書籍目録

「日本の百科事典、ならびにそれに類する書物についての覚書」

フランス学士院 / レミュザ / (『和漢三才図会』)/ (『訓蒙図彙』)

「日本の百科事典、ならびにそれに類する書物についての覚書」

『フランス王立図書館その他の蔵書資料についての研究論集 第11巻』所収 (pp.97-310) 1827年 パリ刊

L’institut Royal de France / Abel-Rémusat, Jean-Pierre.

NOTICE SUR L’ENCYCLOPÉDIE JAPONOISE, ET SUR QUELQUES OUVRAGES DU MÊME GENRE.

Paris, Imprimerie Royale, 1827. <AB2022159>

Sold

[In] NOTICES ET EXTRAITS DES MANUSCRITS DE LA BIBLIOTHÉQUE DU ROI ET LA BIBLIOTHÉQUES; PUBLIÉS PAR L’INSTITUT ROYAL DE FRANCE;…TOME ONZIÈME.

4to (21.5 cm x 27.5 cm), Half Title., Title., 1 leaf, pp.[1], 2-128, 1 leaf(Plate), pp.129-140, 2 folded plates leaves, pp.141-152, 151-190(i.e.153-192), 193-333, 1 leaf(Title. for seconde partie), pp.[1], 2-395, 1 leaf(blank), Original publishers blue paper wrappers.
刊行当時の簡易紙装丁のままで、当該論文以外の箇所の大半は未開封の状態。[NDLID: 000003120840] [NCID: BA18306897]

Information

「絵入事典」を用いたユニークな日本語研究と最初期の仮名活字

 本書は、フランス・アジア協会(La Société Asiatique)の中心人物であった東洋学者レミュザ(Abel-Rémusat, 1788 - 1832)が1827年に発表した論文で、江戸時代の代表的な絵入り百科事典である『和漢三才図会』とそれに類する事典の紹介と解説を試みたものです。当時のヨーロッパにおける日本語研究を牽引していた碩学であるレミュザによる先駆的な日本語論と図入り百科事典に着目することで日本(とそのモデルとなっている中国)の世界観を紹介する大変独創的な研究論文です。

 レミュザは、19世紀前半のフランスを代表する東洋学者で、コレージュ・ド・フランスの初代中国語講座の初代教授に若干27歳で就任した人物で、フランス・アジア協会ではその創設から中心的な役割を果たしていました。レミュザは特に中国、日本研究に強い関心を示し、数多くの論文を早くから発表しており、これらをまとめて、1825年には『アジア論集』(Mélanges asiatiques, 2 vols., Paris, 1825-26)を刊行しています。また、イエズス会士ロドリゲス(Joam Rodriguez)が1620年にマカオで刊行した『日本小文典(Arte Breve da Lingoa Iapoa tirada da Arte Grande da mesma Lingoa…Macao, 1620)』を、1825年にランドレス(Ernest Clerc de Landresse, 1800 - 1862)がフランス語に翻訳して刊行(Élémens de la grammaire japonaise. Paris, 1825)するに際して大きな助力となったことでも知られており、中国学者として先駆的な研究を行いつつ、日本語研究の端緒を切り開いた碩学としても名を残しています。

 「(前略)フランスにおいては、18世紀後半からしだいに東洋研究が盛んになり、19世紀になると特に中国学の分野でアベル・レミュザやその弟子スタニスラス・ジュリアンなど優秀な中国学者が輩出した。このような東洋研究勃興の機運の中で、レミュザやクラプロートらを中心に文政6年(1823)、パリにアジア学会(Société Asiatique)が設立され、機関紙『アジア学会誌』(Journal Asiatique)が発刊された。これらの中国学者は、いろいろ日本の文献に触れる機会があり、中国語の素養を基に日本語の文献を判読することができたので、彼らの興味はしだいに日本語・日本研究へも向けられるようになった。こうしてアジア学会の重要な事業の一つとして日本語の解読の必要性がとりあげられ、そのための手がかりとなるべき文法書の翻訳が企画された。文政8年(1825)、ランドレスによってロドリゲスの『日本小文典』が『日本文典』の表題で編訳、刊行された。」(熊沢精次「16世紀から幕末開国期までの日本語研究と日本語教育」木村宗男編『講座日本語と日本語教育』第15巻、明治書院、1991年所収、22ページより)

 この論文では、こうしてようやく本格的な日本語研究が花開きつつあったフランスにおいて、その研究をより推進させる新たな知見を提供するためにレミュザが取り組んだ意欲的な作品です。そこで、レミュザがこの論文で着目したのが、当時の日本で数多く流通していた絵入百科事典です。こうした事典は「ことば絵事典」(石上阿希『江戸のことば絵事典:『訓蒙図彙』の世界』角川書店、2021年)と言われるように、子どもでも理解しやすいように豊富な絵や図を添えてあらゆる事象を網羅的に収録して解説したもので、江戸時代を通じて数多く流通していました。こうした事典の代表的なものとしては、中村惕斎による『訓蒙図彙』(寛文6年、1666年)や、これを踏まえて編纂された寺島良安の『和漢三才図会』が挙げられます。豊富な図版と共にわかりやすい解説記事を添えるこれらの絵入百科事典は、来日したオランダ商館関係者の目にも止まり、ケンペルが『日本誌』において『訓蒙図彙』をその図版の翻刻と共に紹介していることはよく知られています。こうした絵入百科事典がケンペルらに注目されたのは、単に日本語学習の役に立つというだけでなく、こうした事典の構成が、日本(とそのモデルとなっている中国)の世界観を表現したものであると考えられたからではないかと思われます。レミュザは中国語研究をすでに行なっていた経験から、日本のこうした絵入百科事典が中国の類書に大きな影響を受けて成立していることにすぐに気付いたようで、この論文の冒頭では、中国における類書と日本の『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』との関係、位置付けなどが解説されています。

 レミュザはケンペルが『訓蒙図彙』を読み込んで研究していたことを紹介しつつ、同書の図版を翻刻してその構成を読者に簡単に解説しています。その上で、本書の主題となる『和漢三才図会』について、元々が中国の百科事典である『三才図会』が手本となっていることを紹介し、その構成や出版事項についての解説を加えた上で、『和漢三才図会』の解説を始めています。『和漢三才図会』は、その項目を「天」「地」「人」の3部に分けて収録していますが、このことを「天 thian, 地 ti、人 jin, [ciel, terre, homme]」と漢字を記してその意味を読者に紹介しています。また、同書の構成の本格的な紹介に入る前に、それまでのヨーロッパ人による日本語研究の歴史についても簡単に触れており、先に触れたケンペルや、ツンベルク(ツュンベリーとも、Carl Peter Thunberg, 1743 - 1828)による日本語研究、古くはドミニコ会士コリャード(Diego de Collado,? - 1641)が編纂した『羅西日辞書』(DICTIONARIVM SIVE THESAVRI LIGVÆ IAPONICÆ COMPENDIVM...1632)や、1595年に天草のコレジオで刊行されたいわゆる「天草本」「キリシタン版」と呼ばれる書物の一つである『ラテン語・ポルトガル語・日本語対訳辞典(羅葡和辞典)』のことを紹介しています。さらに日本語のいろは文字について「ひらがな(firo-kanna)」「かたかな(kata-kana)」に分けて解説し、その元となった漢字を添えた折り込みの一覧図まで付しています。この折り込み図は、先に見たロドリゲス『日本小文典』のラングレスによる仏訳版にも収録されている折り込み図と同じものと思われ、レミュザが本論文を執筆するに際して、それまでの自身と近しい関係者による日本語研究の成果を存分に盛り込んでいることがわかります。

 こうした非常に充実した解説記事に続いて本論文の中心をなしているのが、『和漢三才図会』の収録項目を紹介する記事です。『和漢三才図会』は先に見たように「天」「地」「人」の3部にわたって、全105巻からなる膨大な分量の絵入り百科事典ですが、ここではなんと全105巻に収録されている項目を巻ごとに分けた上で全て紹介されています。もちろん原著の解説記事本文は含まれていませんが、『和漢三才図会』がそもそもどのような書物であるのか、その構成や収録内容といった概観をヨーロッパの読者に始めて紹介したという意味で、この紹介記事は非常に画期的な内容であると言えるでしょう。しかも、レミュザは各項目を単にフランス語に翻訳するだけではなく、可能な箇所では日本語の原語(カタカナ)でも表記することに努めており、日本語学習の手引きとしても使えるようになっていることは驚くべきことです。

 また、ここに掲載されている「カタカナ」は活字によって印刷されているように見受けられることから、ヨーロッパにおける日本語の活字印刷としても最初期の事例に数えられるのではないかと思われます。ヨーロッパにおけるカタカナの活字印刷は、プフィッツマイヤー(August Pfizmaier, 1808 - 1887)が1847年にウィーンで刊行した『浮世形六枚屏風』(Sechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Welt.)で採用した画期的な連綿体活字や、ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812 - 1884)が、1851年に『アメリカ東洋学会雑誌』(Journal of The American Oriental Society. 2nd vol. New York 1851)において発表した「日本のカナ文字についての覚書」(Note on Japanese syllabaries)という論文に掲載されたいろは文字一覧などが早い例として知られていますが、本論文のカナ文字が活字印刷よるものであるとすれば、これらよりも大幅に早い時期の採用例ということになります。レミュザは本論文に先立って1822年に『漢文啓蒙』(Elémens de grammaire chinoise…Paris, 1822)において、ヨーロッパで最初の明朝体の鋳造活字を採用しており、漢字活字鋳造の発展にも貢献していました。本論文において用いられているカタカナの印刷も、こうしたレミュザの活字鋳造に関わった経験が生かされているのではないかと思われます。本書の印刷を手掛けているのが、当時のヨーロッパにおいて各国語の活字印刷の最先端を走っていたフランス王室印刷所であることに鑑みても、このことは非常に興味深いところです。

「ヨーロッパ人による東洋諸言語の活字開発の歴史を辿るとき、技術史の側面のみを抜き出してそれを語ることはむずかしい。なぜならその歴史は大航海時代以降のヨーロッパ人の海外進出の動きと軌を一にしており、起源を遡り、背景を探っていくと多くの場合、キリスト教伝道や東インド会社の貿易活動(あるいは植民地統治)などの現場にぶつかるからである。これらの場では目的こそ違え、いずれも現地の言語をはじめ、歴史・地理・法制度などの文化研究が行われ、こうした現場から宣教や旅行者たちによってもたらされる情報は、ヨーロッパ人の〈東洋〉への興味・関心(=東洋趣味)を、ひいては東洋学(オリエンタル・スタディ)成立をうながした。ヨーロッパ人中心の語りの視点に即していうならば、それは彼らが「発見」した〈東洋〉という「周辺」を、自らの秩序や「知」の体系のなかに組み込んでいく過程であった。そして東洋のさまざまな言語の活字を製作して書物を印刷するという営みは、それを可視化していく作業だったのである。たとえば、1626年に建てられたローマの布教聖省(De Propaganda Fide)の印刷所が組織的に貯蔵していった諸言語の活字群は、それぞれの言語が使用される地域まで福音が宣べ伝えられた、すなわっちカトリックの「版図」に組み込まれたことの象徴であった。またルイ13世の知性下、枢機卿リシュリー(Richelieu, Armand-Jean du Plessis) によって1640年、ルーブル宮殿内に創設された王立印刷所(Imprimerie Royale)が、精力的に数多くの言語の活字を製作・所有していったことの意味も、このような時代状況を背景に据えるならば十分理解されるだろう。」

「フランスの中国学は19世紀の前半、レミュザ(Remusat, Jean-Pierre Abel)という天賦の才を持った学者によって、真の学問としての基礎が築かれた。彼が残した業績は中国学を中心に多岐にわたるが、とりわけ1822年に王室印刷所から刊行された『漢文啓蒙』(Elémens de la grammaire chinoise)は、西欧古典文法の枠組みをそのまま中国語に当てはめたそれまでの文法書と異なり、中国語の特性に即した記述がなされたという点で中国語研究史上、画期的な内容を持つものであった。またあまり注目されていない側面ではあるが、この文法書はヨーロッパで最初に明朝体の鋳造活字を用いて印刷されたという点で、活版印刷史に特筆すべき書物でもある。」
(鈴木広光「ヨーロッパ人による漢字活字の開発:その歴史と背景」印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』柏書房、2000年所収、142-143, 153ページより)

 レミュザの『和漢三才図会』を日本語の基礎と共に紹介したこの論文は、『訓蒙図彙』を紹介したケンペルの記述に比べて、これまであまり注目されてこなかったようですが、ヨーロッパにおける中国学の礎を築いた碩学レミュザによる非常に独創的な研究として、あらためて注目されるべきものではないかと思われます。この論文が収録されている『フランス王立図書館その他の蔵書資料についての研究論集』は1787年に創刊され20世紀半ばまで刊行が続けられた歴史ある学術誌ですが、中国語や日本語といったアジア諸言語についての資料を取り上げた研究論文も数多く掲載されているようで、本論文も先駆的な日本語研究として同誌に掲載されたことがうかがえます。雑誌の中に収録された一論文のため、単著に比べて注目されなかったのかもしれませんが、非常に興味深いレミュザの論文と言えるでしょう。

 なお、『和漢三才図会』については、後年1877年に、19世紀イタリアにおける東洋語研究の第二世代を代表する、プイーニ(Carlo Puini, 1839 - 1924)によっても取り上げられ、仏教に関係する項目のイタリア語編訳と注釈がなされています(Enciclopedia sinico-giapponese : notizie estratte dal Wa-kan san-sai tu-ye, intorno al buddismo. Florence, 1877)。このプイーニの研究は、1857年にレミュザ『漢文啓蒙』の再版も行ったロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)から日本語を学んだセヴェリーニ(Antelmo Severini, 1828 - 1909)を師と仰いだプイニーならではのもので、その意味ではレミュザの本論文での取り組みは長きにわたって大きな影響を与えたと見ることもできるでしょう。