書籍目録

『エリク(キリル)・ラクスマン:その生涯と航海、調査と書簡集』

ラガス / (アダム・ラクスマン)/ (大黒屋光太夫)

『エリク(キリル)・ラクスマン:その生涯と航海、調査と書簡集』

(フィンランド自然協会による「フィンランドの自然と人々に関する知識への寄与叢書第34巻) 1880年 ヘルシンキ刊

Lagus, Wilh(elm).

ERIK LAXMAN, HANS LEFNAD, RESOR, FORSKINGAR OCH BREFVEXLING.

Helsingfors(Helsinki), Finska litteratur-sällskapets tryckeri, 1880. <AB20211731>

¥55,000

8vo (14.2 cm x 22.0 cm), Original front cover, series Title., pp.[I(Title.)-III], IV-IX, 1 leaf, pp.[1], 2-331, 1 leaf, pp.[1], 2-146, 1 leaf, 3 colored maps, Modern marble card boards.
[NCID: BA53937932]

Information

日本の漂流民である大黒屋光太夫の帰国のために尽力したキリル(ラクス)・ラクスマンの詳細な伝記作品、日露交流の端緒を開いた息子アダムが1793年に来日した経緯や航海、来日時の様子、帰国後の動向に関する詳細な記事を収録

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「漂着地であるアリューシャン列島のアムチカ島での4年に及ぶ生活を通して、光太夫は先住民とロシア人との関係を冷徹に観察した。カムチャッカでの一年弱の滞在中もロシア語の習得や帰国のための情報収集に余念がなかった。極寒の凍てつく大地を横断し、イルクーツクにたどり着いた。そこで出会ったのが生涯の恩人となるキリル・ラクスマンである。ペテルブルク科学アカデミーの会員であったラクスマンの周旋により、ペテルブルク近郊でエカチェリーナ2世に拝謁し、帰国の嘆願はついに受け入れられた。
 1792年、光太夫はキリルの息子であるアダム・ラクスマンによって根室に無事送り届けられた。この遣日使節団の目的は光太夫ら漂流民の送還を名目とする通商関係の樹立であった。日露最初のかいだんは1793年、松前藩浜屋敷にて日露双方の外交儀礼に沿って行われた。幕府側は国法に沿って対外関係の新たな参入を拒否する態度を示す一方、伸牌を手渡すことで長崎来航の許可を与え穏便な処断を試みた。しかし、これがのちのレザノフの来航と北方紛争の火種となった。
 光太夫と磯吉はときの将軍徳川家斉にも招かれ、ロシアでの漂流生活を報告した。将軍に仕えた桂川甫周や大槻玄沢をはじめとする蘭学者らの好奇心は留まるところを知らず、光太夫と磯吉の後述は詳細に記録された。彼らを送り届けたエカチェリーナ女帝の人気も高まり、肖像画も出回ったという。江戸では一種のロシアブームが起こった。ラクスマン来航によりロシアのイメージは『赤蝦夷や赤鬼の住む国から賢帝の支配する文明国』へと変わったが、畏怖の念からは同時に脅威も芽生えることになった。」
(牧野元紀「序論:本書刊行のねらい」東洋文庫・生田美智子監修 / 牧野元紀編『ロマノフ王朝時代の日露交流』勉誠出版、2020年、11-13ページより)


「1730年、第一次探検を終えたデンマーク出身の海軍士官ヴィトゥス・ベーリングはアンナ・ヨアノヴナ女帝に提出した手記の中で、「カムチャツカでナンパした日本人たちを日本へ送還し、この機会を利用して日本を訪問する」ことを提案した。翌1731年、べーリング第二次探検隊の別働隊として日本への航路探索に向かったシュパンベルグ隊(元文の黒船)に、元老院は「もしカムチャツカ漂着の日本人があれば、友好の証しとして本国へ送還する」旨の指令を出した。漂流民送還という人道的理由を口実に、日本側に通称を求める。これが、以後のロシアの対日交渉の基本方針となる。
 ロシア第1回遣日使節アダム・ラクスマンがロシアへ漂流した伊勢神晶丸の大黒屋光太夫等を送って根室に来航したのは、寛政4年(1792)9月のことである。ラクスマンはロシア皇帝エカテリーナ二世の勅命に従い、漂流民送還を名目としてシベリア総督ピーリ名義の修好要望の書簡を持参し、通商を求めた。
 幕府から派遣された宣諭使2名は漂流民引き取りには応じたが、書簡の受け取りを拒否し、この問題は長崎のみで交渉しうるとして、信牌(長崎入港許可証)を与えた後、帰国させた。」

「大黒屋光太夫(1751-1828)は伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の船頭。1783年、江戸へ向かう船が嵐のため漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。露都ペテルブルグで皇帝エカテリーナ二世に謁見して帰国を願い出、漂流してから約9年半を経て、寛政4年(1792)にラクスマンと共に帰国。17人いた乗組員のうち、生きて祖国の土を踏んだのは2人だけになっていた。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として蘭学発展に寄与した。」
(斉藤智之編『高田屋外交:ゴロヴニン事件解決後200周年記念版』高田屋顕彰館・歴史文化資料館、2014年、20-21ページより)


「18世紀末、日露関係を樹立しなければならない客観的な必要性が生じた。太平洋の大国となったロシアは日本の隣国となり、両国国境の接近によって、未然に防ぐか、あるいは事後外交ルートで解決しなければならないような衝突が起きる可能性があった。ロシア極東地方や太平洋岸領有地住民および日本北方諸地域住民の商品通貨関係の発展と需要増加などによって相互に有利な商品交換の諸条件がそろっていた。しかしこれは日本の外界との隔離政策で妨げられていた。
 ロシアの支配層の間ではロシアに来た日本人を帰国させることを口実にして、使節団を日本に派遣するということが検討されるようになった。1782年12月、商人彦兵衛の持船神晶丸が伊勢の白子の浦を出帆し、米その他の商品を積んで江戸に向かった。駿河の沖合で嵐にあい、舵と帆柱を失って公海に押し流され、8か月の漂流の後、1783年8月6日、アムチトカ島(アリューシャン列島)で難破した。16人が助かったが、1785年まで生き延びたのは船長光太夫を含めて9人だけだった。1785年、この島の近くで商人ネヴィジモフ、コサックのサポジニコフその他の乗った船アポストル・パーヴェル号がニジネムカムチャツカからの航海上で難破した。ロシア人は両船の破片で大型の船を作り、1787年、日本人を伴ってニジネムカムチャツカへもどった。ここでは長期の苦難で弱りきった日本人に衣服を与え、療養もさせたが、それでも3人が死んでしまった。1788年、市長はカムチャツカ司令長官の命令で、日本学校の生徒オチェレジンをつけて日本人たちをオホーツクへやり、翌1789年、イルクーツクへ連れて行った。I・V・ヤコビ・イルクーツク・コルイヴァニ総督は日本人の生活費を支出し、このうちもっとも読み書きのできるものたちを日本語の教師に任命した。
 光太夫はイルクーツクでキリル(エリク)・グリゴリエヴィチ・ラクスマン教授と知り合いになった。ラクスマンはウダからアムール加工に出、それからサハリン、蝦夷、クリル諸島それに日本を訪れようとしていた。1790年4月20日、K・ラクスマンは光太夫から得た手書きの日本地図を科学アカデミーに送付する一方、事実上外相の役を果たしていたA・A・ベズボロトコに日本のオランダ人と中国人との貿易に関する情報および自分の息子の1人を団長とする対日使節団派遣案を提出した。これより先、1790年2月13日、新任のイルクーツク・コルイヴァニ総督I・A・ピーリもシュレホフ=ゴリコフ会社の計画を支持して使節団派遣案を提示していた。
 1791年2月、ラクスマン教授はエカテリナ二世の命令で、光太夫、小市、磯吉、庄蔵、新蔵の5人をペテルブルグへ送りとどけた。日本人の話では、彼らは大層よいもてなしを受けた。立派な部屋をあてがわれ、豊富な食事を出され、暖かい衣服、綿やビロードのガウンを縫ってもらい、博物館や天文台を見学し、ペテルホフとパーヴェルの後継者や貴顕の宮殿を案内してもらい、外国大使の接見にまで出たということである。
 1791年9月13日、エカテリナ二世はI・A・ピーリに「対日通商関係樹立に関する」勅命を下した。エカテリナ二世は、日本人救助と官費による彼らの扶養を指摘して、「これらの日本人の本国帰還の機会は同国と通商関係を結ぶのぞみをいだかせるものである。海路至近距離にあり、しかも隣国であると言うことから見て、ロシアはいかなる欧州の国民よりも都合が好い」と強調した。この勅命の土台になったのはK・ラクスマンの案であった。
 エカテリナ二世はI・A・ピーリ提督の名で探検隊を派遣するように命じた。それは日本が拒否した場合に自己の権威がそこなわれぬためと、ロシア極東政策の積極化に対して英蘭両国の疑惑を招かぬためにこの措置に半公式的性格を与えるためであった。ピーリはイルクーツクの大商人の中の誰かに個人的に日本へ行くこと、または「かの国の住民に必要な品で、かつそれを売却して日本の品物を買い付け、よってもって今後のわが国の対日通商計画に役立ち得べき優良品を一定量持った」手代を日本へ派遣することについて了解をとることになった。日本人たちはK・ラクスマンの息子と帰国することになった。K・ラクスマンの息子には日本への途次と日本滞在中に学術的観察を行うことと、日本の対外貿易に関する情報を収集する仕事が課せられた。ピーリはまた、キリスト教徒になった2人の日本人(ニコライ・ペトロヴィチ・コロトゥイギンこと新蔵と、フョードル・スチェパノヴィチ・シトニコフこと庄蔵)をイルクーツクの国民学校に残して官費で扶養し、贈り物をして「対日通商関係樹立に際し、きわめて重要たるべき」日本語の教師として使い、「将来、日本国とののぞましき関係生ぜし時、通訳をつとめ、またそれに必要な日本語の普及に当たり得べき」中学生5, 6名を両名につけて勉学させることなどを指示された。
 1791年10月初め、K・ラクスマン教授に伴われた日本人たちはエカテリナ二世の謁見を受けた。女帝は彼らに対日貿易の条件をたずね、露日通商条約締結は双方にとってひとしく有益であろうが、日本政府がこの提案を拒むなら、あえて固執はしないつもりだと述べた。」
(E・ファインベルグ / 小川政邦訳『ロシアと日本:その交流の歴史』新時代社、1973年、73-76ページより)