本書は、生涯にわたって旅行を繰り返したテヴェノー(Jean de Thévenot, 1633 - 1667)の旅行記を没後に編纂して刊行したものです。全5巻からなる作品ですが、その第5巻は「東インド旅行記」とされており、ここには非常に興味深い日本関係記事が含まれています。テヴェノー自身は来日することは叶いませんでしたが、本書における日本関係記事は、彼が東インドで親交のあった日蘭貿易に従事していたと思われるオランダ東インド会社関係者から直接聞き知った内容をもとにしていることから、大変ユニークで価値のある内容となっています。
パリ出身の富裕な家庭に生まれたテヴェノーは、旅行記を読み耽り自身も若くして各地を旅するようになりました。1652年から1655年にかけてはイングランドやヨーロッパ大陸各地を周遊し、1655年以降も続けてギリシャ、エジプトへと足を伸ばし、イェルサレムへと至り、アレキサンドリアからチュニスへと戻りました。このオリエント旅行は1663年までに渡る長期間の旅でしたが、テヴェノーはすぐさま次の旅へと出かけ、再びアレキサンドリアへと渡りそこからバグダッド、ペルシャへとさらに東方へと向かいます。ペルシャでは商人として同地を訪れていたタヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier, 1605 - 1689)と合流し、それぞれ別便でインドへと向かいました。1666年にムガール帝国に到着してから1年以上当地に滞在したテヴェノーは再び旅を続けましたが、イスファハンで事件に巻き込まれ負傷し、現在のイラン東部アゼルバイジャンの州都であるミーアーネーにおいて亡くなりました。なお、カロン『日本大王国志』の仏訳版を収録していることで知られる著名な旅行記集成を編纂したメルキセデク・テヴェノー(Melchisédech Thévenot, c. 1620 - 1692)は、彼の叔父にあたる人物です。
テヴェノーは生涯にわたる旅の傍ら自身の多言語運用能力を活かして旅先で見聞したさまざまなことを書き記しており、それらを自身の旅行記として出版していました。1665年には彼の最初の旅行記集として、『レヴァント旅行記集』(Relation D’un voyage fait au Levant. Paris: Lous billaine, 1665)を刊行しました。テヴェノーはこれに続く旅行記集の刊行を計画していましたが、不慮の事故により生前に出版することが叶わず、彼の遺稿となった旅行日記をもとにして没後に編纂が進められて出版され、最終的に彼の生涯にわたる「旅行記全集」として1689年に『テヴェノー氏のヨーロッパ、アジア、アフリカへの旅行記集』(Voyages de Mr. Thevenot tant en Europe qu’en Asie & en Afrique…2 vols. Paris: Charles Angot)が刊行されました。この初版は非常に好評を博したようで、すぐさま同年に小型版として第2版が刊行されています。また、英語やオランダ語といった各国語に翻訳され、ヨーロッパで広く読まれる作品となりました。本書は、「第3版」とされているもので、初版刊行から40年近く経った1727年にアムステルダムで刊行されており、この作品が長く読み継がれる人気作品であったことを示している大変興味深い版です。
全5巻からなる本書は、第4巻までがレヴァント旅行記となっており、最後の第5巻が彼の生前最後の旅となったムガール、ペルシャといった「東インド旅行記」(voyages des Indes Orientales)となっています。本書が日本関係欧文図書として非常に興味深いのは、この第5巻で少なくない日本に関する記述を見ることができることです。テヴェノー自身は残念ながら日本へと赴くことはできませんでしたが、旅先で彼が見聞したであろう日本情報を記しており、その記述がこの第5巻に収録されています。「東インド旅行記」の第2部(vol.5, pp.259-)では、ゴアをはじめとしたポルトガルの影響下にあったインド各地の社会状況や人々の生活の様子が詳細に論じられていますが、ネパールに程近いインド最東部の街バッグナガーでの記述(「東インド旅行記」第2部第10章(Vol.5, pp.321-)に続く、同第11章(pp.327-)においてオランダの強い勢力下にあった同地周辺でテヴェノーが見聞した興味深い出来事が語られており、その大きな話題の一つとして日本についてのことが述べられています。テヴェノーはオランダがセイロンでポルトガル勢力を駆逐し、極めて高品質で知られる同地のシナモン貿易で大きな利益を上げていることを説明し、その文脈でオランダの東インド貿易についての話題へと移り、彼がインド西部の街スーラトで現地の友人から聞いたオランダと日本の交易に関する話を紹介しています。
この箇所でテヴェノーは日蘭貿易の様子について非常に詳細に論じており、オランダ人が讒言を駆使してポルトガルを日本から駆逐し、日本との交易を独占するに至ったこと、「長崎(Nansaque)」の「出島(Disima)」と呼ばれるわずか2,000歩ほどしかない小島に幽閉され、厳しい制約に甘んじることでオランダ人がかろうじて日本での滞在を許可されていることなどを説明しています。テヴェノーはオランダ船が出島に到着する際の様子やオランダ人の日本での滞在中の生活についても具体的に記していて、入港前に日本の役人による非常に厳しい検査があることや、日本での滞在期間や滞在中の活動が極めて厳格に定められていること、「江戸(Yendo)」という皇帝のいる首都に毎年敬意を示すために豪華な贈り物を持って表敬訪問を義務付けられていることなども記しています。また、オランダ人が出島で日本の遊女を招き寄せていることまでも記していて、これらの記述は何らかの書物から転写したものではなく、テヴェノー自身がオランダ東インド会社の関係者から直接聞き取ったことを記したものではないかと思われます。そのことを裏付けるように、テヴェノーは日本の「酒(Saqué)」と呼ばれる奇妙な飲み物を親切なオランダの友人から飲ませてもらったことやその感想について記していて、実際に日蘭貿易に従事していた関係者と直接の親交があったことを伺わせています。テヴェノーは日本における偶像崇拝や厳しいキリシタン弾圧のこと、胴が非常に豊富に算出されることも紹介しており、日蘭貿易関係者を通じて彼が聞き知った日本情報を読者に伝えています。
本書に記されているこうした日本情報は、テヴェノー自身が来日経験を持たなかったとしても、彼が東インドで親交のあった日蘭貿易に実際に従事していたと思われるオランダ東インド会社関係者から聞き知った情報に基づいて記されていることから、非常に興味深い記述であると思われます。テヴェノーと同時代の旅行家でその旅行記がベストセラーとなったことで知られるワウテル・スハウテン(Wouter Schouten, 1638 - 1704)も、彼の『東インド紀行』(Oost-Indische Voyagie. Amsterdam: Jacob Meurs, 1676)において、彼自身は日本行きを熱望していたにもかかわらずそれが叶わなかったものの「この国およびその住民については、何人かのオランダ人と詳細に語り合うことができた」(クレインス フレデリック『十七世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、205ページ)と述べ、特に日蘭貿易に関する独自の日本情報を伝えています(同書223ページ)。本書における日本関係記事も、このスハウテンの日本関係記事と非常によく似た性質のものと思われ、日蘭貿易に従事していた関係者が口頭で伝える日本情報が、旅行家によって書物においてヨーロッパの読者に伝えられるという、興味深い日本情報伝達回路があったことを示しています。
テヴェノーの旅行記は、彼自身が来日経験がないためこれまで日本関係図書としては認識されてこなかったものと思われますが、このように直接日蘭貿易に従事していた関係者から聞き取ったと思われる興味深い日本情報を含む作品として、あらためて注目されるべき作品ではないでしょうか。
なお、5巻それぞれの詳細な書誌情報は下記のとおりです。
Vol. 1: Front., Title., 6 leaves, plate(portrait of the author), pp.[1], 2-378, (some folded) plates: [8].
Vol. 2: pp.[379(Title.), 380], 3 leaves, pp.381-811, 112(i.e.812), 813-939, 19 leaves(Table), (some folded) plates: [10].
Vol. 3: Front., Title., 20 leaves, pp.[1], 2-414, (some folded) plates: [14].
Vol. 4: : Title., 1 leaf, pp.415-436, 337(i.e.437), 438-709, 14 leaves(Table), plates: (some folded) [4] .
Vol. 5: Title., 5 leaves, pp.[1], 2-344, 11 leaves(Table), plates: (some folded) [13].