をはじめとしたイギリス艦やアメリカ、フランスによる測量調査結果が反映されている一方で、イギリスの測量調査に同行しながら自前の測量技術向上に努めていた日本の水路部による測量調査結果も反映されていて、「柳楢悦(Admiral Yanagi)指揮下の日本帝国水路部によって行われた最新の調査」が参照されたことが序文で明記されています。

 幕末から明治にかけて日本が体験した世界変動は、航海技術や蒸気船の登場といった技術上の劇的な発展だけでなく、海図や水路誌といった航海に不可欠なツールの発展によって初めて可能になったとも言えます。その意味では、実際に列強各国の船舶がどのような海事情報を収集、調査、共有して、その航路を選択し、日本を含む世界各地に進出していったのかを確認するために、当時の海事関連資料を調査することは極めて重要なテーマであると思われます。本書をはじめとして、当時の海図や水路誌といった海事関連資料は、当時の欧米諸国の様々なアクターが実際に航海を行う際に必要不可欠であった海事情報が、どのように形成されていったのかについて、重要な示唆を提供してくれる資料と言えましょう。

 海図や水路誌といった海事関連資料は、基本的に実用に供されたため汚損、破損することが多く、また最新性が常に求められるという資料の性格上、旧版は廃棄されてしまうことが一般的であったため、当時の発行部数の多さとは対照的に現存する数は極めて少なく、各版の記述や構成の変遷を辿ることは非常に難しくなってしまっています。その意味でも本書は貴重な1冊であると思われます。