書籍目録

「リンネのモモ属パミラとツンベルクの庭梅についての考察(1847年6月17日講演)」

テノーレ

「リンネのモモ属パミラとツンベルクの庭梅についての考察(1847年6月17日講演)」

ナポリ王立自然科学推進協会雑誌第8号からの抜き刷り (1855年) (ナポリ刊)

Tenore, Michele.

INTORNO ALL' AMYGDALUS PUMILA DEL LINNEO ED AL PRUNUS JAPONICA DEL THUNBERG OSSERVAZIONI DEL CAV. MICHELE TENORE SOCIO ORDINARIO Lette al R. Instituto d' Incoraggiamento, nell' adunanza de' 17 Giugno 1847.

(Napoli), (STABILIMENTO TIPOGRAFICO DEL REAL MINISTERO DELL' INTERNO NEL REALE ALBERGO DE' POVERI), (1855.). <AB2017133>

Sold

extracts from ATTI DEL REALE INSTITUTO D' INCORAGGIAMENTO ALLE SCIENZE NATURALI DI NAPOLI TOMO VIII. 1857.

20.0 cm x 24.7 cm, pp.[135], 136-149, Disbound

Information

ナポリ植物園長によるリンネとツンベルクによる日本の植物研究についての考察

 本書は、『ナポリ王立自然科学推進協会雑誌(Atti del Reale Istituto d'Incoraggiamento alle Scienze Naturali di Napoli)』第8号(1855年)に掲載された雑誌の抜き刷りで、1847年6月17日に行われたイタリアの植物学者テノーレ(Michele Tenore, 1780 - 1861)による講演をまとめたものです。テノーレは本書が刊行されたナポリの植物学者で、当代随一の植物学者として活躍し、ナポリ大学の教授のほか1810年に開園したナポリ植物園の園長も勤めました。

 彼が本書で主題としたのが、日本の植物研究とヨーロッパへの紹介で大きな貢献をなしたツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743 - 1828)による庭梅(学名Prunus japonica)の研究と、彼の師でもあり、植物の学名二名法(あらゆる植物をその属と種(形容語)の二つのラテン語で表す)と分類法によって近代植物学の生みの親とされるリンネ(Carl Linné, 1707 - 1778)によるモモ属パミラ(Amygdalus Pumila)の研究とを考察することでした。

 ツンベルクは1775(安永4)年にオランダ出島商館付きの医者として来日し、以後1年余りの滞在期間中に多くの植物を採集し、帰国後スウェーデンのウプサラ大学植物学教授としてそれらを元にした論説を多数発表し、18世紀末のヨーロッパに日本の植物をリンネの分類法と命名法に従って、体系的に紹介しました。それらの成果の中でも、『日本植物誌(Flora Iaponica, 1784)』は、800種以上の日本の植物を詳細に紹介したもので、ヨーロッパにおける近代植物学に日本の植物が整然とした体系をもって初めて伝えた文献として高く評価されています。彼が日本で採取し命名した植物は数多く、現在もその学名が用いられているものが少なくありません。本書で取り上げられている庭梅もその一つで、本来は中国原産の植物で江戸時代に日本に持ち込まれたものですが、ツンベルクはこれをPrunus Japonicaと日本産の植物として命名しています。

 当時のヨーロッパでは、リンネによる命名法と分類法とによって近代植物学が発展し、世界中の植物を体系づける試みがなされており、リンネをはじめとした近代植物学揺籃期の先人の業績を受け継ぎつつ、曖昧であった、ないしは誤ってなされていた分類や命名を訂正して整理し直すことも研究の重要なテーマの一つでした。本書もそうしたテーマを持ったもので、リンネがモモ属パミラとして分類した植物と、ツンベルクが日本の庭梅として新たに報告した植物とが、果たして同一のものであるのか否かをめぐって考察を重ねています。

 研究テーマとしては非常に専門的なものですが、1855年という日本の開国直前の時期にあってもなお、ツンベルクの植物研究は、シーボルトによる同じテーマの研究『日本植物誌(Flora Iaponica, 1835 -1870).』が既に発表されつつあったにも関わらず、ヨーロッパの植物学において大きな影響力を保っていたことを伝えています。上述のような雑誌の一部に収録されていた論文のため、これまであまり知られることはなかったものと思われますが、専門的な資料とは言えどもヨーロッパにおける日本の知識の伝搬をたどる上では重要な文献と言えるものです。