書籍目録

『銅版画を用いた人体解剖図詳解』

ワルエルダ / (杉田玄白ら『解体新書』)/ プランタン

『銅版画を用いた人体解剖図詳解』

ラテン語訳初版 1566年 アントワープ刊

Valverde de Amusco, Juan.

VIVAE IMAGINES PARTIVM CORPORIS HVMANI ÆREIS FORMIS EXPRESSÆ.

Antverpiæ(Antwerp), Officina Christophori Plantini, M. D. LXVI.(1566). <AB2022140>

Sold

First edition in Latin.

4to (20.8 cm x 28.6 cm), pp.[I(Title.), II], III-VI, pp.[1(Title.)-8), 9-153, 23 leaves, Later (18th?) parchment.

Information

『解体新書』の扉絵のモデルとなった解剖図譜

 本書は、『解体新書』の扉絵として採用された作品として知られることになった16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで広く読まれた解剖書です。原著イタリア語が好評を博したのちに、より多くの読者を獲得するためにラテン語訳版として刊行されたもので、刊行地をアントワープに、出版社を当時のヨーロッパで有数の名門出版社プランタン社に変えて1566年に刊行されています。このプランタン版は、ワルエルダ同書の各版の中でも最も完成度が高いとされており、しかもオランダと縁の深いアントワープで刊行されたことから、後年にオランダ東インド会社の手を経て日本にもたらされることになったという、非常に重要な版です。

 著者のワルエルダ(Juan Valverde de Amusco, 1525 - 1588)は、スペイン出身の医学者で、当時のヨーロッパにおける医学の名門パドヴァ大学に学び、ローマで医師としての名声を高めたことが知られています。彼はいくつかの医学書、解剖書の出版を手掛けましたが、直接本書につながる解剖書となったのは、1558年にローマで出版された『人体解剖書』(Anatomia del Corpo Humano. Roma: Antonio Salamanca / Antonio Lafrei. 1558)で、この作品は本書と同じく全42枚の銅版画を収録した解剖書として非常に好評を博すことになり、幾度も版を重ねることになりました。ただ、ワルエルダが採用したこれらの図版の多くは、ヨーロッパにおける近代解剖書の嚆矢となったヴェサリウス(Andreas Vesalius, 1514 - 1564)の名著『ファブリカ』Andreae Vesalii Bruxellensis, sholae medicorum Patavinae professoris, de Humani corporis fabrica Libri septem. Basel: Joannis Oporini, 1543)に収録されていた図版を転用したものだったため、ヴェサリウスからの抗議を受けることにもなりました。とはいえ、ヴェサリウスの『ファブリカ』の図版が木版であったのを、より精巧かつ多くの部数の印刷が可能な銅版へと変更し、またテキストもワルエルダが独自に訂正や加筆を行うなどしていたため、解剖書としての完成度は非常に高く、結果的に多くの読者を獲得することに成功しました。

 ワルエルダのこの解剖書は刊行後しばらくはローマやヴェネチアで版を重ねていきましたが、当時のヨーロッパ出版界屈指の出版社として台頭していたアントワープのプランタン社が同書に着目し、より多くの読者の獲得が見込めるラテン語版を手がけることになりました。プランタン社は同書の大きな特徴であった銅版画を全て自社で改めて製作し直し、より完成度を高めた版として「プランタン版」を完成させ、1566年に刊行しました。このプランタン版は、同書の影響力をより広範な地域に普及させることに大きく貢献し、プランタン版として幾度も版を重ねる成功を収めることになりました。

 このワルエルダの解剖書のプランタン版初版が刊行された当時、まだ「オランダ」という国はありませんでしたが、のちにスペインからのオランダ独立戦争が展開されることになり、アムステルダムを中心とした北方フランドル地域はオランダとして独立を果たすことになります。これを機にヨーロッパの出版の中心地もアントワープからアムステルダムへと徐々にシフトして行きますが、プランタン社はライデンにも社を構えるなど、この戦争を巧みに切り抜け、17世紀に入ってからも名門出版社としての地位をある程度継続させることができました。こうしたことを背景にして、もともと言語的のみならず、商業的にも関係の深かったアントワープの出版物は、17世紀に入ってからもオランダ語圏を中心に広く流布していたようです。オランダ東インド会社によってワルエルダの解剖書が日本へともたらされることになったのも、こうしたことが背景にあると考えられますが、それにしても16世紀半ばに刊行されていた解剖書が早くとも17世紀半ば以降、おそらくは18世紀に入ってからという、当時であっても同書が「古書」と目されるような時代になってから日本に入ってきたことはかなり不思議に思われます。

 蘭学の勃興を象徴する邦訳書として現在も広く知られている『解体新書』は、基本的にはドイツの外科医であったクルムスの解剖入門書を底本としていますが、それ以外にもいくつかの解剖書を並行して参照していることが明らかになっています。そして、特に『解体新書』の最も有名なページであると思われるタイトルページの底本とされたのが、このワルエルダの解剖書のプランタン版に他なりません。プランタン版のタイトルページの下部には同社のモットーであった「精励と不動」(Labore et Constantia)を象徴する「ゴールデン・コンパス」が大きく描かれていること大きな特徴で、『解体新書』のタイトルページも、この「ゴールデン・コンパス」を(その意味を理解していたかどうかはともかく)そのまま転用する形となっており、図らずもプランタン社の名声を約200年の時を隔てて遠く日本へと伝えることになりました。また、向かい合う2人の男女像はアダムとイブを描いたもので、アダムの手には禁断の果実である林檎が握られていることを見ることができます。この人物像は明らかにキリスト教に因むものですが、『解体新書』タイトルページに転用される際には、杉田玄白らも幕府の役人もそのことに気づことができなかったものと思われ、男性の隠部を葉で隠すポーズに変更しているにも関わらず、禁断の果実はそのまま描かれています。

 ワルエルダの解剖書のプランタン版は、本書であるラテン語版が版を重ねただけでなく、ラテン語初版刊行の2年後には早くもオランダ語訳版が刊行されています。日本にもたらされたワルエルダの解剖書のプランタン版が、ラテン語、オランダ語のいずれの版であったのかについては、『解体新書』が同書の内容を翻訳したわけではないため特定することが困難ですが、いずれであってもこのプランタン版であったことは間違いありません。なお、ワルエルダの解剖書は17世紀に入ってからも版を重ね、17世紀半ばにもプランタン版によく似た表紙のオランダ語版も刊行されていますが、プランタン社が手掛けたものではないため、上述の「ゴールデン・コンパス」が描かれていないことから、『解体新書』タイトルページの底本になったとは考えることができません。

 ワルエルダの解剖書のプランタン版は、同書の中でも特に高い評価を受けている完成度の高い版ですが、現在の古書市場ではラテン語版、オランダ語版のいずれであっても流通することが非常に少なく、また図版が切り取られてしまうことも多いため、完本を入手することが難しい作品となってしまっています。本書は一部の紙葉にシミが見られるものの、特徴的なタイトルページ含めすべての図版を完備しており、大変貴重な1冊であると言えるでしょう。


「当時評判の高かったヴェサリウスの解剖書の海賊版にあたり、初版(1566年)はネーデルランド最初期の銅版画挿絵本でもある。
 著者フアン・ワルエルダ Joannes Valverda は16世紀中頃から後半にかけて活躍したスペイン人解剖学者で、当時スペインで支配的だった古代医学者ガレノスの説を新興のヴェサリウス解剖学に本書を通じて塗り替えた功績が評価されている。
 1561-62年から挿絵制作は始まり、下絵、彫版をピーテル・ハイス Pieter Huys が担当した。ヒエロニムス・コックの工房「四方の風」でピーテル・ブリューゲル版画を手掛がけていた兄の Frans Huys も部分的に手助けしている。パリへの逃避期間中(1561ー63年)、プランタンはこうした版を家財道具とともに手放してしまったため、数年間出版を延期しなければならなかったが、アントワープに戻ると、彫版済みの3版を借財人からウィレム・シルヴィウス経由で12フローリンで買い戻すことができた。残りは1559年ワルエルダの同書ローマ・ヴェネツィア版を元にピーテル、フランス両者が挿絵を新たに彫り足した。最終的に同兄弟が3カットも彫り直し、全42カットを制作、銅版画の印刷まで2人で手がけている。初版だけで考えると600部刷られたという記録があることから、2人は扉絵を含めて25,800枚の銅版画を印刷した計算になる。(中略)
 タイトルページの下絵は、アントワープの油絵画家でルーベンスの絵の先生でもあったランベルト・ファン・ノールトが1566年に描いたものである。(中略)タイトルページに3つある紋章が、アントワープ市庁舎と深く関係しているのは興味深い。1561年から1565年にかけて建築されたルネサンス様式のこの建物は現在も市庁舎として利用されているが、正面中央にはブラバント公国、スペインフェリペ2世、アントワープ伯爵領(左から右へ)、それぞれの紋章が掲げられている。ほぼ同じ構成の紋章を本書タイトルページにみることができる。」

「(前略)蘭学とはオランダ語によって西洋の学術を研究しようとする学問で、江戸中期以降盛んになる。当時の日本はヨーロッパとの交流が極端に制限されていたが、西欧からの文化は長崎の出島を通じて流入し続けていた。とくにオランダやフランドル地方で印刷されたおびただしい数の地誌、博物誌、医学書はわが国を西欧的自然科学へ目を向けさせた。蘭書と呼ばれるオランダ語書籍にオフィシーナ・プランティニアーナ発行の刊本が数多く含まれていた。蘭書は正規の貿易品としてばかりでなく、各船員のプライベートな取引品(つまり密貿易品)としても持ち込まれ、船員たちは日本で現金化したり特産物などと交換していた。おそらくワルエルダ『銅版画を用いた人体解剖図詳解』も同様のルートを辿って日本に入ってきたのだろう。
 『解体新書』はクルムス著『ターヘルアナトミア』オランダ語版を杉田玄白、前野良沢らが和訳し出版したもので、本文の他に26ページ分の挿絵が同著から引用されたが、なぜか扉絵だけはワルエルダ『銅版画を用いた人体解剖図詳解』から採用されている。『ターヘルアナトミア』タイトルページは解剖の様子が露骨すぎたため敬遠されたのか、あるいはワルエルダ『銅版画を用いた人体解剖図詳解』のタイトルページが人体解剖所らしい印象を自然に持たれたのか、その辺りの事情を杉田や絵師である小田野直武は何も言及していない。」
(中西保仁「オフィシーナ・プランティニアーナと日本」印刷博物館『プランタン=モレトゥス博物館展 印刷革命がはじまった:グーテンベルクからプランタンへ』2005年所収、89、96、97ページより)