書籍目録

『日本と中国におけるイエズス会巡察師ヴァリニャーノによる1599年10月10日付、同会総長アクアヴィーヴァ宛書簡』『イエズス会士カルヴァリョによる同会総長アクアヴィーヴァ宛1600年日本年報補遺:同年10月から1601年2月までの間に日本教会で生じた出来事の記述』

ヴァリニャーノ / カルヴァリョ(関ヶ原の戦い)

『日本と中国におけるイエズス会巡察師ヴァリニャーノによる1599年10月10日付、同会総長アクアヴィーヴァ宛書簡』『イエズス会士カルヴァリョによる同会総長アクアヴィーヴァ宛1600年日本年報補遺:同年10月から1601年2月までの間に日本教会で生じた出来事の記述』

(2作品合冊)初版 1603年 ローマ(ザネッティ)刊

Valignano, Alessandro / Carvaglio, Valentino.

LETTERA DEL P. ALESSANDRO VALIGNANO. VISITATORE DELLA Compagnia di Giesù nel Giappone e nella Cina de'10. d’Ottobre del 1599… / SOPPLIMENTO DELL’ANNVA DEL MDC. NEL QVAL SI DA RAGVAGLIO di quel ch’è socceduto alla Christianità di Giappone, ...

Roma, Luigi Zannetti, 1603. <AB2022243>

Sold

First edition.

2 works bound in 1 vol. 8vo (10.4 cm x 15.3 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-40, 41(Title.of 2nd work), 42-102, Modern card boards.
比較的新しい厚紙装丁で状態は極めて良好、小口は三方とも朱染。[Laures: JL-1603-KB2b-257-155]

Information

関ヶ原の戦いに至る経緯とその後の経過をイエズス会士の視点から詳述した第一級の重要史料

 本書は、関ヶ原の戦いに至る経緯とその後の経過をイエズス会士の視点から詳述した第一級の重要史料としられる極めて貴重な作品で、1603年にローマで刊行されています。本書には2通の書簡が収録されており、1599年10月のヴァリニャーノによる書簡、ならびに1601年2月のカルヴァリョによる書簡が合冊されています。この2つの書簡は、関ヶ原の戦いの直前と直後の日本社会と日本のキリスト教界について非常に詳しく報告したもので、イエズス会士の視点から見た関ヶ原の戦いの背景と推移、多方面に及んだその甚大な影響が余すことなく語られています。

 最初に収録されているのはヴァリニャーノによる1599年10月付の書簡で、関ヶ原の戦いに至る直前の日本社会の状況、ならびに当時のイエズス会による日本社会の将来に対する見通しを知ることができる内容となっています。この書簡でまず、ヴァリニャーノは「太閤様(Taicosama)」(p.3)の逝去後に生じた日本の国政をめぐる混乱状況を詳細に記述しています。太閤様(秀吉)が生前に、「八カ国の国主たる家康(Giegiaso)」(p.4)を自身の息子の後見人として指名する一方で、権力の集中を避けるべく5人ずつ、計10人からなる有力者たちの合議による政体を組織していたことを記しています。しかし、ヴァリニャーノはこのように多数の有力者たちからなる合議制が不安定なものになることは必至であったとして、家康を厳しく批判する「治部少輔(じぶのしょう、石田三成のこと、Gibunoscio)」(p.6)と、それに反発する「浅野弾正(長政、Asonodangio)」(pp.6)の両名を筆頭とする権力争いがすぐに勃発したことを述べています。

 石田三成の側には、「アゴスティーノ摂津守殿」(小西行長のこと、Agostino Tzunocamidono)」(p.6)、「藤四郎殿(小早川秀包のこと、Toscirondono)」(p.7)、「寺沢殿(寺沢広高のこと、Tarazauandono)」(p.7)らが付き、一方の浅野弾正の側には「主計殿(かずえどの、加藤清正のこと、Canzuidono)」(p.7)、「甲斐守(黒田長政のこと、Cainocamo)」(p.7)、「肥前の王、鍋島(勝茂のこと、Nabescima, Signor di Figen)」(p.7)らが付き、「京の近くに築城されている伏見(Fuscimo, fortezza vicina à Meaco)」(p.9)と「大坂(Ozaca)」(p.9)とに分かれて双方が多数の軍勢を集結させたことが述べられてから、次第に石田の元を離れた軍勢の加勢により、家康が優位に立つようになり、ついに石田は「近江(Omi)」(p.10)へと追放されるに至ったことが記されています。そして、家康はこの騒動で、石田の側についた小西行長を厳しく処罰せず、むしろその忠義を褒め称えたことが述べられています。ヴァリニャーノ(とイエズス会を中心とする当時の日本のキリスト教界)は、キリシタンの最大の庇護者であった小西行長の処遇如何によって、宣教活動に重大な支障が生じることを強く懸念していたため、このような騒乱にもかかわらず「確固とした平和を享受」することができたことに安堵している様子が、本書簡からはうかがえます。

 こうした日本の政変についての非常に詳しい記述に続いて、本書簡では、日本各地における宣教状況が地域ごとに整理されて詳述されています。ここでは、日本語学習のための最適地として「天草(Amacusa)」(p.13)」が選ばれ、多くのイエズス会員と学生たちが同地に転居したことや、近隣の「志岐(Scio)」(p.14)の司祭館の再建のために、寺沢広高の度重なる妨害への対応に苦慮しながらも尽力したこと、秀吉とも懇意であったイエズス会士ロドリゲス(Giouan Rodorighez)が家康と協議した結果、秀吉によるキリシタン政策の変更は当面難しいことを伝えられたものの、それはつまり家康自身による新たな積極的迫害政策は行われないものとも解釈し得るという結論に日本のイエズス会が達したことなどが述べられています。また、これ以外にも平戸や有馬、薩摩など九州各地、また山口の状況なども個別に詳しく記されています。

 日本のキリスト教界をめぐる現状と将来の見通しについて、ヴァリニャーノは、彼らしく慎重さと配慮が常に求められることを強調しつつも、迫害下にもかかわらず信徒数は日毎に増大しており、かつてないほどの盛況を呈していることから将来についても希望が持てるとしており、また当面は国政上の大きな変化は生じないであろうと予測(pp.35-36)しています。また、看過し得ぬ補足事項として、秀吉がその没後に自らを「新八幡(Scinfaciman)」という戦さの「神(Cami)」(p.36)として崇めるよう命じたことと、その愚かさについても報告されています。

 このように、1599年10月10日に認められたヴァリニャーノによる書簡では、翌年に勃発する関ヶ原の戦いへの至る大きな政治的な捻りが当時日本に滞在していた宣教師の視点から非常に詳しく論じられています。その一方で、これだけ詳しく当時の政治状況を把握しており、イエズス会においても極めて熟慮に長けた人物として知られるヴァリニャーノであってさえ、翌年に日本を二分する大事件となる関ヶ原の戦いという巨大な政変が生じることを予測することは難しかったという、当時の状況の把握と予測がいかに困難であったかという事情を垣間見させてくれるものでもあります。

 これに続いて(p.41-)収録されているのが、カルヴァリョによる『1600年日本年報補遺』です。この書簡は「1600年10月から1601年2月までの間に日本教会で生じた出来事の記述」という副題を持つもので、関ヶ原の戦いの勃発の経緯と推移、そしてその後の大混乱について、非常に詳細かつ生々しく伝えたものです。冒頭に置かれた読者への序文(p.42)では、日本のキリスト教界の最新状況を知ることを望む読者の希望に応える書簡としては、先のヴァリニャーノの1599年報に続く1600年報が本来望まれているにもかかわらず、(少なくとも本書刊行時点では)同年報が到着していないため、これに続くものとして「1600年報補遺」である本書簡をここに公刊する旨が記されています(この序文の記述を裏付けるように、イエズス会刊行書目録等を確認する限りでは「1600年の日本年報」は独立した著作としてその後も刊行されておらず、1600年と1601年の日本の状況を記したゲレイロの著作(1603年)の内容も、大半がこの「1600日本年報補遺」と同じ。)。とはいえ「1600年日本年報補遺」であるこの書簡は、関ヶ原の戦いの大きな余韻がまだまだ残る状況下において騒動の全体を振り返る形で記されているため、当時のイエズス会と日本社会の状況(イエズス会が把握し得た限りでの)を詳らかに伝える内容となっています。

 本書簡の冒頭(p.43)でカルヴァリョは、世上における政治情勢の目まぐるしい転変はどこにあっても見られることであるとはいえ、この間の日本に生じた転変は極めて激しいものであったことを強調しています。自分たちはこの間の日本において「ほとんどすべての事態の変革を経験した」とまで述べるカルヴァリョの筆致からは、イエズス会にとって関ヶ原の戦いがもたらした衝撃が計り知れないものであったことが感じられます。こうした冒頭の記述は、先のヴァリニャーノ書簡の末尾で述べられていた状況と将来の見通しと対比することで実に鮮やかなコントラストを成しており、ごく短期間の間に日本社会とイエズス会を取り巻く状況が激変したことが生々しく伝わってきます。

 カルヴァリョは、「内府様(Daifusama)」と呼ばれることを好んだ家康は、その敵対者によってほとんどすべての主要な政務から放逐され、騒動の当初において家康の敵対者たちはその勝利を得たものと信じ込んでいたことを最初に述べています。そして、この政変は、現在の日本におけるキリスト教界をかつてないほどの危機に陥れることになっていることを述べてから、関ヶ原の戦いの経緯とその結果についての詳述へと移っていきます。

 カルヴァリョは、この戦いは、日本全土を二つの軍勢に分けて行われたものであったとして、一方は9人の国主たちの指揮の下に多くの諸侯が集結したもので(西軍)、もう一方は内府様(家康)が率いる軍勢(東軍)であったと説明しています。家康は騒動当初、上杉「景勝(Cáguetaso)」(p.44)との戦闘を余儀なくされていたため、西軍は「京都(Meaco)」(p.45)に通じる街道封鎖を行うために、「伊勢(Isci)」と「美濃(Mino)」(p.45)に軍勢を集結させたと述べています。これに対して、東軍は二手に分かれて迅速に「尾張(Voari)」(p.45)へと軍勢を派遣したという政変当初の推移が詳しく伝えられています。その上でカルヴァリョは、東軍が一人の指揮官(家康)の統一した指揮系統のもとで迅速に判断、行動を起こしたのに対して、その反対に西軍は多数の指揮官の意見がまとまらず、判断と行動が遅れたせいで、勝機を悉く逃すことになったという総括的な自身の見解を示しています。

 その後の推移についても非常に詳細に記されており、美濃の岐阜城にあった「信長の孫である中納言(織田信秀のこと、Ciunangodono nepote di Nobunanga)」(p.45)が、敵軍の脅威をみくびり、岐阜城に接近した敵軍が自軍の全貌を見誤らせるために一部の兵だけを偵察部隊として派遣したことに気づかずに大敗し、本丸に逃げ込んだもののすぐさま降伏を余儀なくされ、尾張へと送還されたことが両者の軍勢の具体的な数とともに記されています。こうした状況に直面した西軍は、石田三成のもとに島津義弘(薩摩国主、Re di Sassuma)(p.47)と小西行長を中心に、全軍を一ヶ所に集結させて東軍を迎え撃つことを決議するものの、東軍は西軍の動向を素早く察知して無理な進撃をすぐには行わず一旦停止して応じたことが述べられています。膠着状態に陥った西軍は数に劣る東軍に対して約8万もの軍勢を集結させていながら、全軍の意思統一を図ることができず、約一月もの間を全く無為にすごし、その反対に家康は迅速かつ、的確に状況を判断して行動を起こし、5万の軍勢をその間に集結させることに成功したとカルヴァリョは述べ、軍勢の量的問題ではなく、西軍の指揮系統に致命的な欠陥があったことを批判的に記しています。

 こうして始まった戦闘は、開始直後に中納言(小早川秀秋)の軍勢が西軍から離反したことを筆頭に裏切り行為が続発し、西軍は陣列を大きく乱したことで短時間のうちに東軍が勝利を収めたことを述べています。カルヴァリョは、この戦さにおいて西軍が惨敗した結果として、石田三成と小西行長は捉えられ切腹を命じられることになったが、前者が臆病のためそれを拒んだのに対して、後者はキリシタンの教義に基づいて断固拒否したと述べ、後者の最期の姿勢を讃えています(p.50。なお、小西行長の最期については本書簡末尾(p.99-)において改めて詳細に報じられている)。

 また、大軍を有していた西軍の毛利殿(輝元のこと、Morindono)は、肝心の戦闘が始まっても何ら戦果を交えることなく合戦場から早々に離脱して大坂城へと引き込んでしまい、さらには家康が大坂に進軍するや否や、大坂城において十分な勢力と物資の備蓄があったにもかかわらず無条件降伏してしまったと極めて批判的にカルヴァリョは記しています(p.51)。

 カルヴァリョは九州各地でも勃発した戦乱のことについても詳細に記述しており、東軍の「甲斐守(黒田長政のこと、Cainocamo)」とその父「官兵衛殿(黒田官兵衛のこと、Quambioiendono)」の活躍で、「豊前(Bugen)」から攻め出てた軍勢が「豊後(Bungo)」を瞬く間に攻め落としたことが述べられています。肥後では、小西行長への憎悪に燃える加藤清正が軍勢を進めて全土を征服したことも記されており、関ヶ原の戦いをきっかけに九州各地でも戦火が生じて大きな混乱が生じたことが述べられています。また、この戦乱にあって、キリシタンがその後ろ盾としていた「有馬殿(晴信のこと、Arimadono)」と大村殿(喜前のこと、Omuradono)」(p.48)は、西軍の要請に背いて家康の側についたことを述べ、このことによって結果的に同地のキリシタンの家臣たちが壊滅的な被害を被ることを避けられたのは、神の摂理によるものであるというカルヴァリョの見解も示されています。

 このように本書簡は、カルヴァリョによって関ヶ原の戦いに至る直前の推移と戦闘の様子が、九種各地で生じた戦乱の推移とともに詳細に記されており、相次ぐ混乱の中にあったにもかかわらず、イエズス会がこの戦乱についての情報を的確に収集し得ていたことや、関ヶ原の戦いの西軍の敗因(東軍の勝因)がどこにあったと考えていたのかを知ることができる、非常に重要な内容となっています。
 
 こうした関ヶ原の戦いについての詳細な記述に続いて、この戦乱が日本のキリスト教会にもたらした大混乱についての記述が綴られており、ここでも各地の状況がさらに詳しく論じられていることから、当時の日本社会の状況を知るための興味深い記述を数多く読むことができます。ここでは戦乱後の政治状況の変化についても詳述されており、イエズス会としては小西行長という最大のキリシタン庇護者を喪失したことで大きな打撃を被った一方で、家康が従来の秀吉によるキリシタン弾圧政策を将来的に軟化させる可能性もあるという希望的な観測も示されています。この時点ではイエズス会は家康を秀吉と比べて好ましい統治者として見ていたようで、後年のイエズス会関係の出版物に見られるような家康に対する批判的な評価は本書簡中にはあまり見られず、イエズス会の家康観の変遷を知る上でも興味深い記述となっています。

 本書は、上述してきたように関ヶ原の戦いに至る直前の背景事情と、騒動の推移、戦乱がその後もたらした日本各地への甚大な影響が、イエズス会士の視点から極めて詳細に記された第一級の史料と見なすことができる作品です。本書には日本に当時滞在していたイエズス会士が収集し得ていた情報が如何なるものであったのかだけでなく、彼らが当時どのような見解と将来に対する見通しを有していたのかをも知ることができるという点で、日本側史料を補う非常に学術的価値の高いユニークな内容となっています。

 また、本書は1603年にローマにおいて公刊されていることから、日本で生じたこの大事件が非常に短期間のうちにヨーロッパの多くの読者に伝えられていたことを示すという点においても注目されるべき作品です。本書に収められた二通の書簡は、ミラノなどイタリアの他地域でも同年に刊行されており、のみならずドイツ語やフランス語にも翻訳されて刊行されるなど、ヨーロッパ各地で大きな反響を与えたことが知られています。これらはいずれも現在では入手が難しい作品となってしまっていますが、本書は類書中にあって、最初に刊行されたと思われるローマのザネッティ版(同社は当時イエズス会のローマにおける刊行物の大半を手掛けていた)であることから、その希少性と多数の類書の底本となった重要性に鑑みても、大変貴重な一冊であると言るでしょう。

比較的新しい厚紙装丁で状態は極めて良好、小口は三方とも朱染。
『日本と中国におけるイエズス会巡察師ヴァリニャーノによる1599年10月10日付、同会総長アクアヴィーヴァ宛書簡』
関ヶ原の戦いに至る直前の日本社会の状況、ならびに当時のイエズス会による日本社会の将来に対する見通しを知ることができる内容となっている。
この書簡でまず、ヴァリニャーノは「太閤様(Taicosama)」(p.3)の逝去後に生じた日本の国政をめぐる混乱状況を詳細に記述している。
ヴァリニャーノは太公様亡き後に形成された多数の有力者たちからなる合議制が不安定なものになることは必至であったとして、家康を厳しく批判する「治部少輔(じぶのしょう、石田三成のこと、Gibunoscio)」(p.6)と、それに反発する「浅野弾正(長政、Asonodangio)」(pp.6)の両名を筆頭とする権力争いがすぐに勃発したことを述べている。
石田三成と浅野弾正との対立の後、家康によって石田が近江に追放されたという経緯が具体的に多くの人名を挙げながら解説されている。
こうした日本の政変についての非常に詳しい記述に続いて、本書簡では日本各地における宣教状況が地域ごとに整理されて詳述されています。ここでは、日本語学習のための最適地として「天草(Amacusa)」(p.13)」が選ばれ、多くのイエズス会員と学生たちが同地に転居したことなどが述べられている。
秀吉とも懇意であったイエズス会士ロドリゲス(Giouan Rodorighez)が家康と協議した結果、秀吉によるキリシタン政策の変更は当面難しいことを伝えられたものの、それはつまり家康自身による新たな積極的迫害政策は行われないものとも解釈し得るという結論に日本のイエズス会が達したことなども述べられている。
京都(Meaco)や平戸(Firando)といった日本各地の状況が整理された上で報告されている。
上掲は、山口(Amaggucci)における「毛利殿(Morindono)」の動向を記した箇所。
この書簡を執筆した時点での日本のキリスト教界をめぐる現状と将来の見通しについて、ヴァリニャーノは、彼らしく慎重さと配慮が常に求められることを強調しつつも、迫害下にもかかわらず信徒数は日毎に増大しており、かつてないほどの盛況を呈していることから将来についても希望が持てるとしており、また当面は国政上の大きな変化は生じないであろうと予測している。
上掲書簡に続いて合冊されている『イエズス会士カルヴァリョによる同会総長アクアヴィーヴァ宛1600年日本年報補遺:同年10月から1601年2月までの間に日本教会で生じた出来事の記述』。独立したタイトルページを設けているが、ページ付は連続している。
冒頭に置かれた読者への序文(p.42)では、日本のキリスト教界の最新状況を知ることを望む読者の希望に応える書簡としては、先のヴァリニャーノの1599年報に続く1600年報が本来望まれているにもかかわらず、(少なくとも本書刊行時点では)同年報が到着していないため、これに続くものとして「1600年報補遺」である本書簡をここに公刊する旨が記されている。
本書簡の冒頭(p.43)でカルヴァリョは、世上における政治情勢の目まぐるしい転変はどこにあっても見られることであるとはいえ、この間の日本に生じた転変は極めて激しいものであったことを強調している。自分たちはこの間の日本において「ほとんどすべての事態の変革を経験した」とまで述べるカルヴァリョの筆致からは、イエズス会にとって関ヶ原の戦いがもたらした衝撃が計り知れないものであったことが生々しく感じられる。
家康は騒動当初、上杉「景勝(Cáguetaso)」(p.44)との戦闘を余儀なくされていたため、西軍は「京都(Meaco)」(p.45)に通じる街道封鎖を行うために、「伊勢(Isci)」と「美濃(Mino)」(p.45)に軍勢を集結させたとことが記され、これに対して、東軍は二手に分かれて迅速に「尾張(Voari)」(p.45)へと軍勢を派遣したという政変当初の推移が詳しく伝えられている。その上でカルヴァリョは、東軍が一人の指揮官(家康)の統一した指揮系統のもとで迅速に判断、行動を起こしたのに対して、その反対に西軍は多数の指揮官の意見がまとまらず、判断と行動が遅れたせいで、勝機を悉く逃すことになったという総括的な自身の見解を示している。
カルヴァリョは九州各地でも勃発した戦乱のことについても詳細に記述しており、東軍の「甲斐守(黒田長政のこと、Cainocamo)」とその父「官兵衛殿(黒田官兵衛のこと、Quambioiendono)」の活躍で、「豊前(Bugen)」から攻め出てた軍勢が「豊後(Bungo)」を瞬く間に攻め落としたことが述べられている。
「関ヶ原の戦い」についての詳細な記述に続いては、この戦乱が日本各地にもたらした様々な混乱がより詳しく論じられている。
イエズス会としては小西行長という最大のキリシタン庇護者を喪失したことで大きな打撃を被った一方で、家康が従来の秀吉によるキリシタン弾圧政策を将来的に軟化させる可能性もあるという希望的な観測も示されていて、この時点ではイエズス会は家康を秀吉と比べて好ましい統治者として見ていたようである。後年のイエズス会関係の出版物に見られるような家康に対する批判的な評価は本書簡中にはあまり見られず、イエズス会の家康観の変遷を知る上でも興味深い記述となっている。
内府様(Daifusama、家康)による戦後処理として、甲斐守(Cainocami、黒田長政)に筑前(Cicugen)が与えられ、多くのキリシタンが住む博多(Facata)の街では一層のキリスト教界の発展が望めるであろうことが述べられている。黒田の長政の家臣として明石掃部(Givannni Acascia)が多くのキリシタンと共に筑前に入ったことも述べられている。彼は戦闘の最中にキリシタンであるが故に自決を拒否し敵陣の真っ只中に飛び込んでいったところを黒田によって発見され、彼の姿勢に感銘を受けた黒田が家康に強く働きかけ助命されたというエピソードも記されている。
細川忠興や福島正則が戦後の統治を任されることになった豊後や広島でキリシタンに好意的な行動を多数行ったことが述べられている。特に黒田官兵衛によるキリシタンに対する好意的な態度が、戦後のイエズス会にとって大きな希望となっていたことがうかがえる。
本書巻の末尾には、イエズス会の最大の庇護舎であった小西行長の最期について詳細に記されていて、彼のキリシタンとしての高潔さが大いに讃えられている。
書簡末尾。