書籍目録

『1585年:ミラノと日本との出逢い:イタリアへの最初の日本使節の贈り物』

リッツオーニ(編)/ (天正遣欧使節)

『1585年:ミラノと日本との出逢い:イタリアへの最初の日本使節の贈り物』

1990年 ミラノ刊

Rizzoni, Gianni(ed.).

ANNO 1585: MILANO INCONTRA IL GIAPPONE. TESTIMONIANZE DELLA PRIMA MISSIONE GIAPPONESE IN ITALIA.

MIlan, Camera di commercio di Milano, 1990. <AB2020212>

¥27,500

20.5 cm x 29.5 cm, pp.[(1(Half Title.)-3(Title.)-8], 9-253, 1 leaf, Original publishers cloth with a dust jacket, stored in a slip case.

Information

天正遣欧使節についてミラノ滞在を中心とした貴重な論考や資料を収録

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「同日(1585年7月25日:引用者注)、派遣された日本人4人は、総督カルロ・ダラゴーナ・タリアヴィア(1530-99)−テッラノーヴァの侯爵−や騎兵500人の堂々たる隊列を従えたその他の要人とともにロンバルディア地方の中心地へとロマーナ門から華々しく入場、一段はブレラ宮殿内のイエズス会寄宿舎まで日本人たちに随行した。ここで若者たちは、1585年7月23日にミラノ大司教に就任し、7月28日に大聖堂で自分が初めて執り行うミサへと彼らを招いたガスパレ・ヴィスコンティ(1538-95)をはじめとする、複数の要人に迎えられた。
 ミラノで過ごした8日間、使節たちは最も重要なモニュメントや宗教建築物を訪ねた。その中でも彼らの興味を特に引いたのは、指揮官サンチョ・デ・パディヤ・イ・ゲヴァーラと訪れたスフォルツェスコ城であった。大砲の部品数種の鋳造なども見学しつつ、彼と一緒にまる1日を屈強な軍事施設の内部で過ごした。また、ヨーロッパ全土にミラノがその名をとどろかせていた、高級主工業製品を専門に作る工房数軒の見学もそれと同様に歓迎された。派遣された若き日本人たちに、地元で生産されている最も高級な芸術的製品の豪華で多種多様なサンプルが披露された。錦糸や銀糸で刺繍が施された絹の高級生地、巧みにカットされた天然水晶や貴石の高価な壺、銀や金の細工品、卓越した熟練の技が際立つパレード用の鎧。総督カルロ・ダラゴーナ・タリアヴィアは、使節たちに件4本及び金のベルトが附属した短剣4本を贈呈した。
 8月の2日、使節団はジェノヴァに旅立ち、6日後にはジェノヴァからバルセロナへと出発、このイベリアの港から日本に向けて帰国の旅路に就いた。」

「本手稿(本書後半にその複写が収録されている:引用者注)はミラノ出身の史料編纂者・地理学者であったウルバーノ・モンテが、自らの家柄であるモンティ家の歴史を、ミラノで起きた重要なできごとと織ませながら著した全4巻から成る膨大な著作の一部である。とりわけ本展に出品される第4巻は1585〜87年の間に生じた出来事を記録した年代記であり、その中に少年使節のイタリア訪問と、1585年7月25日にミラノに到着した彼らのミラノ滞在が大きく取り上げられている。
 紙葉64表から91裏に記載されている使節が果たした長い旅路に関する記述の導入部分には、日本と日本の風習に関する短い紹介文が挿入されているものの、同時代の他の年代記にもあるような誤謬や不正確な記述が散見される。
 アンブロジアーナ図書館所蔵のこの手稿本を唯一無二の存在たらしめるものは、著者自らが絵筆をとり水彩で描いた4人の少年使節と彼らに随行したディエゴ・デ・メスキータ神父(1512-1614)を表す5枚の挿絵の存在である。全員半身像で、少年使節は帽子を手にしながら西洋風の浅い襞襟付きの赤い衣服を装った姿で表されている。これらを真の意味で肖像画とは見做すことはできないものの、使節たちの姿は各々の特徴を捉えている。各人物像の上部には装飾紙片(カルトューシュ)の中に名前が、下部には各々の人となりと巡航路に関する手短な解説が挿入されている。例を挙げるならば、伊東マンショの胸像のある紙葉に描きこまれた装飾紙片には次のような記述がある。
 『ドン・マンショ、日向国王の甥、豊後国王ドン・フランシスコから派遣された、年齢二十歳』。
 使節団の公式大使であったこの青年の王家の出自は、左手に持つ王冠により強調されている。(後略」

(『遥かなるルネサンス:天正遣欧少年使節がたどったイタリア』東京富士美術館、2017年、141、173ページより)