本書は、シーボルトによる日本研究三大主著の一つに数えられる作品で、日本の植物について、全151枚の図版(本資料では100枚が現存)と、ラテン語による学名とその説明(記載)、フランス語による覚書が記されたテキストで構成されています。1835年から分冊形式での配本が開始され、最終的にはシーボルトの没後1870年の配本(本書では欠落)でもって完結した作品です。その多くの原図を川原慶賀が手がけた精細な筆致で鮮やかに表現されたリトグラフ印刷による図版と、ツッカリーニによる詳細なラテン語による個別の植物の解説、そしてシーボルトによる個々の植物の生態や日本での用いられ方といった文化的側面をも含んだユニークなフランス語による覚書で構成された本書は、日本の植物研究における画期的作品として、今なお高く評価されている作品です。
シーボルトは総合的な日本研究の一環として、商業(園芸)的にも医学、薬学的にも有用であると思われる日本の植物研究にも注力し、日本の蘭学者や本草学者にオランダ語論文を提出させたり、標本を集めさせるなど、あらゆる手段を駆使して日本の植物を網羅的に収集、分析しようとしました。ヨーロッパとはかなり植生が異なる日本の植物については、オランダ東インド会社関係者から早くから注目されており、17世紀末にはゲオルグ・マイスター(Georg Meister, 1653 - 1713)による『東洋の園芸師』(Der Orientalisch=Indianische Kunst= und Lust=Gärtner… Dresden, 1692.)が刊行されたことを嚆矢にケンペルやツンベルクといった来日経験のあるオランダ商館関係者による長い研究蓄積がありました。シーボルトはこれらの成果を踏まえた上で、近代植物学の知見に基づいた総合的な日本の植物研究を本書で展開することを試みており、ケンペルとツンベルクという自身の「前任者」にあたる2人を顕彰するモニュメントを掲載した特別なタイトルページまで製作しています。このタイトルページにはシーボルトによる彼らに対する敬意と共に、彼らの業績を完璧に凌駕するのだという強い自負心が感じられます。
本書には全体の序文にあたるようなテキストはなく、冒頭から個々の植物の図版とその解説が掲載されています。このテキストは、①表題(ラテン語)②解説(記載)③覚書の3つから構成されています。
「解説は各植物ごとの表題に続き、それぞれの植物の特徴が2〜8行程度で記述される。続いて、和名、漢名、当該植物を扱った文献が箇条書きで提示される。表題は学名で記されている。(中略)
キリの学名は、Paulownia tomentosa である。最初の語を属名、後の語を種小名という。キリやイチョウなどの種の学名はこの2つの語から構成されている。Paulownia も tomentosa もラテン語の文法にしたがって命名されている。前者は「パウロウナ」という意味であり、シーボルトと『日本植物誌』の出版を支援したオランダ国王ウィレム2世后妃アンナ・パウロウナ大公女への献名である。後者は、詰め物にすることから転じ「綿毛のある」の意味をもつ形容詞である。
植物園などでキリの学名を見ると Paulownia tomentosa (Thunb.) Steud. のように記されていることも多い。学名にない(Thunb.) Steud. はキリの学名の命名に関わった人物名である。カッコ内の Thunb. はツュンベルク(Carl Peter Thunberg)、Steud. はストイデル(Ernst Gottlieb von Steudel)を、命名者表記状の省略形で表したものだ。(中略)
続いて、当該植物の属性について、専門用語を用いた長文の記述がくる。冒頭の特徴の記述とこの長文の記述を読めば、その植物の姿かたちが仔細にわたり再現でき、図版はそれを助ける役割を果たしている。このように植物の特徴を文書で記述することを、生物学では記載という。新種の発表には記載が不可欠であり、ただ学名を与えただけでは学会に発表されたことにはならない。記載はその植物についての分類学研究の成果によるものであり、記載こそが研究者としての真骨頂でもある。(中略)
長文の記載の後は、当該植物の分布、生育地、開花期、結実期が簡素に提示され、さらに図版の説明が続く。その後に補足などが記される場合もある。それらに続くのが、シーボルト自身によったと考えられている、覚書きである。
覚書きだけは、ラテン語ではなくフランス語で書かれている。経済的にも広い範囲の読者層をえる必要があったともいう。覚書きはシーボルトが収集した見聞や文献によって書かれており、化政年間を中心とした民俗植物学、植物資源学の重要な資料である。また、シーボルトが覚書きをものすることを可能とした、当時の日本人の植物についての知的水準と、日本人学者の資質の高さを示すものとしても興味深い。資源として利用することを通じ、当時の人々が野生植物と身近に接していた様相も伝わる。」
(大場秀章(監修・解説)『シーボルト日本植物誌』ちくま学芸文庫、2007年、10-12ページより)
また、図版については、シーボルトの日本研究に多大な貢献を成した絵師である川原慶賀による図をもとにして、改変が施された上で原図が製作され、高精度のリトグラフ印刷によって鮮やかに表現されています。『日本植物誌』の図版には、シーボルトの他の著作と同じく、手彩色が施されたものと、そうでないものの2通りが存在しており、本書に収録されているのはその大半が無着色の図版ですが、一部彩色が施されたものも混じっています。この図版は、日本における本草学の伝統を踏まえた上で、精緻な観察を元に描かれた川原慶賀の表現と、博物学、植物学図譜の長い伝統をもつヨーロッパにおける表現形式とが融合されたものとも言える作品群で、その正確性(あるいは部分的な不正確さ)の精度だけでなく、東西の植物図譜をめぐる文化交流の表れとしても大変興味深いものです。
シーボルトの他の作品と同じく、『日本植物誌』は基本的にシーボルトの自費出版物として刊行されており、用いられる用紙、活字、図版の細部に至るまでシーボルトの強いこだわりが感じられる作品となっています。シーボルトは自身が手がける印刷物に対して並々ならぬ情熱を費やしており、造本全般の点においても優れた作品となることを心がけていました。『日本植物誌』をはじめ、シーボルトの作品の多くは、現在では複製版によってその全貌を見ることができますが、シーボルトの印刷物それ自身への強いこだわりに鑑みると、やはり原作には大きな固有価値があるといえます。
ただし、これも他のシーボルトの作品と同じく「日本植物誌』は、その完成度の高さへの飽くなき追求のゆえに、完成までに多大な時間を要することにもなってしまいました。本書は全2部構成で、1835年12月に第1部第1, 2章の配本が開始されましたが、毎年少しずつしか刊行されなかったため、10年近くをかけた1844年4月と8月にようやく第2部第5章までが刊行されました。しかし、これ以降は配本が中断することになってしまい、この第2部第5章がシーボルト生前最後の配本となり、ついにシーボルトは本書を完結させることなく世を去ってしまいました。その後シーボルト生前最後の配本から約25年を経てようやく1870年になって残る第2部第6章から第10章までがまとめて配本(本資料ではこの部分は欠落)されることになり、『日本植物誌』は一応の完結を見ることになりました。
本書はこうした長期間にわたる分売形式で販売されたことに加え、その莫大な製作コストの影響で、刊行部数自体が極めて限られることになってしまったため、現存する『日本植物誌』はあまり多くありません。また、美しい図版が大きな魅力であった『日本植物誌』は図版だけが切り売りされてしまうことも多く、完本が現在の古書市場で出回ることはほとんど皆見に近い状況になってしまっています。本資料は海外研究機関の旧蔵本のようですが、当初からこのような状態だったのか、製本が全くなされておらず、テキスト、図版が1枚ずつがバラバラの状態で保管されています。全151枚の図版のうち100枚が現存しており、テキストには欠落が多く見られますが、後半になるに従って図版、テキスト共に揃うような構成となっています。欠落があるとはいえ、現在ではその断簡でさえもほとんで目にすることが難しくなってしまった作品だけに、図版とテキストが比較的まとまった形で出現した本資料は、大変貴重なものと言えるでしょう。
【詳細な書誌情報】
Section 1: pp.[1(Title.), 2], 2 leaves(Illustrated Title., Illustrated Dedication.), pp.[3(Half Title.), 4], pp.[5], 6-8, [LACKING pp.9-14], pp.15, 16, [LACKING pp.17-34], pp.35, 36, [LACKING pp.37-62], pp.63-66, [LACKING pp.67-72], pp.73-76, [LACKING pp.77-96], pp.97-100, [LACKING pp.101-106], pp.107-118, [LACKING pp.119. 120], pp.121-124, [LACKING pp.125, 126], pp.127-150, [LACKING pp.151, 152], pp.153-166, [LACKING 167, 168], pp.169-176, [LACKING pp.177, 178], pp.179-189, [190], [LACKING 191-193].
Section 1: Numbered plates: T.1, [LACKING T.2-4], T.5, [LACKING T.6], T.7, [LACKING T.8-14], T.15, [LACKING T.16], T.17-20, [LACKING T.21], T.22-24, [LACKING T.25], T.26, 27. [LACKING T.28-32], T.33, [LACKING T.34-38], T.39, 40, [LACKING T.41-43], T.44. [LACKING T.45-48], T.49, 50, [LACKING T.51-53], T.54, [LACKING T.55], T.56-58, [LACKING T.59], T.60-100.
Section 2: pp.1-24, [LACKING pp.25, 26], pp.27-40, [LACKING pp.41, 42], pp.43, 44, [LACKING pp.45-89].
Section2: Numbered plates: T.101-T.126, [LACKING T.128-150].
【現存する図版(全151枚中100枚現存)】
*植物名は大場前掲書による。
1)T.1(シキミ)
2)T.5(レンギョウ)
3)T.7(マルバウツギ)
4)T.15(マルキンカン)
5)T.17(サネカズラ)
6)T.18(キブシ)
7)T.19(トサミズキ)
8)T.20(ヒュウガミズキ)
9)T.22(ユスラウメ)
10)T.23(エゴノキ)
11)T.24(クロキ)
12)T.26(イワガラミ)
13)T.27(バイカアマチャ)
14)T.33(ツクシヤブウツギ)
15)T.39(ヤマグルマ)
16)T.40(ヤマグルマ)
17)T.44(フジ)
18)T.49(センノウ)
19)T.50(サンシュユ)
20)T.54(ツルアジサイ)
21)T.56(ヤマアジサイ)
22)T.57(ヤマアジサイ)
23)T.58(アマチャ)
24)T.60(ガクウツギ)
25)T.61(ノリウツギ)
26)T.62(コアジサイ)
27)T.63(タマアジサイ)
28)T.64(ギョクダンカ)
29)T.65(クサアジサイ)
30)T.66(クサアジサイ)
31)T.67(ゴンズイ)
32)T.68(ミヤマシキミ)
33)T.69(ユキヤナギ)
34)T.70(シジミバナ)
35)T.71(ギョリュウ)
36)T.72(フサザクラ)
37)T.73(ケンポナシ)
38)T.74(ケンポナシ)
39)T.75(フジモドキ)
40)T.76(ムベ)
41)T.77(アケビ)
42)T.78(ミツバアケビ)
43)T.79(アカメガシワ)
44)T.80(モッコク)
45)T.81(サカキ)
46)T.82(ツバキ)
47)T.83(サザンカ)
48)T.84(サンシチソウ)
49)T.85(シャリンバイ)
50)T.86(ハナイカダ)
51)T.87(ハマビワ)
52)T.88(クスドイゲ)
53)T.89(マテバジイ)
54)T.90(ニワウメ)
55)T.91(ツルニンジン)
56)T.92(ツルアジサイ)
57)T.93(ハマボウ)
58)T.94(イスノキ)
59)T.95(ミツバウツギ)
60)T.96(ヒメシャラ)
61)T.97(ビワ)
62)T.98(ヤマブキ)
63)T.99(シロヤマブキ)
64)T.100(イワガラミ / ハマビワ / クスドイゲ)
65)T.101(コウヤマキ)
66)T.102(コウヤマキ)
67)T.103(コウヨウザン)
68)T.104(コウヨウザン)
69)T.105(カラマツ)
70)T.106(ツガ)
80)T.107(モミ)
81)T.108(ウラジロモミ)
82)T.109(モミ)
83)T.110(エゾマツ)
84)T.111(ハリモミ)
85)T.112(アカマツ)
86)T.113(クロマツ)
87)T.114(クロマツ)
88)T.115(ゴヨウマツ)
89)T.116(チョウセンマツ)
90)T.117(イトヒバ)
91)T.118(コノテガシワ)
92)T.119(アスナロ)
93)T.120(アスナロ)
94)T.121(ヒノキ)
95)T.122(サワラ)
96)T.123(ヒムロ)
97)T.124(スギ)
98)T.124b(スギ)
99)T.125(ネズミサシ)
100)T.126(イブキ)
【配本(章)ごとの現存と欠落状況】
*配本情報については、下記文献589ページ(とその前後)を参照。
Stafleu, Frans Antonie / Cowan Richard S.
Taxonomic literature : a selective guide to botanical publications and collections with dates, commentaries and types.
Volume v: Sal-Ste. 2nd ed.
Bohn / Utrecht / Hague / Boston, 1985.
第1部
第1ー2章(1835年12月配本)
・タイトル
・イラスト・タイトル
・イラスト献辞
・仮タイトル
・テキスト:pp.[5]-8, 15, 16, 18-20.(pp.9-14, 21-28欠落)
・図版:T.1, T.5, T.7(T.2, T.3, T.6, T.8-10欠落)
第3ー4章(1836年1月配本)
・テキスト:pp.35, 36(pp.29-34, 37-48欠落)
・図版:T.15, T.17-20(T.11-14, T.16欠落)
第5章(1837年あるいは1838年初頭配本)
・テキスト:pp.63-66(pp.49-62欠落)
・図版:T.22-24, 26, 27(T.21, T.25欠落)
第6章(1838年4月配本)(全て欠落)
・テキスト:(pp.65-72欠落)
・図版:(T.28-31欠落)
第7ー8章(1839年2, 3月配本)
・テキスト:pp.73-76(pp.77-84欠落)
・図版:T.33, T.39, T.40(T.32, T.34-38欠落)
第9ー10章(1839年4月配本)
・テキスト:pp.97-100(pp.85-96欠落)
・図版:T.44, T.49(T.41-43, T.45-48欠落)
第11ー12章(1839年後半配本)
・テキスト:pp.107-116(pp.101-106欠落)
・図版:T.50, T.54, T.56-58, T.60, T.61(T.51-53,. T.55, T.59欠落)
第13章(1839年12月配本)
・テキスト:pp.117, 118, 121-122(pp.119, 120欠落)
・図版:T.62-65(完備)
第14章(1840年)
・テキスト:pp.123, 124, 127-132(pp.125, 126欠落)
・図版:T.66-71b(完備)
第15章(1840年)
・テキスト:pp.133-140(完備)
・図版:T.72-76(完備)
第16章(1841年2月)
・テキスト:pp.141-150(完備)
・図版:T.77-80(完備)
第17ー18章(1841年1, 6月配本)
・テキスト:pp.153-160(pp.151, 152欠落)
・図版:T.81-83(完備)
第19ー20章(1841年6月配本)
・テキスト:pp.161-166, 169-176, 179-[190](pp.167, 168, 177, 178, 191-193欠落)
・図版:T.84-100(完備)
第2部
第1章(1842年配本)
・テキスト:pp.1-12(完備)
・図版:T.101-105(完備)
第2章(1842年配本)
・テキスト:pp.13-20(完備)
・図版:T.106-110(完備)
第3章(1842年後半配本)
・テキスト:pp.21-24, 27, 28(pp.25, 26欠落)
・図版:T.111-115(完備)
第4章(1844年4, 8月配本)
・テキスト:pp.29-34(完備)
・図版:T.116-120(完備)
第5章(1844年4, 8月配本)
・テキスト:pp.35-40, 43, 44(pp.41, 42欠落)
・図版:T.121-126(完備)
第6章ー10章(シーボルト没後1870年4月配本)(全て欠落)
・テキスト:pp.45-89.
・図版:T.127-150