書籍目録

「日本近海図: 瀬戸内あるいは内海図:第二図、東部」

米国水路部

「日本近海図: 瀬戸内あるいは内海図:第二図、東部」

改訂版  1884年 ワシントン刊

U.S. NAVY. HYDROGRAPHIC OFFICE.

JAPAN. SETO UCHI OR INLAND SEA. SHEET II. EASTERN PART. FROM THE MOST RECENT SURVEY.

Washington D.C, (Published September 1874 at the Hydrographic Office, Washington D.C.) R.H. Wyman, Commo. U.S.N. Hydrographer to the Bureau of Navigation, 1884. <AB2023021>

Sold

1 rolling chart, 70.7 cm x 90.5 cm,
地図下部左端に「改訂(Cor.)」との表記が印刷されており、「1886. 31, 1887.49」と手書きで記されている。地図中に複数の書き込みあり。スポット上の滲みが散見されるが、比較的良好な状態。

Information

神戸、大阪という二大居留地への安全な航海のために不可欠とされた米国製海図

 この海図は、神戸、大阪両港が開港して比較的間もない1874年に初版が作成された海図を改訂して1884年に出版されたものです。明治初期の日本近海の海図作成の中心的な役割を果たしていた英国水路部のものではなく、同部作成海図や日本自身による海図等を参照しつつ、米国水路部が独自に出版していた海図です。

 幕末期から明治初期にかけて日本に来航した諸外国にとって、日本沿海の水路情報を正確に把握することは、極めて喫緊の課題でした。ペリー来航以前の19世紀はじめから既に複数の外国船が日本近海を航海し部分的な測量を始めていましたが、1858(安政5)年の条約締結以後は、開港の決まった長崎と横浜への安全な航路を把握するために、イギリスを中心とした列強諸国が本格的な日本沿海の測量の必要性を幕府に求めていきます。

 英国水路部が作成した海図は、こうした要請に基づいて作成、改訂されていった海図の中で最も中心的な役割を果たしたことが知られており、英国の海図、並びに測量技術の大きな影響、協力なくして日本の海図作成の歴史は語ることができません。水路部作成の海図には、その対象地域ごとに番号が振られており、当時の日本の主要領土であった本州(当時外国ではNiponと呼ばれていました)、九州、四国を中心に、朝鮮半島沿岸を含めた広域全体を示した2347号と呼ばれる海図は、幕末から明治初期にかけて作成された海図の中でも最も有名な海図の一つです。

 瀬戸内海はいうまでも海上交通の要衝として早くから海図の整備の必要性が認識されており、英国水路部は伊能図を元にして、幕末の1862年に「瀬戸内海図」を2875号海図として完成させています。この2875号海図は、その後も神戸、大阪の開港という重要な背景があったことから、幕末、明治初頭にかけて新たな測量による改訂版が出され続けたようです。

 本図は、この英国水路部による瀬戸内海図(2875海図)を、米国水路部が1874年に刊行した海図を1884年に改訂したものです。当時から海図は公共情報として各国間で広く共有されることになっていましたので、英国水路部がリードして作成した日本近海図は他国にも共有され、それぞれの国が自身の水路部で海図を再版していました。ただし、この米国水路部による瀬戸内海図は、よく知られる1862年の英国水路部作成の瀬戸内海図と異なり、神戸、大阪を中心とした瀬戸内海でも東部(EASTERN PART)だけを重視した海図となっています。第二図(SEET II.)とあることから、これに対応する第一図が存在していたものと思われ(店主未確認)、おそらくこれは下関近郊までを含む西部を描いたものだったのではないかと推定されます。本図に描かれている神戸、大阪は、当時の欧米諸国による貿易にとって西日本最重要の地域の一つである開港場ですので、米国水路部がこの地域の海図を発行し、自国民に周知することは極めて重要な任務の一つであったと考えられます。

 幕末から明治初期に作成された日本近海の海図は、歴史上極めて重要な役割を果たしているにも関わらず、常に最新情報に改訂されていくという性質上、国内外の研究機関でも所蔵数が乏しいため、研究が比較的進んでいない分野とされています。本図と幕末1862年に作成された瀬戸内図とを比較してみることは、幕末から明治初期にかけての測量情報の変遷や、重視する地域の変化を知る上で、大変興味深い示唆を与えてくれるものと思われます。