書籍目録

『歴史地図帳、あるいは、最新の地図と図版図によって表現された歴史、年代記、並びに古今の地理についての新しい紹介 第5巻:アジア』

シャトラン / グードヴィル

『歴史地図帳、あるいは、最新の地図と図版図によって表現された歴史、年代記、並びに古今の地理についての新しい紹介 第5巻:アジア』

第5巻のみ(全7巻中) 1719年 アムステルダム刊

Chatelain, Henri / Gueudeville, Nicolas.

ATLAS HISTORIQUE, OU NOUVELLE INTRODUCTION A l’Histoire, à la Chronologie & à la Geographie Ancienne & Moderne; Représentée dans de NOUVELLES CARTES,…TOME V. Qui comprend l’ASIE en général & en particulier,…

Amsterdam, L’Honore & Chátelain, M. DCC. XIX.(1719). <AB2022133>

Sold

vol. 5 only (of 7 vols.)

Folio (28.8 cm x 45.0 cm), 1 leaf(blank), Half Title., Front., Title., 2 leaves, pp.I-IV, 2 leaves, pp.1-176, 1 leaf(blank), (double pages / some folded) 55 numbered plates & maps: (No.1-44, 46-55, i.e. LACKING No.45), Contemporary full leather, front cover detached.
刊行当時のものと思われる装丁だが表表紙が本体から外れてしまっている状態。背表紙にも傷みが見られるが、本体の綴じや状態は非常に良好。55番までの通し番号がつけられている図版のうち、第45番のみが欠落。

Information

日本をはじめとしたアジア各国の歴史と風俗を多数の図版で紹介、地図や図版のみが切り取られて販売されることが多い著作の図版をほぼ完備している大変貴重な1冊

 本書の著者であるシャトラン(Henri Abraham Chatelain, 1684 - 1743)は、もともとパリ在住のユグノーの家系に生まれ、パリ、ロンドン、ハーグを経て最終的にアムステルダムと各地で活躍した地理学者、出版人です。本書は彼の主著として名高い全7巻からなる『歴史地図帳』の第5巻にあたるもので、日本を含むアジア全域を対象としています。シャトランの『歴史地図帳』はフォリオ判の大型の紙面を彩る数多くの図版や地図が魅力的な作品ですが、それゆえにそれぞれの図版が後年に切り取られて個別に売られてしまうことが多く、これらの地図や図版がどのような意図や文脈に沿って掲載されていたのかが、ほとんどわからなくなってしまっています。本書は、日本を対象としたアジア地域を扱う第5巻に収録されている全55点の図版のうち、わずか1点(第45番)が欠けているだけの完本に近いもので、特日本関係記事と図版は完備していることから、『歴史地図帳』の全体像を伝えてくれる貴重な1冊と言えるものです。

 シャトランが『歴史地図帳』のような大部の作品を刊行することになった背景には、17世紀末から18世紀に入ってからのある種の百科事典ブームともいうべき、世界のあらゆる知識を網羅しようとする著作の刊行が相次いだことがあります。「編集知の世紀」(寺田元一『編集知の世紀:18世紀フランスにおける「市民的公共圏」と「百科全書」』日本評論社、2003年)と呼ばれるこうしたうねりは、全世界の地理と歴史の双方を網羅的に、しかも数多くの視覚資料とともに編纂しようとしたシャトランの『歴史地図帳』の企図と重なるところが多く、彼が時代の空気を鋭敏に読み取りつつ、独自のアプローチで本書の編纂に取り組んだことがうかがえます。シャトランの『歴史地図帳』は全7巻で構成されており、各巻は概ね次のような内容となっています。

第1巻:古代世界と現代イタリア、フランス、スペイン
第2巻:古代ローマ
第3巻:イングランド、スコットランド、アイルランド、スイス、サヴォア、ロレーヌ、ヴェネチア
第4巻:スカンジナヴィア諸国、バルト諸国、ポーランド、モスクワ大公国、トルコ、中近東
第5巻(本書):アジア、古代バビロニア、ギリシャ、アルメニア、ジョージア、トルコ、パレスチナ、ペルシャ、韃靼、ムガール帝国、中国、日本、シャム
第6巻:アフリカ、南北アメリカ、中南米、アジア太平洋諸地域
第7巻:補遺:年代記、名家系譜、フランス、オーストリア、イタリア、スペイン、ポルトガル等を中心とした軍事史、宗教と神話等

 全7巻構成でヨーロッパを中心にしつつも、当時ヨーロッパで認識されていた世界全域の地理と歴史を網羅的に描こうとする、壮大な作品であることがわかります。時間と空間を結びつけながら世界各地を網羅的にまとめようとする企ては、ヨーロッパで古い歴史を有するいわゆる「普遍誌」の構想に基づくものですが、シャトランはこの構想を、大航海時代以降爆発的に増加した、世界各地の地理と歴史に関する情報量をまとめあげ、新しい一つの世界像を提示したことに大きな特徴があります。そのためにシャトランは『歴史地図帳』のために膨大な図版を盛り込み、「年代記」として図示するための年表、当時知り得た最新情報に基づく各地域の地図、そして人々の風俗を多彩に描いた様々な図版を、当時最新の情報を整理した上で作成した独自のテキストと有機的に結びつける形で編纂しています。

 シャトランが『歴史地図帳』の製作にあたってパートナーとしたのが、シャトランと同じくルーアン、ロッテルダム、ハーグと遍歴を続けながら活躍した著作家グードヴィル(Nicolas Gueudeville, 1652 - 1721)です。グードヴィルは「啓蒙の無名戦士」と呼ばれるほど生涯を通じて精力的に活躍した人物で、歯に絹着せぬ鋭い筆致でありながら、豊かな見識に支えられた質の高い作品を数多く生み出したことで知られています。トーマス・モア『ユートピア』の新訳を手がけたことからも分かるように、「啓蒙の世紀」を体現するような著作家であった人物で、シャトランは『歴史地図帳』の製作にあたって同世代を代表するグードヴィルを大いに信頼して大部分のテキストの執筆を依頼しました。本書タイトルページにはシャトランの名は出版人としてし控えめに記されているのに過ぎないのに対して、グードヴィルの名は中央に大きく示されており、シャトランがグードヴィルをいかに信頼して『歴史地図帳』を製作したのかが伺えます。

 本書はこのシャトランとグードヴィルという才気溢れる2人の人物が中心となって世に問うた稀代の名作『歴史地図帳』の第5巻にあたるもので、先に見たように、日本を含むアジア地域を主な対象としています。本書冒頭では第5巻で扱われるアジア全域に関する序論とともに、対象とされる各国地域を地理的に分類した図版、ならびにそれぞれの王朝の変遷を並列させて図示した年代記を掲載しており、歴史(時間)と地理(空間)とを結びつけて、一つの世界観を提示するという『歴史地図帳』の企図に沿った記述が展開されています。この序論部分は、シャトランの『歴史地図帳』のそもそもの狙いを理解するために非常に重要な記述で、これに続いて展開される各国地域の個別記事が、どのような世界観に基づいて叙述されているのかを的確に把握するためには、不可欠の記述であると言えます。

 この重要な序論部分に続いて、先に見たよう各国地域の個別の記述が展開されていますが、その記述も大変ユニークなもので、多くの書物ではテキスト部分があくまで本体で、それに対して図版は付随的なものと考えられるのに対して、本書では長大な本文テキストと極めて密接に関連づけられつつ、テキスト部分に迫るほどの分量の多彩な図版が盛り込まれています。フォリオ判の大型の紙面で展開される図版はその大半が見開き両面を用いて描かれていて、各地の風景や風俗が、まるで眼前のパノラマを見るかのように鮮やかに展開されています。また、年代記や地図もこうした大きな紙面で展開されていることから、読者が一目で理解することができるように工夫されており、文字情報と視覚情報とが有機的に連関しながら展開されるという、メディアとして非常に斬新な構成となっています。単純にテキストのみ、図版のみで展開されるのではなく、これらを有機的に組み合わせることで、一つの世界像を読者に提示するというのは『歴史地図帳』の最大の大きな特徴で、この試みは、現代の読者にとっても今なお斬新に感じられます。

 本書の日本関係欧文図書としての価値は、いうまでもなく本書後半で独立して論じられている日本関係記事とその図版にあります。テキストでは、日本の地理、歴史、風俗、政治、宗教、社会といった多くの事項が、当時入手し得た各種情報に基づいて手際よくまとめられており、コンパクトながらも一つの「日本誌」として構成されています。典拠となった情報源としては、18世紀ヨーロッパにおける日本情報の流布において圧倒的な影響をもったケンペル『日本誌』の影響が大きいのではないかと思われますが、それ以前の日本関係文献も数多く駆使されているようで、執筆に際してある程度入念な調査が行われたことがうかがえます。また、こうした「日本誌」に相当する記述に続いて、日本の年代記も独立して掲載されており、1550年を起点として、「内裏(DAYRO」から「公方(CUBO)」が次第に権力を収奪していく(当時の)現代史が図示されています。

 収録されている3枚の図版のうち、最初に掲載されているのは見開き大の日本図で、この地図は、オランダ東インド関係者が日本から持ち帰った石川流宣の日本図を手本として、各国(藩)名を漢字でそのまま転写しつつ、その読みをアルファベットで表現したという大変ユニークな地図です。この地図は、当時のオランダを代表する東洋学者、地図学者であったレーラント(Adriaan Reland, 1676 - 1718)が1715年に発表していたもので、当時最新の日本図としてヨーロッパで強い影響力を有していたことが知られています。本書にこの当時最新の日本図が収録されているというのは、レーラントによる同図の影響力の大きさだけでなく、シャトランが『歴史地図帳』の編纂に際して最新のできるだけ正確な情報を収集しようと努めていたことを示しているとも言えるでしょう。 

 これに続いて掲載されている見開き大の図版は、2枚の銅版画の中心にしてその下部にテキストが配置され、中央上部には日本の王朝の変遷を図示した系統樹図、そしてその下部には東を上向きにした日本地図が掲載されています。2枚の銅版画とそのテキストの典拠となったのは、「当時のヨーロッパにおける日本情報を網羅的に集約した初めての本格的な『日本誌』」(クレインス フレデリック『十七世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、150ページ)とされる、モンターヌスの『東インド会社遣日使節紀行』のフランス語訳版です。左側に描かれているのは永禄の変の場面、右に描かれているのはオランダ東インド会社の出島商館長一行の江戸参府の場面で、それぞれの解説記事が下部に掲載されています。中央下部の日本図は、17世紀フランスにおける地図製作において最も著名で王室付き地理学者でもあったサンソン(Nicholas d’Abbeville Sanson, 1600 - 1667)によって1652年に製作された日本図を手本としています。サンソンによる日本図は、先のレーラントによる日本図とは異なる系統にある日本地図で、17世紀後半から18世紀はじめにかけてレーラントの日本図とならんで大きな影響力を有していました。シャトランは、あえてレーラント型とは異なる日本図を同時に掲載することによって、いずれかの見解に与するのではなく、異なる見解が存在することを公平に読者に伝えたとも考えられます。

 最後の見開き図も概ねモンターヌスの著作に由来するもので、同書最大の特徴であった多数の図版を縮小して転載することで、日本各地の様子とを展望できる図版に仕立て上げられています。最上部に掲載されているのは「京都(MEACO)」の図で、この図は一見荒唐無稽なようにも思えますが、「そこに描かれている要素を一つ一つ詳しく分析すると、街の真ん中を流れる川は明らかに堀川であり、東側に御所があり、西側に二条城が描かれて」いて「三十三間堂や方広寺もほぼ正しい位置に描かれている」(クレインス前掲書、156、7ページ)というものです。左側上部の図は、雲仙におけるキリシタン拷問の図、その下は堺港の様子を描いたもの、下部中央は出島図、右側下部は堺の街並み、そして右側上部は日本の結婚式の場面を描いた図です。中央のテキストはそれぞれ江戸と京都の街並みを解説した記事となっています。

 このように本書に掲載されている日本関係記事は、当時ヨーロッパで流通していた日本関係図書に基づきながら独自の編纂が施された大変ユニークなもので、シャトランの『歴史地図帳』の企図に沿って展開された「日本誌」として読むことのできる、大変充実した内容を有していると言えるでしょう。収録されている3枚の日本関係図版は本体から切り取られて個別に販売されることが多く、図のみが一般にはよく知られています。もちろんこれらの地図と図版は、それぞれの完成度が高く、また情報量が非常に豊かなため、個別での鑑賞、研究にも十分耐えうるほどの質の高いものですが、先に見た『歴史地図帳』の企図に鑑みれば、やはり日本関係記事のテキスト部分と合わせて理解すること、さらには本書全体の構成の中での位置付けを考慮しながら理解することが、極めて重要であることは言うまでもありません。

 シャトラン『歴史地図帳』に収録された日本地図や関連図版は、それだけが切り取られて流通、理解されてしまうことが非常に多いですが、本来は『歴史地図帳』全体の壮大な構想のもとに展開された「日本誌」の一部であることを意識して理解することが大切です。本書は、アジア地域を扱う第5巻だけとは言え、ほぼ全ての図版とテキストが完備しており、こうした『歴史地図帳』本来の意図を理解しながら、日本関係記事を読み解くための素材としては非常に価値のある1冊と言えます。また、フォリオ判の大きな紙面で展開されている記事は、実際の書物の形で見るからこそ、当時の読者が受けたインパクトを追体験できることから、原著で読むことの意義が大きい作品ということもできるでしょう。



「フランスの啓蒙主義の時代にはいくつかの百科全書が大部数で出版されて普及していた。シャトランの1718年から20年かけて出版された歴史地図帳もその一つであった。日本の部にレランド型とこのダッドレー / ヤンソン型の2種類の地図が含まれている。これは二つ折り版見開きページにモンタヌスからとられた挿絵とテキストとを組み合わせたものである。(中略)東北の太平洋岸のオランダ語表記の地名は場所の関係で海側ではなく陸地側に記入されている。全体として東へ向いていることが目立つがこれはこの図の全体の構成を考えてのことであろう。」
(ルッツ・ワルター編『西洋人の描いた日本地図:ジパングからシーボルトまで 図録』社団法人OAG・ドイツ東洋文化研究会、1993年、196ページより)


「この地図は一般的にアンリ=アブラハムとザカリーというシャトラン兄弟、ザカリーの娘婿フランソワ・ルノレの作とされている、7巻からなる大著 Atlas Historique の5巻目に含まれている。しかし最近の出版物では、実際にはザカリー・シャトランひとりの作だと主張されている。これはレーラント作成地図を写したもので、地名はオランダ語の発音であり、1715年のレーラント地図では Soeroega となっている Suruga が Soepoega に、Kinokuni が Knokuni となっているという、少なくとも2つの大きな彫り間違いがある。
 カルトージュ内では、この地図が日本人による類似の地図を写したものであるため変更の必要がなく、挿し込み図はオランダ人が現地で描いた地図から採ったと説明してある。」

「ファン・ワニングは(2010)シャトランの Atlas Historiqueについて「おそらくは”atlas(地図)”と”historical(歴史)”という言葉が直接結びついた最初の地図だろうと書いている。またゴッファルト(2003)を引用して、この作品の編纂はザカリー・シャトランの功績だとも述べている。7巻の初版印刷を完成させるには15年もかかり(1705〜1720年)、判明している最後の印刷は第1巻のみの1739年だった。他の巻が異なる年に出版されているのは、各巻で売れ行きが違ったせいで、正確な”版”とすることが難しかったからであろう。(後略)」

「Artlas Historique にある2枚目の日本地図に、おそらくピーテル・ファン・デル・アーの地図がサンソンの1652年の図をもとに描いた、伝統的な表現の地図を挿入してある。ページ下側にあるこの小型地図の両側には二枠の文章があり、一方は日本の天皇(原著では「emperor」とあり正しくは皇帝(公方);引用者注)の死について、もうひとつは1644年のオランダ”大使”について書かれている。」
(ジェイソン・ハバード / 日暮雅道訳『世界の中の日本地図:16世紀~18世紀 西洋の日本の地図に見る日本』柏書房、2018年、329、331ページより。)