書籍目録

『マレーの日本旅行者ハンドブック』

チェンバレン / メイソン 

『マレーの日本旅行者ハンドブック』

第4版 1894年 ロンドン / 東京刊

Chamberlain, Basil Hall / Mason, W(illiam). B(enjamin).

A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN.

London / 東京府, John Murray / 増島六一郎(版権所有者) / 小川一眞(発行者) 秀英舎(印刷所), 1891年 / 明治二十七年五月十日印刷 十四日発行. <AB2022267>

Sold

Fourth edition.

11.5 cm x 17.4 cm, pp. [i(Half Title), ii(Advertisements)], Folded map, [iii(Title)-vii], viii-ix, [x], pp. [1], 2-528, pp.[I], II-VIII, 1 leaf (Errata and Addenda), 1 leaf(Colophon), pp.[1], 2-39, Folded maps, plates: [19], maps: [2], with 2 folding maps in slip case pasted on back endpaper, Original red cloth.
旧蔵者による書き込みが見られるが、概ね良好な状態。

Information

チェンバレン自身による初の改訂版となったマレーの日本ガイドブック第4版

「ロンドンのマレー社の旅行ハンドブックは1836年から1913年まで70年以上続いた赤い表紙のシリーズで、世界各地の旅行ガイドブックとして英語圏を席巻し、マレーといえばベデカーとともに広く旅行案内書を意味した。日本旅行ハンドブックもこのシリーズの一部であった。トマス・クックが団体旅行を組織しはじめるのが1840年代であったが、多くの旅行者は自分で汽車や汽船やホテルを手配する必要があり、ガイドブックを必要としていたのである。」
(横浜開港資料館編『世界漫遊家たちのニッポン』横浜開港資料館、1996年より)

 本書は、マレーの旅行ハンドブックの日本編の第4版として出版されたものです。初版は、サトウ(Ernest Mason Satow, 1843 - 1929)とホーズ(Albert Hawes)によって、マレーのハンドブックを範にとって『中央・北日本旅行ハンドブック(A Handbook for Traveller's in Central and Northern Japan) 』と題し、1875年にKelly and Walshから出版され、増補改訂版となる第2版が1881年にマレー社から出版されました。サトウの離日に伴って、第3版の編者はチェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850 - 1935)とメイソン(Willam Benjamin Mason, 1854 - 1923)に変更され、タイトルも改められるとともに、内容も大幅に刷新されました。

 本書は、第3版の好調な売れ行きを受けて刊行された第4版で、第3版と比べて大幅に増補改訂がなされています。序文の内容は、特に言語(語彙)に関する部分が実用的なものに改められ、例文が数多く収録されるようになり、日本の諸宗教を解説する項目では文中の挿絵を多数掲載しており、学術的な要素も色濃くなっているように見られます。収録地図の多くも改訂され、多色刷となっている他、その枚数自体も増加しています。

 こうした本文の改訂に加えて注目すべきは、巻末にある日本語奥付の記載事項で、それによりますと本書の版権所有者は、中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人である増島六一郎で、発行者は明治期の写真技師、印刷人の第一人者である小川一眞とあります。また、印刷所は、現在も使われる明朝書体である秀英体を生み出した秀英舎が担っており、本書の刊行に日本側からも錚々たる人物が参加していたことが伺えます。

 また、奥付けの後には来日旅行者に関連するサービスや産物を提供する商店、金融機関の広告が掲載されていますが、主要な外国人向けホテルのほか、1893年に設立されたばかりの喜賓会の広告も見ることができます。

「1890年9月、サトウはジョン・マレーに書簡を送り、日本研究の第一人者であるチェンバレンがメイソンと共同でガイドブックを出版しようとしているので、それをマレーのシリーズに入れてもらいたいこと、またチェンバレンが昔のハンドブックの内容を使用することを全面的に許可することを告げている。マレーの側では、それより1ヶ月前にチェンベレンに出版の条件を示し、印刷は日本で行い、コミッション・ベースで販売するなら、マレーのシリーズに入れても良いと提案している。
 こうして第3版は最初の二人の著者の手を離れ、チェンバレンとメイソンが引き継ぐことになった。第2版から7年を経た1891年、大幅に改訂された第3版がようやく出版されることになったのである。印刷は横浜で行なわれ、イギリス用は印刷シートのままロンドンに送られて製本され、横浜のケリー&ウォルシュ社の出版分は横浜で製本された。
 チェンバレンとメイソンのハンドブックは、サトウのものほど学術的ではなかったが、より実用的で、好調な売れ行きを示した。チェンバレンの手紙によると、第3版は2,750部印刷されたが、1893年にすでに330部を残すのみとなり、第4版は5,000部印刷することを提案している。」
「まもなく出版された第4版では、初めて日本全国がカバーされた。その後日本ハンドブックは版を重ね、1913年の第9版が最終版となったが、その年はマレーのハンドブックのシリーズが終焉をむかえた年でもあった。同シリーズの大部分は、それ以前にすでに売却されてしまっていたのであった。
 チェンバレンはハンドブックを出していた時期にほぼ平行して『日本事物誌』を出版していた。これも第6版(1939年)まで続いた名著であったが、その初版(1890年)には”ガイドブック”の項目がある。そのなかでチェンバレンはマレーのハンドブックが断然すぐれていると評している。その翌年からチェンバレン自身がマレーを手掛けることになり、『日本事物誌』に記述した事項は、ガイドブックからは省くようになったのである。チェンバレンのハンドブックがより実用的なのは、ここにも一因がある。もうひとつ注目すべきは、チェンバレンのハンドブックがサトウと違って、横浜をルートの起点としていることである。外国人旅行者の多くが最初に日本の地を踏むのは横浜であり、チェンバレンのガイドブックの実用性はここにも見いだすことができる。」
(前掲書より)

表の見返し部分は初版の版元でも知られるKelly & Walsh社の広告。
横浜にやってきた当時の所有者によるものと思われる署名。
冒頭の折り込み日本地図は、本文中に収録される主要な地図の収録範囲を示している。
タイトルページ。
第4版への序文。「日本アルプス」の生みの親としても知られるウェストン(Walter Weston, 1861 - 1940)や、小泉八雲ことハーン(Lafcadio Hearn, 1850 - 1904)への謝辞が見える。
目次①
目次②
日本の諸宗教の解説部分では新たに多くの挿絵が採用されている。
言語紹介の部分では、実践的な例文集も収録している。
東京全図は一種の鳥瞰図に近い様式。1897年に刊行される「東京一目新図」を先取りするような様式の地図と言える。地図が多色刷となったのもの第4版の特徴。
大阪、神戸。地図の多くが改訂されている。
京都。
長崎。
日本語の奥付がついており、小川一眞はじめ興味深い人名や印刷会社が本書刊行に携わっていたことを知ることができる。
巻末の広告欄も第3版と比べて充実している。上掲は京都を代表する外国人向けホテルだった也阿弥ホテルの広告。
通訳サービスで有名な開誘社は、第3版に続いて広告を出しているが内容が変更されている。
富士屋ホテル。
明治初期の写真印刷で著名な小川一眞の広告。小川は本書の発行者でもある。
ちりめん本で著名な長谷川武次郎も広告を出している。
1892年に創設された喜賓会の広告。
裏の見返しは、サトウらによる第2版にあったようなスリップケースが設けられており、日本全図を収めている。これも第3版にはなかったもの。
日本全図。
装丁は第3版と同じように見えるが、使われている素材が変わっている他、テキストブロックの角を丸くしたり、ややサイズを小さくしたりと細かな相違点がある。