本図は、明治初期の海図系日本地図として最高峰の水準を示す、長辺170センチ、短辺135センチ強にもなる大型日本図で、1876年(明治9年)に東京で刊行されています。明治初期の日本における海図製作の黎明期を担った中心人物であった大後秀勝が製図した地図で、伊納図をはじめとした既存の国産地図、またイギリスやフランス等のさまざまな外国製海図も駆使して製作された地図で、陸上の情報を伝える「地図」と、海上の情報を伝える「海図」の両方が組み合わせられた非常にユニークな地図となっています。本図とほぼ同時期に、灯台建設主任技師のお雇い外国人であったブラントン(Richard Henry Brunton, 1841 - 1901)が『日本図(Nippon[Japan] 1876.)』をロンドンで刊行しており、本図はこの「ブラントン日本図」と双璧をなす、明治初期を代表する近代日本図として非常に重要な地図です。その一方で、(「ブラントン日本図」と同じく)現存するものが極めて少ないことでも知られる貴重な作品です。
この地図を手がけた大後秀勝は、紀州藩の出身で、幕府講武所で洋式兵術や測量製図を学び、明治3年以降は兵部省で製図を担当しています。明治4年の北海道測量に同行して以降、初代水路局長柳楢悦とともに日本近海の測量と、海図作成と印刷に長らく従事しました。今ではあまり知る人もありませんが、「明治初期の海図製図法を築きあげた最大の貢献者」(今井健三「英国海図をめざした明治初期の日本海図」日本地図センター『地図中心』553号、2018年所収論文)とまでも言われ、近年再評価が進んでいる海図製作者です。大後秀勝は、明治初期の日本海域の測量と技術移転に多大な貢献をなした英国測量艦シルヴィア号の測量士官ベイリーから、海図製図法について直接指導を受け、各種文献を読み込んで研究を重ねました。
「海図の作製は単に測量だけで完結するものではなく、この成果を地図として正確に、使い易く、美しく表現し、印刷をして利用者に提供することが重要な要素となる。しかし海図製図法の理論や技術、銅板彫刻・印刷の技術はこれまで全く経験がなく、新たな西洋式の考え方や技術を導入し、研究に努めるほかに方法はなかったのである。
1871(明治4)年9月に水路局の設置を見たが、近代的海図の製図法については当時、特に素養がある人材はおらず、局創設時から大後(おおじり)秀勝をその責任者として担任させた。大後秀勝は絵画の素養に優れ、1870(明治3)年3月海軍操練所に出仕、同11月海軍兵学権小属となり1871(明治4)年2月には北海道測量出張を命じられ軍艦春日に乗組み、柳楢悦らと共に北海道沿岸測量の製図に従事、その後は兵部省海軍部水路掛に移り、製図法の責任者として海図製図業務に専念する。
我が国の近代的海図製図法の導入は大後秀勝が当時、日本沿岸海域を測量中の英国測量鑑シルビア号の測量士官ベーリー大尉(C.W.Baillie)から直接、英式海図製図法の指導を受けたのが始まりである。」
(今井謙三「英国海図を模範として発展した日本海図:明治初期の日・英海図の表現法を比較して」日本地図学会『地図』第51巻第4号、2013年所収論文、5ページ)
大後は、当時最新であったイギリスの海図製図法の習得に尽力する一方で、狩野派絵師を採用して西洋式海図表現の研究と作成にあたらせたことでも知られており、その意味では、日本画の伝統的技術とイギリスの最新式海図製技術を結合することで、日本の海図制作の基礎を築いたとも言えるでしょう。
「一方、幕府崩壊後、幕府お抱えの狩野派絵師の一部は新政府海軍の製図掛として雇傭された。大後は絵画の素養を持った狩野家絵師の狩野守貴、狩野慶信や高橋惟凞(ただき)を採用して指導するとともに彼らに製図法を研究させ、製図法導入の基礎をなしたのである。
彼らは狩野派絵師として培った意匠、図案、デザインに優れ、西洋式製図に通じる感覚、技術を持ち合わせていたのであろう。その画法は海図のあちこちにうかがえる。次いで大後らは英国商社の筆者ヒンドレーやゼームス・イムレー社出版の航海学、海図の専門書や英国、オランダ水路部の海図を模範として表現法を研究した。」
(今井前掲論文)
本図は1876年(明治9年)に刊行されたものですが、不思議なことに水路部による公式図として刊行された地図ではなく、印刷会社などの記載もどこにも見当たりません。同年9月に大後秀勝は製図課長に任命されていますので、本図刊行前後の大後は公務で多忙を極めていたのではないかと推察されますが、なぜその様な時期にあえて公務外の仕事として、この地図が製作されることになったのか自体が不明であるという謎に包まれた地図でもあります(「例言」に大後の言はあるものの具体的とは言えず、製作、刊行の背景が読み解けるほどではない)。
この地図がユニークなのは、通常の日本図と違って日本だけを描くのではなく、日本周辺地域の位置関係を視覚的にきちんと認識できるよう、意識的に朝鮮、樺太、琉球、小笠原を図面に収めて描かれている点にあります。また、陸地情報を重視した「地図」と海洋情報を重視した「海図」の相違点を「例言」で明記しつつ、その両方を兼ね合わせた地図として製作されており、しかも「陸海全図」ではなく「海陸全図」と名付けられていることからも分かるように、どちらかというと海図的な側面が強い地図として製作されています。大後は水路部で製作された多くの海図に自身が深く携わっていましたので、こうした海図や、既存の伊能図をはじめとした日本の官製図を参照しつつ、自身が学習の過程で日頃から参照していた各種英外国製海図も駆使して本図を作成したようです。
さらに興味深いことに、本図において開港五港については分図が設けられていて、府県名、軍事拠点(6管区)、主要港、岬、島間の里程も別表で表示しています。また、電信局、灯台などの明治初期に重要なインフラ情報を収録するなど、政治的、社会的にも重要な各種情報を地図の中に盛り込もうとする姿勢は、同年に刊行された近代日本図の嚆矢として名高いブラントン日本図の地図編纂の狙いに共通のものが見られます(この点については、金坂清則「ブラントン日本図 Nippon [Japan]の表現内容とベースマップに関する考察」を参照)。
こうした地図が生み出されるためには、①地図製作者が、近代地図上において何が、どの様に描かれるべきかについての明確な思想と世界観を有していること、②その思想を地図上に表現するだけの(印刷含めた)技術力が存在すること、そして、③その様にして製作された地図を必要とする時代と社会状況、の全てが揃って初めて可能になるもの思われます。その意味で本図は、大後秀勝という傑出した地図製作者の存在と、彼が生きた時代状況が一枚の地図に凝縮されたいわば「時代の一枚」とも呼ぶべき象徴的な地図とも捉えられるでしょう。
本図は、このように明治初期の海図、地図製作における非常に重要な作品であると考えられる地図であるにもかかわらず、残念ながらその現存数は非常に少ない様で、国内の研究機関に収蔵されているものとしては、東京大学資料編纂所、国会図書館、明治大学(蘆田文庫)、神戸市立博物館の4点が確認できるのみとなっています。この不可解なまでの現存数の少なさは、下記に記されているような、水路局による公式海図以外の民間出版物を取り締まる動きに対応して、刊行同年中に大後自身によって絶版にされたという事情によるものではないかと思われます。
「水路局の刊行物については、同9年10月内務省から照会があったので、法制局の見解を質したところ、同局は明治7年の太政官布告(第110号)の精神により、海図の刊行は民業を禁じる政府の特別出版物であり、出版条例範囲外にある、という解釈を得た。(中略)
したがって、水路局以外で刊行される民間出版物の可否決定は、内務図書局の所管にもかかわらず、同9年12月から海図に類似する図類については一応水路局長の意見が求められた。当時民間著述の日本輿地図の類について審査するところがあったが、水深の記載されていない諸図についてはこれを許可することとした。この措置は第110号布告が有効であるのにもかかわらず、民間において英図を覆版し、あるいは粗略な測図を出版し、航海者の需要を満たしていた事実があったので行われたものである。大後秀勝著「大日本海陸全図」のごときは、漸長図法により水深も記載され、各港分図も付議されていたので、著作者を質したのであるが、すでに版権願い下げ絶版中とのことであった。」
(海上保安庁水路部(編)『日本水路誌:1871〜1971 HYDROGRAPHY IN JAPAN』(財)日本水路協会、1971年、62ページより)
本図は長年にわたって大切に保管されてきた1枚のようで、旧蔵者の1人であると思われる「中野仁右衛門」の印がありますが、店主にはこの人物を特定できていません。いずれにせよ、現存数が少ない状況にあって、非常に良好な状態で保存されている本図は、大変貴重な1枚と考えられます。
なお、本図は当時の時代背景に鑑みると銅板印刷によって制作されているものと思われがちですが、仔細に確認してみると、石版印刷によって制作されているものと推定されます。本図刊行当時の水路局では実用に耐えうる大図面での海図印刷技法の実用化に非常に苦労していたことが伝えられており、銅板印刷では小図面の海図しか製作できず、当時の水路局における石版印刷技術では精巧な海図印刷が不可能(同局における石版印刷の本格的な実用化は、柳楢悦の欧州視察帰国後の1879年以降とされる)であったと言われています。こうした時期にあって、極めて高度な石版印刷を駆使してこれだけ大図面の地図となっている本図は、その印刷技法や技術者といった面でも謎の多い地図であると言えます。
「明治9年(1876)3月に、海軍操練所時代から製図を担当していた大後秀勝は、琉球・小笠原諸島との「連脈」を一図として表示し、また「隣邦接界ノ形勢」を詳らかに表示する「日本全図」がほとんど刊行されていないことを遺憾とし、これらの「諸島ヲ列置シ隣邦ヲ聨接スル」日本図を刊行した(明治8年12月17日版権免許。)。
この図は、水路寮(水路局に名称替)の経緯度表に基づき、近代的海図と陸図の統合をめざしたという点で画期的な地図だった。「本邦」については、現況行政区画・新旧の軍事拠点・砲台のほか、通常ならば海図特有の記号であり陸図には表記されない、灯台・暗礁・浅瀬・潮流までも表記され、また新時代の「電信局」(工事開始は明治2年)も記述されている。さらに港分図には、海岸土質・水深線・錨地・灯船(灯台の機能を備えた船舶)・浮標・干潮時の岩礁まで、海洋情報が書き込まれていた。
「大日本海陸前図聨接朝鮮全国ならびに樺太」という図名は、大後の、①琉球・小笠原まで含んだ「大日本」を描き、「連邦接界」の詳細を描写し、②海図・陸図の統合をめざした企図をよく表現している。」
(杉本史子『絵図の史学:「国土」・海洋認識と近世社会』名古屋大学出版会、2022年、133頁より)
「(前略)大後秀勝は、筆者の管見によれば日本海軍水路部(正確には兵部省海軍水路局、海軍水路寮海軍省水路局、水路部等の呼称がある)海図第一号から、海図第百号迄の初期漢江図の70%以上も編図した人として記憶さるべき人という業績をもつのである。彼は又、我が国水路部草創期に初代と三代の製図課長(心得)をつとめ、海軍卿勝安房、二代製図課長伴鉄太郎等と旧幕府海軍の遺産と伝統を引き継ぎ、初代部長柳楢悦の軍政状の欠を補佐した人である。
更には英国測量鑑シルビアのチャールス・ウイリアム・ベーリーが海軍兵学寮教官団の一員として来日してからも終始その指導を仰ぐと共に、実弟井田道寿以下多数の、銅板石板印刷技術者の採用養成に務め、草創時における海図の部外への印刷発注を、英国同様独自の印刷所と能力を持つ様に早めに切り換えた先覚者であった。
加うるに退官後17年も、初代日本郵船海図販売所長として、海図の普及刊行にその一生を捧げているから、我々の永久に記憶せねばならない人いえるであろう。」
(斉藤俊夫「近代海図第一号の編図者 大後秀勝の生涯と業績について(1)」『月刊古地図研究』第62号、1975年所収論文、2頁より)