書籍目録

『1549年から1566年に至る、日本諸王国に滞在したイエズス会士達による書簡集』(『コインブラ版書簡集』)

『1549年から1566年に至る、日本諸王国に滞在したイエズス会士達による書簡集』(『コインブラ版書簡集』)

初版第二刷(8月版) 1570年(8月) コインブラ刊

IESVS CARTAS QVE OS PADRES E IRMÃOS DA COMPANHIA DE Iesus, que andão nos Reynos de Iapão ecreuerão aos da mesma Companhia da India, e Europa, des do anno de .1549. Ate o de .66….

Coimbra, Antonio de Maris, 1570 (Agosto). <AB202213>

Sold

First edition, second issue.

8vo (14.0 cm x 19.5 cm), 2 leaves(original fly leaves), 11 facsimile leaves(Title., dedication, contents…etc.), 606 numbered leaves(j-jx, xij(i.e. x), xj-clxxxvij, clxxxvij(i.e. clxxviij), clxxxix-cccclij, ccccliiij(i.e. ccccliij), ccccliiij-ccccccvj) , 1 leaf(errata), 1 leaf(colophon), 1 leaf(original fly leaf). Contemporary vellum, skillfully restored.
本書の来歴を示すと思われるDr. Silva Amandoの蔵書オークションと本書に関する記事(20世紀初頭の記事か?)の切り抜きが見返しにあり。タイトルページから目次までの11葉が欠損しているためファクシミリにて補填されている。冒頭一葉(j)上部欠損箇所があるが、ファクシミリにて補填。本文は奥付含め完備。刊行当時に近いものと思われる羊皮紙(なんらかの別の書物の一葉か)を用いた装丁を残す形で修復されており製本状態は極めて良好。[Laures: JL-1570-KB4]

Information

世界での現存数がわずか10部にも満たないとされる、最初期の日欧交渉史の様相を克明に伝える最重要作品

 本書はザビエルによる1549年の日本渡来から1566年に至るまでの間にイエズス会士達によって作成された書簡を纏め上げた作品で、1570年にコインブラで刊行されました。全1,000ページを越える大部の本格的な日本書簡集で、しかも大半の書簡の原語であるポルトガル語で刊行されていることが大きな特徴で、最初期の日欧交渉史研究における最重要文献の一つに数えられる名著です。通称「コインブラ版」として知られる大変著名な作品ですが、その一方で世界中で確認できる現存部数が10部にも満たない大変な稀覯書としても知られる作品です。

 1549年のザビエル渡来以降、ザビエルをはじめとしたイエズス会士らによって数多くの報告書(書簡)が作成され、これらの書簡はヨーロッパに到着後、関係者の検閲を経た上ですぐに書物の形で刊行されました。こうした書物は早くも1550年代に出現しており、以降も定期的に「日本書簡集」あるいは、同時に布教が行われていた周辺国からの書簡と合わせて「インド書簡集」として刊行が続けられました。こうした書簡の多くは、ローマを中心として編纂、刊行されたため、イタリア語、あるいはラテン語に翻訳がなされた上で刊行されています。

 本書はザビエルの来日から20年余りを経て編纂された「日本書簡集」ですが、それまでの作品が比較的短期間の書簡を速報的にまとめたものだったのに対して、本書は1549年から1566年(当時入手し得た最新の書簡)に至るまでの書簡を網羅的に収録しており、既存の作品とは比較にならないほど充実した内容となっていて、比較的大判の用紙で1,000ページを越えるという圧倒的なボリュームを有しています。また、ほとんどの書簡の原語であったポルトガル語でそのまま刊行されていることも大きな特徴で、現文書からの転写や印刷時の誤り等はあるにせよ、イタリア語やラテン語に翻訳された作品と比べて、正確性に優れているとして非常に高く評価されています。日欧交渉が本格的に開始されてからわずか20年余りの後にヨーロッパで刊行された日本関係図書としては、その量・質ともに空前の作品であったと言える作品で、最初期の日本関係欧文図書として当時のヨーロッパの読者に与えた影響は計り知れないものがあります。

 本書には、1549年から1566年に至るまでの間に認められた全82通の書簡が収録されており、その概要をまとめてみますと下記の通りとなります。

(*上智大学ラウレスキリシタン文庫の所蔵本(JL-1570-KB4)情報も参照しながら作成。括弧内の数字は紙葉番号)

1)1549年1月20日、ゴア発、ザビエルより、ポルトガルのロドリゲス宛(1-)
2)1548年11月29日、ゴア発、パウロ(アンジロー)より、ローマのロヨラ宛(5-)
3)1549年1月25日、ゴア発、トーレス(Cosme de Torres)より、ポルトガルのイエズス会士宛(8-)
4)1549年6月22日付、マラッカ発、ザビエルより、ロドリゲス(Simão Rodrigues)、並びにポルトガルのイエズス会士宛(12-)
5)1549年11月5日付、鹿児島発、ザビエルより、ゴアのコレジオのイエズス会士宛(18-)
6)1549年11月5日付、鹿児島発、ザビエルより、マラッカのシルヴァ(Pedro da Silva)宛(40-)
7)1549年11月5日付、鹿児島発、パウロ(アンジロー)より、ゴアのコレジオの同僚宛(42-)
8)1551年9月29日付、山口発、トーレスより、インドのイエズス会士宛(43-)
9)1551年10月20日付、山口発、トーレスより、豊後のザビエル宛(48-)
10)1551年10月20日付、山口発、フェルナンデス(Juan Fernandez)より、ザビエル宛(51-)
11)1554年10月20日付、ゴア発、アルカサバ(Pedro Alcaçova)より、ポルトガルのイエズス会士宛(56-)
12)1554年12月23日付、ゴア発、ブランドン(Aires Brandão)より、ポルトガルのイエズス会士宛(70-)
13)1554年4月24日付、交趾発、ヴィレラ(Gaspar Villela)より、コインブラのコレジオのイエズス会士宛(76-)
14)1554年12月3日付、マラッカ発、ヌーネス(Melchior Nunes Barreto)より、ポルトガルのイエズス会士宛(77-)
15)1555年11月23日付、マカオ発、インド、ポルトガル、ヨーロッパ各地のイエズス会士宛(82v-)
16)1555年10月16日付、平戸発、平戸の王(松浦隆信)より、ヌーネス宛(95-)
17)1556年1月7日付、マラッカ発、フロイスより、インドのイエズス会士宛(95v-)
18)1555年9月23日付、平戸発、ガーゴ(Baltasar Gago)より、インドとポルトガルのイエズス会士宛(99-)
19)1555年9月20日付、ガーゴより、ジョアン3世宛(107v-)
20)1558年3月16日付、リスボン発、ジョアン3世より、豊後の王(大友義鎮)宛(110-)
21)1555年9月20日付、豊後発、シルヴァより、インドのイエズス会士宛(111-)
22)1558年1月10日付、交趾発、ヌーネスより、ポルトガルのイエズス会士宛(123v-)
23)1557年11月7日付、豊後発、トーレスより、ポルトガルのイエズス会士宛(134v-)
24)1557年11月1日付、アルメイダ(Luis Almeida)より、ヌーネス宛(139-)
25)1557年10月29日付、平戸発、ヴィレラより、インドとヨーロッパのイエズス会士宛(141v-)
26)1559年付、アルメイダより、ヌーネス宛(163v-)
27)1559年11月20日付、豊後発、アルメイダより、ゴアのコレジオのイエズス会士宛(165v-)
28)1559年11月1日付、豊後発、ガーゴより、インドのイエズス会士宛(166v-)
29)1559年10月5日付、豊後発、フェルナンデスより、ヌーネス宛(178v-)
30)1559年9月1日付、日本発、ヴィレラよりゴアのコレジオのイエズス会士宛(181-)
31)1560年10月20日付、豊後発、トーレスより、インドのヌーネス宛(183v-)
32)1560年6月2日付、京発、ロレンソLorenço)より、豊後のイエズス会士宛(184v-)
33)1560年12月1日付、ゴア発、フェルナンデス(Gonçalo Fernandes)より、コインブラのイエズス会士宛(191-)
34)1561年10月8日付、豊後発、トーレスより、インドのクアドロス(Antonio de Quadros)宛(196-)
35)1561年10月8日付、豊後発、フェルナンデス(Juan Fernandez)よりイエズス会士宛(204v-)
36)1561年10月1日付、豊後発、アルメイダより、クアドロスとインドのイエズス会士宛(219v-)
37)1561年8月17日付、堺発、ヴィレラより、インドのイエズス会士宛(238-)
38)1562年付、セバスチャン(D. Sebastião)より、レドンド(Conde do Redondo)宛(250v-)
39)1562年3月11日付、リスボン発、セバスチャンより、豊後公(大友義鎮)宛(251v-)
40)1562年12月10日付、ゴア発、ガーゴより、ポルトガルのイエズス会士宛(252v-)
41)1562ねjん10月11日付、豊後発、サンチェス(Aires Sanches)より、ポルトガルのイエズス会士宛(267-)
42)1562年10月25日付、横瀬浦発、アルメイダより、イエズス会士宛(274-)
43)1562年付、鹿児島の王(島津貴久)より、インド副王宛(298)
44)1562年付、鹿児島の王より、インド管区宛(298v-)
45)1562年付、堺発、ヴィレラより、イエズス会士宛(298v-)
46)1563年4月17日付、横瀬浦発、フェルナンデス(Juan Fernandez)より、豊後のイエズス会士宛(306-)
47)1563年11月17日付、横瀬浦発、アルメイダより、インドのイエズス会士宛(314-)
48)1563年11月14日付、大村発、フロイスより、ヨーロッパのイエズス会士宛(348v-)
49)1565年2月20日付、アルメイリン発、セバスチャンより、アンタン(D. Antão)宛(364v-)
50)1565年2月22日付、アルメイリン発、セバスチャンより、バルトロメオ(大村純忠)宛(365v-)
51)1563年4月27日付、堺発、ヴィレラより、インドのイエズス会士宛(366-)
52)1564年7月17日付、京発、ヴィレラより、ゴアのイエズス会士宛(370v-)
53)1564年10月9日付、平戸発、フェルナンデス(Juan Fernandez)より、中国のペレス(Francisco Perez)宛(372v-)
54)1564年付、広東発、テイシェイラ(Manuel Teixeira)より、ゴアのイエズス会士宛(377v-)
55)1564年10月3日付、平戸発、フロイスより、インドのイエズス会士宛(378-)
56)1564年付、日本発、あるポルトガル人より、中国のペレス宛(392-)
57)1564年10月11日付、豊後発、モンテ(Giovannni Battista de Monte)より、ポルトガルのトーレス(Miguel de Torres)宛(396v-)
58)1564年10月9日付、豊後発、モンテより、ローマのポランコ(Juan de Polanco)宛(398v-)
59)1564年10月14日付、豊後発、アルメイダより、インドのイエズス会士宛(401v-)
60)1564年11月15日付、島原発、フロイスより、トーレス(Cosme de Torres)宛(409-)
61)1565年10月25日付、福田発、アルメイダより、イエズス会士宛(414v-)
62)1565年2月20日付、京発、フロイスより、中国とインドのイエズス会士宛(449-)
63)1565年3月6日付、京発、フロイスより、中国のペレス(Francisco Perez)とイエズス会士宛(463v-)
64)1565年4月27日付、京発、フロイスより、インドのイエズス会士宛(474v-)
65)1565年6月19日付、京発、フロイスより、豊後のイエズス会士宛(484-)
66)1565年8月2日付、飯盛発、ヴィレラより、トーレス宛(496-)
67)1565年8月3日付、三箇発、フロイスより(497v-)
68)1565年9月15日付、堺発、ヴィレラより、ポルトガルのアヴィスの修道院のイエズス会士宛(503v-)
69)1565年付、豊後発、モンテより、ポルトガルのイエズス会士宛(516-)
70)1565年9月23日付、平戸発、フェルナンデス(Juan Fernandez)より、中国とインドのイエズス会士宛(519v-)
71)1565年10月22日付、平戸発、コスタ(Baltasar Costa)より、ポルトガル人達宛(529-)
72)1565年10月22日付、福田発、フィゲレイド(Melchior de Figueiredo)より、イエズス会士宛(531v-)
73)1566年10月24日付、口之津発、トーレスより、ローマのイエズス会総長宛(534-)
74)1566年6月30日付、堺発、フロイスより、イエズス会士宛(536-)
75)1566年9月5日付、堺発、フロイスより、ゴアのイエズス会士宛(546v-)
76)1566年1月24日付、堺発、フロイスより、ゴアのコレジオ長宛(552v-)
77)1566年3月17日付、平戸発、アルメイダより、島原のフィゲレイド宛(555-)
78)1566年10月20日付、志岐発、アルメイダより、イエズス会士宛(556-)
79)1566年9月13日付、日本発、フィゲレイドより、インドのイエズス会士宛(584v-)
80)1566年3月3日付、平戸発、ゴンサルヴェス(Jacome Gonçalves)より、トーレス宛(587v-)
81)1566年12月15日付、平戸発、カブラル(João Cabral)より、ポルトガルのイエズス会士宛(589-)
82)1566年9月15日付、平戸発、フェルナンデスより、ゴアのコレジオのイエズス会士宛(593v-)

 本書に収録された珠玉の書簡の数々は、当時の日本の社会状況を伝える資料として極めて貴重であることに加えて、それまで西洋においてほとんど未知の存在であった日本に実際に赴いたイエズス会士らが、どのように日本社会を捉えたのかという、日欧交渉史の最初期における彼らの眼差しを伝えるものとしても大変興味深いものです。本書に収録されている書簡はもちろんイエズス会士らの布教活動を中心に記されていますが、彼らが活動に際して対峙する必要があった日本の人々の風習や社会、政治、文化状況が非常に生き生きと活写されており、臨場感あふれる記述となっています。

 これらの書簡の中には、日本の文字や言語に言及したものもあり、例えば上記の16番書簡では、平戸藩主松浦隆信(Taquanobo, Rey de Firando)の印を描いた木版画が収録(95v)されていたり、また、18番書簡では、「日(Sol)」、「人(Homem)」、「畜生(Besta)」、「天(Ceos)」、「魂(Alma)」、「月(Lua)」といった単語の漢字の木版画がそれぞれのポルトガル語とともに紹介されていて、さらにひらがなも木版画にして解説がなされています(106v-107)。これらに加えて、25番書簡には、大内義長がトーレスらイエズス会士に教会の創建許可を与えた「大道寺裁許状」が、原文の日本文を再現した木版画とそのポルトガル語翻訳とともに掲載されています。本書に収録されているこれらの日本文は、ヨーロッパで刊行された書物において、日本文が掲載、紹介された最初の事例としても知られています。

「トーレスとフェルナンデスは、ザビエルが去った後の山口に残って、活動を続けた。山口ではその直後陶隆房(のちに晴賢)の謀反により領主大内義隆が自害し(天文20年9月1日)、翌年晴賢がトーレス等に大道寺の創建を許可して与えたのが、有名な大道寺裁許状である。稚拙な木版で、1570年コインブラ版イエズス会書簡集に初めて印刷され、その後74年ケルン版、1598年エヴォラ版の各書簡集にも収載されている。おそらく裁許状の写しが古くイエズス会士によってヨーロッパに送られ、これらの書簡集に日本語原文に訳文を付して掲載したものであろう。日本文がヨーロッパの印刷物に載った最初の例である。」
(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』岩波書店、1993年、37ページ)

 このようにそれまでの既存作品にはない空前の量と質を兼ね備えた画期的な「日本書簡集」として刊行された本書は、1575年にはスペイン語訳版(Iesús. Cartas que los padres y hermanos de la Compañía de Jesúus, que andan en los reynos de Japón escrivieron a los de la misma Compañía,…Alcalá: Juan Iniguez de Lequerica, 1575)が刊行されており、日本進出の中心を担っていたポルトガル、スペインの読者に特に大きな影響を与えたことが推察されます。また、後年になって新たな日本書簡集として刊行された通称「エヴォラ版日本書簡集」は、その前半部分がほとんど本書をそのまま再録する形で編纂されており、しかもこの「エヴォラ版日本書簡集」は日本書簡集の決定版として刊行後長きにわたって強い影響力を持ち続けたことにも鑑みると、本書の日本関係欧文図書としての重要性がいかに大きいかがわかります。

 しかし、本書はこうした高い重要性を有する一方で、世界中で現存するものがわずか10部にも満たない大変な稀覯書としても知られています。本書は1570年7月に初版初刷が刊行され、その直後の8月に同じ出版社から第二刷が早くも刊行されたという特異な出版事情を有していますが、それぞれの現在店主が確認できる所蔵状況を示しますと下記の通りとなります。

7月版:
①東洋文庫
②ゲッティンゲン州立大学図書館(Niedersächsische Staats- und Universitätsbibliothek)
③個人蔵?(ラウレスキリシタン文庫の解説に記載があるが、店主未確認)

8月版:
①ポルトガル国立図書館(Bibliotheca Nacional de Portugal)
②オーストリア国立図書館(Österreichische Nationalbibliothek)
③上智大学ラウレスキリシタン文庫
④筑波大学ベッソン・コレクション
⑤京都外国語大学付属図書館

 7月版と8月版との違いは、後者が前者にない書簡(上掲書簡番号60)を追加しているほか、タイトルページや本文全てが全く異なる版組がなされていますが、それ以外の内容はほぼ共通しています(奥付の記載事項で7月版と8月版のいずれであるのかを特定することもできます)。本書は、より完全な内容を備えた第二刷にあたる8月版です。

 本書はこのように1570年中に2度も刊行され、しかも1,000ページを越える大部の作品であるにもかかわらず、現存するものがこれほどまでに少ないことは極めて奇妙なことと言えます。一説(Donald F. Lach. Asia in the making of Europe. Book 2m Vol.1. Chicago, 1969. pp.675-676)によれば、本書は1,000部が刊行され、しかも通常の商業出版とは異なり無償で配布されたとも言われています。ここで言われている刊行部数が実際に正しいのかどうか、また無償で関係者に配布されたことが却って所蔵先に偏りを生むことになってしまったのか、など極端に少ない現存部数の謎に対する疑問は尽きませんが、いずれにせよ、本書は1,000ページを越える大部の著作であるにもかかわらず、上記のように現存するものが著しく少ない書物であることは間違いありません。

 本書は、刊行当時に近いものと思われる、何らかの書物の羊皮紙を用いた装丁が施されており、それらを残す形で非常に丁寧な補修がなされています。本書はタイトルページから目次にかけての箇所が欠損していますが、これらの欠損箇所は補修時に精巧なファクシミリで補填されており、内容としては完備した状態になっていて、研究、展示資料として活用するのに申し分のないコンディションにあると言えます。今では大変な稀覯書となってしまっている本書の詳しい来歴については不明ですが、20世紀冒頭のものと思われる、本書を含む蔵書売り立てに関する記事の切り抜きが見返しに貼られており、当時売りに出された数ある書物の中でも本書が格別の目玉作品として取り上げられ、極めて高額で競り落とされたことが紹介されています。

 日欧交渉史の最初期の様相を記した、日本関係欧文図書の最重要作品の一つに数えられ、しかも現在では大変な稀覯書として知られる作品である本書は、その良好な状態にも鑑みると、極めて貴重な1冊と言うことができるでしょう。


「本書はフランシスコ・ザビエルが日本で布教を始めた1549(天文18)年から1566(永禄9)年までの日本イエズス会書簡集で、出版年や出版地に因んだ「1570年、コインブラ版」、もしくは「コインブラ版日本イエズス会書簡集」の略称で通じるほど有名なものである。それは本書が日本で布教が始まった直後の数あるイエズス会書簡集のうち、最も正確な内容が書かれていることに起因する。当時日本で布教に従事していたイエズス会士は、通常ポルトガル語で書簡を書いており、本書は他の言語に翻訳されたものではなく、原文と同じポルトガル語で纏められ刊行されているため、誤りが少ないのである。
 この書簡集には1566年までしか収載されていないが、そこにはザビエルの日本通信をはじめ、ヴィレラ(Gaspar Vilela, ?-1572)師の京都における開教、九州各地における布教の進展、アルメイダ(Luis de Almeida, 1525-1583)修道士の五畿内旅行、フロイス(Luis Frois, 1532-1597)の状況など、初期の在日イエズス会士の苦労が綴られている。
 本書は、1598年になって同じくポルトガルのエヴォラ(Evora)において1588(天正16)年までの日本書簡集が極めて良質な内容で刊行されるまで、日本イエズス会書簡集の集大成と見なされており、フロイスが日本の初期イエズス会史として有名な”Historica de Japam"(『日本史』)を執筆する上での情報源となった。」
(京都外国語大学付属図書館『日本をヨーロッパに紹介した戦国期の宣教師たち』解題より)

刊行当時に近いものと思われる羊皮紙(なんらかの別の書物の一葉か)を用いた装丁を残す形で修復されており製本状態は極めて良好。
本書の来歴を示すと思われるDr. Silva Amandoの蔵書オークションと本書に関する記事(20世紀初頭の記事か?)の切り抜きが見返しに貼られている。
数ある蔵書の中でも本書が格別の目玉作品として取り上げられ、極めて高額で競り落とされたことが紹介されている。
タイトルページから本文直前の目次までは原紙が欠損しているが、精巧なファクシミリで補填されている。
目次冒頭箇所。膨大な分量を誇る本書の効果的な活用に欠かせない。
本文冒頭箇所。1)1549年1月20日、ゴア発、ザビエルより、ポルトガルのロドリゲス宛(1-) 右上部分の原紙が欠損しているが精巧な修復が施されている。
上掲裏面。
2)1548年11月29日、ゴア発、パウロ(アンジロー)より、ローマのロヨラ宛(5-)
8)1551年9月29日付、山口発、トーレスより、インドのイエズス会士宛(43-)
16)1555年10月16日付、平戸発、平戸の王(松浦隆信)より、ヌーネス宛(95-)
平戸藩主松浦隆信(Taquanobo, Rey de Firando)の印を描いた木版画
18)1555年9月23日付、平戸発、ガーゴ(Baltasar Gago)より、インドとポルトガルのイエズス会士宛(99-)
「日(Sol)」、「人(Homem)」、「畜生(Besta)」、「天(Ceos)」、「魂(Alma)」、「月(Lua)」といった単語の漢字の木版画がそれぞれのポルトガル語とともに紹介されている。
さらにひらがなも木版画にして解説がなされている。
25)1557年10月29日付、平戸発、ヴィレラより、インドとヨーロッパのイエズス会士宛(141v-)
大内義長がトーレスらイエズス会士に教会の創建許可を与えた「大道寺裁許状」が、原文の日本文を再現した木版画とそのポルトガル語翻訳とともに掲載されている。上掲箇所では「周防國吉備郡」とある。
「山口縣大道寺事(、)従西域来朝之」「僧(、)為佛法招隆可創建彼寺家」
「之由(、)任請望之旨(、)所令裁許之状如」「件(。)天文廿一年八月廿八日(、)周防介 御判」
「當寺住持」これに続くのは、26)1559年付、アルメイダより、ヌーネス宛(163v-)書簡である。
29)1559年10月5日付、豊後発、フェルナンデスより、ヌーネス宛(178v-)
32)1560年6月2日付、京発、ロレンソLorenço)より、豊後のイエズス会士宛(184v-)。ロレンソは元琵琶法師として知られる日本の信者で機内での布教に大いに貢献したことが知られる。
37)1561年8月17日付、堺発、ヴィレラより、インドのイエズス会士宛(238-)
43)1562年付、鹿児島の王(島津貴久)より、インド副王宛(298)
46)1563年4月17日付、横瀬浦発、フェルナンデス(Juan Fernandez)より、豊後のイエズス会士宛(306-)
60)1564年11月15日付、島原発、フロイスより、トーレス(Cosme de Torres)宛(409-)
67)1565年8月3日付、三箇発、フロイスより(497v-)
78)1566年10月20日付、志岐発、アルメイダより、イエズス会士宛(556-)
本文末尾。
本文に続いて収録されている正誤表。
最後に収録されている奥付。本書は1570年7月に初版初刷が刊行され、その直後の8月に同じ出版社から第二刷が早くも刊行されたという特異な出版事情を有しており、7月版と8月版との違いは、後者が前者にない書簡(上掲書簡番号60)を追加しているほか、タイトルページや本文全てが全く異なる版組がなされているが、それ以外の内容はほぼ共通している。上掲奥付に「Agosto」とあることからも、本書はより完全な内容を備えた第二刷にあたる「8月版」であることがわかる。