書籍目録

『新東洋:久保田米僊による12枚の特製挿絵付き』

ディオシー / 久保田米僊(絵)

『新東洋:久保田米僊による12枚の特製挿絵付き』

初版 著者直筆献辞本  1898年 ロンドン刊

Diósy, Arthur / Kubota, Beisen(illustration)

THE NEW FAR EAST. WITH TWELVE ILLUSTRATIONS FROM SPECIAL DESIGNS BY KUBOTA Beisen, of Tokio,…

London, Cassell and Comany, Limited, 1898. <AB2022126>

Sold

First edition, author's dedication copy.

8vo (13.8 cm x 21.3 cm), pp.[i(Half Title.), ii], Front., pp.[iii(Title.)-vii] , viii-xvi, pp.[1], 2-374, 1 leaf(blank), 8 leaves(advertisements), Plates: [13], Original decorative cloth.
[NCID: BA06925927]

Information

ロンドン日英協会の創立に貢献した親日イギリス人著者による直筆献辞本、久保田米僊の12枚の挿絵を配したユニークな日英合作品

 本書は、明治期の新日イギリス人を代表する人物の一人であるアーサー・ディオシー(Arthur Diósy, 1856 - 1923)による作品で、久保田米僊が本書のためにかきおろした12枚の挿絵が収録されているという、いわば日英合作とも言えるユニークな作品です。本書の見返し部分にはディオシーの直筆と思われる献辞文が書き込まれており、ディオシーが親しい人物に贈った貴重な1冊でもあります。

 ディオシーは、幼少期から日本に対する強い関心を抱き、さまざまなヨーロッパ諸言語をマスターしつつ、独学で日本語を習得したとう異才の持ち主で、1891年のロンドン日本協会の創設に貢献したことでも知られています。イギリスを訪れる日本人留学生や外交官らと交際を重ね、日清戦争を経て急速に国際社会の舞台での存在感を高めつつあった日本を擁護する立場から数多くの著作を執筆しました。本書はこうした彼の著作活動の集大成ともいうべき主著で、1898年にロンドンで刊行されました。
 本書でディオシーは日清戦争をめぐる国際状況と日本の実情を解説するところから筆を起こし、日本の近代化について、政治、社会、教育、医療制度、軍事、国民性、国際関係といった実にさまざまな側面から議論を展開しており、当時ヨーロッパやアメリカで盛んに唱えられつつあった黄禍論に対して、日本を擁護する立場で自説を展開しています。こうしたディオシーの一貫した親日的態度は、当時の明治政府にも非常に好意的に受け取られました。ただ、ディオシーは序文で自ら述べているように、無批判的に日本を擁護しているのではなく、むしろ自身としては公平に偏りのない態度で日本の現状を描写しようと努めようとしており、過度な日本脅威論や批判に対して警鐘を鳴らすこと、日本の実情を西洋の読者に伝えようとすることが本書の目的であったことがうかがえます。
 本書が大変ユニークな作品であるのは、タイトルページでも大きく明記されているように「東京の画家、久保田米僊」による12枚の挿絵(口絵含む)が収録されていることです。当時ディオシーは来日経験がなかったため、久保田米僊と直接の交流があったかどうかについては定かではありませんが、序文においてディオシーの親しい友人であった深井英五からの書簡を引用する形で、深井から久保田米僊の画家としての生い立ち、その画業が徳富蘇峰の國民新聞者においてジャーナリストとしても遺憾無く発揮されていることや、日清戦争に従軍画家として参加して製作した作品が非常に高く評価されていることを紹介しており、深井英五の推薦と仲介によって、久保田米僊が本書に挿絵を提供することになったことがうかがえます。久保田米僊は1889年のパリ万博に作品を出展し、自身も渡仏しているため、あるいはこの渡仏時にディオシーと知り合った可能性も考えられますが、いずれにしても本書の序文からはディオシーが久保田米僊の画業に対してひとかたならぬ信頼を抱いていたことが読み取れます。なお、本書が刊行された1898年は、久保田が納富介二郎に誘われ、石川県立工芸学校教授として赴任しつつ、次第に視力を失いつつあった晩年に近い時期に当たっています。
 本書は見返し部分にディオシーの直筆と思われる献辞文が記されており、贈られたA. Bräutigam という人物の押印も押されています。この人物の詳細については不明ですが、ディオシーが自著を贈るほどの親しい関係であったことは確かと言えるでしょう。