本書は、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による日本遠征に関するあらゆる記録がまとめられ、アメリカ議会文書として全3巻で刊行された『日本遠征記録』(Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan,... 3 vols. Washington, 1856)の第2巻に収録されている海図14点を独立して製本して刊行したという大変珍しい作品です。
『日本遠征記』は、アメリカ議会文書として1856年の刊行年表記をもって(実際の刊行は巻ごとにずれがありました)刊行され、第1巻は最もよく知られている日本遠征の記録本体で、第2巻は台湾や琉球、小笠原諸島の調査報告や、動植物や魚類の観察記録、ペリーによる日本小論、遠征隊による水路誌などで構成されていて最も研究書としての側面が強い巻と言えます。第1巻に比べて知られることの少ない第2巻ですが、ペリーが企図した壮大な遠征計画の全体を知る上では、欠かせない貴重な資料が数多く収録されています。第3巻は艦隊が遠征中に観測した黄道光の研究となっています。『日本遠征記』が遠征の記録本体である第1巻だけでなく、研究書としての意味合いの強い第2巻、第3巻を合わせて刊行されたのは、ペリーによる日本遠征が日本を開国へと導いたという画期的な意味を世に広く伝えるだけでなく、この遠征によって成し遂げられた調査研究によって、それまでの西洋人によるあらゆる日本研究を凌駕、刷新するのだという強い企図が込められているからに他なりません。
本書は『日本遠征記』の第2巻末に通常は収録されている、遠征時の調査を踏まえて作成された海図14点を別巻として独立して刊行したものです。『日本遠征記』第2巻では、それまでほとんど未知となっていた日本沿岸各地の測量記録や公開に際しての注意点などをまとめた水路誌、気象観測などといった実用的な航海記録が多数収録されており、こうした記事と関連する重要な資料として、遠征時の測量成果をもとに新たに制作された海図14点が収録されています。
水路誌の主な執筆者となっているのはモーリー(William L. Maury, 1813 - 1878)で海軍大尉としてペリー遠征隊の航海に際して中心的な役割を果たしたことで知られています。モーリーは航海中に自身の日記も残しており、これは他の書簡類や肖像画とともに現在、横浜開港資料館に保管されています。横浜開港資料館編『ペリーと横浜来航』(横浜開港資料館、2004年)には、モーリーと彼の水路誌について次のように紹介されています。
「モーリーは最初、輸送船カプリス号(傭船)に乗務し、のちミシシッピ号に転属しました。日本ではプレブルやベントらと毎日のようにボートで測量に出て、海図を作成しました。また彼が作成した江戸、下田港、函館港の水路誌 Sailing Directions は、航海中に艦隊の印刷物『ジャパン・エクスペディション・プレス』に刷られて配布され、のちに『日本遠征記』第2巻に収録されています。その部分だけ独立して出版もされました。海図も水路誌も日本への航海には欠かせない情報です。『日本遠征記』第1巻の前書きの注記には「水路学の部門においては、提督はとくに海軍大尉W・L・モーリー氏およびS・ベント氏の、正確で精力的な業績を認めている」と特記されています。」
(同書82ページコラム、伊藤久子「モーリー大尉の日記と水路誌」より)
本書に収録された14点の海図はいずれも、それまで西洋諸国の間でほとんど知られていなかった海域の海図ばかりで、以後の琉球や日本への航海に際して欠かすことのできない画期的な海図として高く評価され、そこで採用された地名表記など長きにわたって大きな影響力を持ったことが知られています。これらの海図の特徴と意義については、中嶋逞「『Perry提督日本遠征記』について」(海上保安庁海洋情報部『水路部技報』第8号、1989年所収)において詳しくまとめられており、同論文に基づいて本書収録海図を整理しますと、下記の通りとなります。
1. 「中国の日本諸島沿岸図;マリアナとフィリピンの一部を含む;最新の諸権威に基づきつつ、アメリカの日本遠征におけるモーリーとベントによって訂正」(1855年)
CHART OF THE COAST OF CHINA AND OF THE JAPANESE ISLANDS including the MARIANES and a part of the PHILIPPINES Compiled by order of COMMODORE M.C. PERRY, U.S.N. from the latest authorities, with additions and corrections by the U.S. JAPAN EXPEDITION by Liuts. W.L. Maury and S. Bent. U.S.N. 1855.
105.0 cm x 107.0 cm.
「山地がケバで示され、日本周辺の島々も個々に記され、例えば東京湾に水深が11個も記入されている。相当に精細な図で、地磁気偏角、朔望の平均高潮間隔、海流矢符が、スポットで入れられている。特に中国沿岸は水深も密に入っている。これに対し、朝鮮東岸や日本周辺は海岸線も未測の部分が多く、当時如何に遅くまで日本周辺のみが世界に秘されていたかが分かる。本図に記載の地名は開国以後まで、内外で使われる地名なので一覧図として有用である。日本海は Japan Sea と書かれている。メルカトル図法で作成されていると思われ、赤道での縮尺は図上の経線間隔の読み取りで 1 inch 60 mile (≒437万分の1)で、内法104.4 x 100.8 cm の上下2枚貼り合わせの縦長の図」
(中嶋逞「『Perry提督日本遠征記』について」海上保安庁海洋情報部『水路部技報』第8号、1989年所収、139ページ)
2. 「琉球島の塩屋湾:ポープ艦長率いるバンデーリア号のバーボットとホワイティングによって作成」(1853年)
SHAH BAY LEW CHEW I. Surveyed by order of COMMODOORE M.C. PERRY U.S.N. by Lieuts. W.B.Whiting and Alph. Barbot of the U.S.SHIP VANDALIA J. POPE. COMMR. 1853
34.5 cm x 44.5 cm.
「塩屋湾奥部の大尺図で、基準点の経緯度値を与えてある。週に経緯度目盛りの付されていない平面図、縮尺はバースケールの図上読み取りで、8 inch 1 mile (≒9, 110分の1)、内法 28.6 x 40.6 c の横長図。」(同140ページ)
3. 「(琉球)渡久地、瀬底港:ポープ艦長率いるバンダーリア号のホワイティングとバーボットによって1854年1月に測量」
(LEW CHEW) TUBOOTCH & SUCO HARBORS Surveyd Jan’y 1854 by Liuts. William B. Whiting and Alphonse Barbot U.S.N. belonging to U.S. Ship Vandalia JOHN POPE COMMANDER by order of Commodore Matthew C.Perry Commanding U.S. Naval Force in East Indies, China and Japan Seas. Scale 1/20,000.
「渡久地・瀬底の図で、ケバで地貌を精細に表現。対景図なし。四囲に経緯度目盛りを付した平面図で、縮尺は20,000 分の1と記載されている。内法は 47.0 x 61.8 cm の縦長図」(同140ページ)
51.5 cm x 68.5 cm
4. 「ペリー提督の指揮下で1853年から54年にかけてなされた日本遠征の旗艦であるミシシッピ号、サスケハナ号、ポーハタン号の航路を示した世界図」
CHART OF THE WORLD Shwing the TRACK of the U.S. Steam Frigates MISSISSIPPI, SUSQUEHANNA AND POWHATAN. As FLAGSHIPS OF THE JAPAN SQUADORON. Under command of COMMODORE M.C.PERRY. U.S.N. 1853-54.
60.3 cm x 94.4 cm
「3船の航跡を世界図に示したもので、毎日の正午の位置が○印で示され、線で結ばれて航跡図となっている。これらに1日の海流の流程量を示す Mile 数を、方向を示す矢印に付して表示している。これはインド洋北半、南支那海、日本近海について図示されている。メルカトル図法により作成されていると思われ、赤道での縮尺は図上の経線間隔の読み取りで 1 inch 600 mile(≒4,370万分の1) で、内法 53.8 x 90.6 cm の横長の図である。」(同139ページ)
5. 「日本の蝦夷島の函館湾」モーリ、プレブル、ニコルソン、バーボットによって1854年に測量」
THE HARBOR of HAKODADI YESSO ID. JAPAN. Surveyd by order of COMMODORE M.C. PERRY. U.S.N. by Lieuts. W.L. Maury, G.H. Preble, S. Nicholson & A Barbot. In 1854.
48.0 cm x 65.4 cm
「函館港の大縮尺図で、湾内はほぼ水深で埋められている。水路記事と対景図が2図入っている。亀田川河口の経緯度値、地磁気偏角値、朔望平均高潮間隔値、潮汐の極値が記してある。四囲に小割のない平面図で、縮尺は 2 inch 1 mile (≒36,500分の1)と記載されている。内法 59.4 x 44.0 cm の縦長図。」(同145ページ)
6. 「江戸湾西岸:モーリーその他士官らによって1854年に測量」
WESTERN SHORE of the BAY OF YEDO surveyed by order of COMMODORE M.C. PERRY U.S.N. by Lieut. Wm. L. Maury and other officers of the JAPAN EXPEDITION 1854.
68.0 cm x 98.0 cm
「久里浜沖から川崎に至る東京湾の西岸の図で、現在の第二海堡は、まだ浅瀬と表されて存在しない。湾奥部や東岸は未測である。湾内についての水路記事と対景図3図が入っている。(中略)丘陵のケバの表現、海岸線付近の地類区分の表現、砲台?の表現、地名の表記、図郭の小割など注目に値する。灯明崎付近の記念物とされるものは、当時破損していたとされる灯明台に当たるのか、その他の石碑群に当たるのか不明である。
剱崎、夏島、横浜開港資料館の経緯度値と、横浜開港資料館のみの地磁気偏角値、朔望平均高潮間隔値、潮高差値が記されている。図上の経緯間隔の読み取り尺度では 1 inch 1 mile(≒ 72,800分の1)の平面図で、図の四囲には経緯度の小割が入っている。」(同142ページ)
7. 「台湾島の基隆湾:アボット艦長率いるマセドニアン号のプレブルとジョーンズによって測量」(1854年)
KEELUNG HARBOR FORMOSA ISLAND Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Lieut. G.H. Preble & Pd. Md. Walter F. Jones in the U.S.SHIP MACEDONIAN CAPT.J.ABBOT 1854.
65.5 cm x 89.0 cm
「台湾の基隆の大尺図で、小さな対景図が8図も含まれ、水路記事も含まれている。四囲に経緯度小割りの無い平面図で、縮尺はバースケールの読み取りで 1 inch 1/8 mile(≒9,100分の1)であり、内法 59.2 x 86.2 cm の横長図。」(同141ページ)
8. 「琉球島:ホワイティング、ベントらによって1853年から54年にかけて測量」
ISLAND of LEW CHEW Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by W.B.Whiting, Silas Bent, G.B.Balch, I.Mathews & A.Barbot, Lieutenants U.S.N. in 1853-54.
60.7 cm x 68.5 cm
「沖縄本島の全図で+符と点線で磯の外縁を示している。地貌はケバで示されており、恐らくこんもりした植生を示すものであろう、複雑な雲形の模様が、地貌を示すケバに重ねられている所がある。那覇周辺、元部半島周辺、塩屋湾周辺のみに水深が入っている。四囲に経緯度目盛りを付した平面図で、縮尺は 1 inch 2 mile(≒14万5,800分の1)と記載されており、内法 60.4 x 56.0 cm の縦長の図。対景図は入っていない。」(同139ページ)
9. 「湾内の偵察(図)、ならびに江戸湾西岸測調査図:モーリーその他士官らによって1853年から54年にかけて測量」
Reconnoissance of the GULF And survey of the Western Shore of the BAY OF YEDO by order COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Lieut. W.L.Maury and other officers of the U.S.JAPAN EXPEDITION in 1853-54.
68.3 cm x 75.3 cm
「伊豆半島沖から東京湾奥部までを含む図で、(中略)江戸湾西岸と(中略)下田港を縮図したもので、他の資料は加えられていない。やはり江戸湾下田港へのアプローチのための水路記事があり、対景図が4図入っている。
江戸湾については江戸湾西岸図と全く同じ基準点の経緯度値、地磁気偏角値、朔望の平均高潮間隔値、平均潮高値が記されているほか、図郭外の銭州を構成する二岩の経緯度値が記されている。江戸湾ないの未測海岸線が記入されている位置は、江戸湾西岸図とはやや異なる。四囲に小割のある平面図で、緯線感覚の図上読み取りによれば、縮尺は 3 inch 10 mile(≒242,000分の1)で、内法 60.8 x 70.8 cm の横長図。」(同144ページ)
10. 「琉球島の名護湾:ポープ艦長率いるバンデーリア号のホワイティングとバーボットによって1853年から54年にかけて測量」
LEW CHEW ID. DEEP BAY Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Lts.W.B.Whiting and A. Barbot U.S.SHIP VANDALIA J.POPE COMMANDER 1853-54.
52.7 cm x 54.0 cm
「基準点の経緯度値を与えた、名護湾の図。琉球島図と同じように、こんもりとした植生を示すためか、複雑な雲型の模様が、地貌のケバと重ねられている。対景図はない。四囲に経緯度目盛りが入っていない平面図で、縮尺はバースケールの図上読み取りで 1.8 inch 1 mile(≒40,520分の1)であり、44.8 x 49.0 cm の横長図である。」(同140ページ)
11. 「日本島(本州)の下田港:モーリーらによって1854年に測量」
SIMODA HARBOR I. OF NIPPON Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Lieut. W.L.Maury[,] Act. Lieut. A.Barbot[,] S. Bent[,] Leiut. Act.Mr.G.V.Dennison[,] Lieut. S.Nicholdon[,] Pd. Mdn.T.T.Houston in 1854.
51.5 cm x 81.2 cm
「下田港の大尺図で神子元島以北が含まれる。犬走島の経緯度値、地磁気偏角値、朔望の平均高潮間隔値、潮高の高極値と平均高値、さらに石廊崎と神子元島の経緯度値が与えられており、さらに図郭外の銭州を構成する二岩の経緯度が記されている。図の四囲に小割のない平面図。バースケールの図上読み取りによる縮尺は 4 inch 1 mile(≒18,150分の1)。内法 73.4 x 46.6 cm の縦長図。」(同144ページ)
12. 「蝦夷島のエンルム(室蘭)港:ボイル艦長率いるサウサンプトン号のスティーブンスとメイによって1854年に測量」
ENDERMO HARBOR ISLAND OF JESSO Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Actg. Master C.A.Stevens and Midn.R.L.May of the U.S.S.SOUTHAMPTON J.J.BOYLE LIEUT.COMG. 1854.
41.2 cm x 56.7 cm
「室蘭港の大尺図。ニマ岬の経緯度値と朔望の平均高潮間隔値、潮高値が記されている。対景図はない。四囲に小割のない平面図で、バースケールの図上読み取りでは、4 inch 3/4 mile(=13,700分の1)で、内法 35.4 x 52.6 cm の横長図。」(同145ページ)
13. 「コフィン諸島(小笠原母島諸島):ケリー艦長率いるプリマス号のバーチ、クーパー、ベアーズリーによって1854年に測量」
THE COFFIN ISLANDS Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Lieuts. G.B.Balch, G.H.Cooper & L.A.Beardslee Mid. Of the U.S.Ship Plymouth COMMANDER JOHN KELLY U.S.N. 1854.
44.3 cm x 51.2 cm
「小笠原母島諸島の図で、ラウンドナンバーの経緯度線が一本ずつ入っている以外は経緯度は表示されていない。朔望の平均高潮間隔値と大潮升値が記載されている。平面図で、縮尺は図中のバースケールの読み取りで 3 inch 2 mile(≠48,600分の1)であり、44.6 x 40.2 cmの縦長図。対景図は入っていない。」(同142ページ)
14. 「琉球島の那覇港:ベントによってコノバーらの助力を得て1853年に測量」
THE HARBOR of NAPHA LEW CHEW ID. Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N. by Lieut. S.Bent assisted by F.S.Conver, J.W.Bennet, and D.Ochiltree, Actg. Masters; J.H.March, E.H.Grey, Pd. Midshipmen: O.F.Stanton, W.F.Boardman, Midshipmen 1853.
52.3 cm x 63.9 cm
「那覇港の図で、基準点の経緯度値と地磁気偏角値、朔望の平均高潮間隔値、最高潮値が記されている。さらに対景図が3図と水路記事 (sailing direction) が記されている。四囲に経緯度目盛りのない平面図で、バースケールの図上読み取りでは、縮尺は 3 inch 約 7/8 mile(=21,300分の1)で、内法 46.8 x 60.0 cm の横長図」(同140ページ)
ところで『日本遠征記』は、先に触れたようにアメリカの議会文書として刊行されているため、上院(Senate)版と下院(House of Representative)版の二種類が存在しており、両者の内容は同一ですが、それぞれの出版社や発行部数は異なっていることがよく知られています。
「(前略)元老院 Senate 版と衆議院版 House of Representative 版との2種があり、前者にはさらに水路図を別冊とする4冊本と、これを別冊とせず、第2巻に合綴した3冊本との2種あり、後者はほとんど3冊本であるという結論に達した。而して最も完全なペルリ遠征記は、元老院版の4冊本であるということになった。」
(土屋喬雄 / 玉城肇(訳)『ペルリ提督日本遠征記』第1巻、岩波書店「解説」より)
本書は上記で言及されている「水路図を別冊とする4冊本」のうちの水路図巻と思われるもので、現存するものが非常に少ない大変貴重な1冊です。『日本遠征記』は、非常にボリュームのある書物であったことも災いしてか、製本が破損してしまうことが非常に多く、現存するものの多くが改装が施されたものとなっています。特に海図を14点も巻末に収録している第2巻は製本が破損してしまうことが多く、改装される際に海図だけを別綴じとして、もともと全3巻であったものを全4巻構成に変えてしまうという事例もよく見られます。したがって、原装丁でない改装本については、たとえ海図が独立巻としてあっても、それが当初からのものなのか、後年になって綴じ直されたものであったのかを特定することは非常に困難です。その意味では、本書は『日本遠征記』刊行当時の出版社による現装丁が保たれていることから、間違いなく刊行当時から海図のみを別巻として刊行した希少本であることを確認することができます。
いずれにしましても、ペリーの日本遠征時の測量調査に基づいて、それまで西洋諸国の間で未知の海域となっていた日本近海の海図や水路情報を世界に向けて初めて公開し、日本の「開国」をより一層進める原動力になったという点において、本書は日本近代史において画期的な意義を有する重要な海図集と言えるでしょう。