書籍目録

『東洋遍歴記』

ピント

『東洋遍歴記』

(第2版) 1678年 リスボン刊

Pinto, Fernam Mendez.

PEREGRINAC,AM DE FERNAM MENDEZ PINTO, E POR ELLE ESCRITA: QVE CONSTA DE MVITAS, E MVITO estranhas cousas que vio, & ouvio no Reyno da China, no de Tartaria, no de Pegeu, no de Martavão, & em outros muitos Reynos, & senhorios das pares Orientaes, ...

Lisboa, Antonio Craesbeeck de Mello, 1678. <AB20211711>

Sold

(Second ed.)

4to (19.0 cm x 28.0 cm), Title., 1 leaf, pp.1-211, 213[i.e.212], 214[i.e.213], 214-296, 298[i.e.297], 298-311, NO LACKING PAGES, pp.340-390, NO LACKING PAGES, pp.421-442, LACKING 2 LEAVES(supplied with 2 facsimile leaves, pp.443-445), Contemporary embossed full leather, skillfully restored.
刊行当時のものと思われる装丁だが、丁寧な修復と再製本が施されており、欠落していた末尾2葉(索引)もその際にファクシミリで補われたものと思われる。[NCID: BB24284628]

Information

1537年から1558年にかけて日本を含む東洋各地を文字通り遍歴したポルトガル商人が綴った冒険奇譚

 本書は『東洋遍歴記』の邦訳タイトルで知られる、ポルトガルの冒険商人ピント(Fernão Mendes Pinto, 1509? - 1583)の作品で、1614年にポルトガル語で刊行された初版に次いで、1678年に刊行された第2版に相当するものです。ピントは1537年から1558年にかけて日本を含む東洋各地を文字通り遍歴し、その間に見聞したさまざまな出来事をもとにして帰国後に本書を執筆しました。『東洋遍歴記』は、「嘘つきピント」とも言われていることから分かるように、その記述が虚飾ない混ぜになっていることや、過度な誇張が多いことでも知られる作品ですが、16世紀後半に実際に東洋各地を見聞した人物による貴重な証言として重要な作品と見做されており、またある種の優れた物語、文学作品としても再評価が進んでいる名著と言える作品です。

 本書については注釈も含めた優れた邦訳書(岡村多希望子訳『東洋遍歴記1〜3』平凡社、1979-80年)があり、訳者による「はしがき」と「解説」に置いて、その特徴や意義についても詳細に解説されています。

「ここに訳出する『遍歴記』の正式標題は、「フェルナン・メンデス・ピントの遍歴記。西洋の我らの地方ではきわめてわずかにしか、あるいは全く知られていないシナ王国、タルタリア王国、一般にシャムと呼ばれるソルナウ王国、カラミニャン王国、マルタヴァン王国、東洋その他の多くの王国・領国で見聞した沢山のすこぶる不思議なことを語る。そしてまた、彼およびその他多くの人たちの身に起こった多くの風変りな事件について語る。巻末に、かの東洋地方の唯一の光であり輝きであり、イエズス会の東洋地方の全体の上長たる聖なるメストレ・フランシスコ・シャヴィエル師のいくつかの事績と死について簡単に述べる。」であるが、本訳書では『東洋遍歴記』という標題にした。
 著者フェルナン・メンデス・ピントは、16世紀中葉、東洋にあって活躍したポルトガルの冒険商人。1509年から11年のあいだに生まれ、当時のポルトガル青年の例に漏れず一攫千金を夢みてインドに向かい、マラッカを拠点にスマトラ、モルッカ、シャム、シナ、日本の間を何度となく往復し、巨万の富を積みあげた。東洋布教中のフランシスコ・シャヴィエルの人柄に触れ、イエズス会士と親交を深めたことにより、帰国を前にして突如回心におもむき、全財産を棄ててイエズス会に入会し、インド副王使節としてイエズス会士とともに日本の豊後を訪れたが、間もなく還俗して帰国、リスボン近くのアルマダに隠棲して余生を本書の執筆に捧げ、1583年に没した。
 本書は、彼が祖国をあとにした1537年から帰国するまでの21年間にわたる東洋での生活を自伝風に綴ったものであり、「13回捕虜になり17回身を売られた」という波瀾万丈の自己の半生を語ると同時に、訪れる先々で見聞した異国の風俗、習慣、宗教祭儀、歴史、地理、事情について叙述し、また東洋の諸処で海賊として、傭兵として、あるいは王の宮殿で高官として、活躍していたポルトガル人たちの姿を描いている。
 初版後間もなくスペイン語に訳され、以後ヨーロッパ各国語に翻訳されて広く読まれたが、事実を書いた旅行記というよりも、荒唐無稽な冒険譚とみなされ、著者ピントは大嘘つきの代名詞として通っていた。従来のピント研究は、その記述内容の信憑性を論じることに終始していたが、最近では、『遍歴記』は事実(著者の体験、伝聞・文献による知識)とフィクションを巧みに織りまぜた文学作品であるということに研究者の意見はほぼ一致しており、大航海時代の側面史としての価値もさることながら、純粋な文学作品として評価しようとする方向がみられる。
 本書の成稿の時期は1578年ごろと考えられているが、リスボンではじめて刊行されたのは1614年、著者の死の31年後であった。ポルトガル語は前世紀(19世紀のこと;引用者注)までに6版を数え、今世紀(20世紀のこと;同)に入ってからは、ほぼ10年に一度の割で新版が現れており、初版以来現在まで全部で12版にのぼる。」
(前掲訳書、「はしがき」i-ii頁より)

 本書は全226章で構成されている大著ですが、随所においてピントが幾度も訪れた日本のことや、ザビエルについての言及があり、欧文日本関係図書としても重要な作品となっています。邦訳書に従いながら、日本関係記事を抽出してみますと、少なくとも下記の記事を見出すことができます。

第132章:どのように私たちはウザンゲの町を発ったか、最初の日本の地である種子島(Tanixumâ)に着くまでに私たちの身に起こったことについて(pp.196)
第133章:どのように私たちは種子島に上陸したか、島の領主との間に生じたことについて(pp.198)
第134章:鉄砲を発射するのを見て、ナウタキン(Nautaquim)が私たちの仲間の1人に払った敬意について、そのことから起こったことについて(pp.2199
第135章(本書では誤って第132章とされている):どのようにナウタキンは私を豊後(Bungo)王に会わせたか、王のもとに着くまでに私が見、経験したことについて(pp.200)
第136章:この町で王の息子の身に起こった事件について、そのために私に降りかかった危険について(pp.203)
第137章:この少年の事件で更に私の身に生じたことについて、どのように私は種子島行きの船に乗り、そこからリャンポーに行ったか、リャンポー到着後私の身に起こったことについて(pp.205)

第200章(本書では誤って第199章とされている):どのように私はペグ王国からマラッカ行きの船に乗り、マラッカから日本に行ったか、そこで起こった奇妙な事件について(pp.350)
第201章:王の子である王子が父の訃報に接して行ったこと(pp.353)
第202章:どのように私たちはこの府中(Fucheo)の町から山川(Hiamangô)の港に移ったか、そこで私たちの身に起こったことについて

第208章:どのようにメストレ・フランシスコ師はマラッカから日本へ行ったか、そこで生じたことについて(pp.367)
第209章:どのようにこの至福なる神父は私たちの船のいた日出(Finge)の港に着いたか、豊後王に会いに府中の町に行くまでに生じたことについて(pp.369)
第210章:最初の謁見の日に、豊後王がメストレ・フランシスコ師に払った敬意について(pp.371)
第211章:神父が王のもとを辞してシナ行きの船に乗ろうとした時、どのように数日引き止められたか、神父が坊主たち(Bonzos)と交わした幾つかの論争について(pp.374)
第212章:乗船に関して、この至福なる神父とポルトガル人との間に生じたことについて、坊主のフカラン殿(Fucarandono)と交えた2度目の論争について(pp.377)
第213章:シナ行きの船に乗るまでに、神父たちとこれらの坊主たちとの間に生じたその他すべてのことについて(pp.379)
第214章:日本からシナに行く時に私たちが遭遇した大嵐について、どのようにこの神の僕の祈りでその大嵐から助かったか(pp.383)
第215章:シナに着くまでにこの至福なる神父の身に起こったさまざまな事件について、彼の死について(pp.385)
第216章:遺体が埋葬され、マラッカへ、マラッカからインドへ運ばれたやり方について(pp.389)
第217章:どのように聖なる遺体がマラッカから来た船から降ろされたか、ゴアの波止場についた折の華麗さについて(pp.390)
第218章:聖なる遺体に対してゴアで行われた出迎について、そこで起こったその他のことについて(pp.421* 本書ではpp.391からpp.420まではページ付が飛んでいる。)
第219章:どのようにメストレ・ベルシオル師は日本に向けてインドを発ったか、マラッカを出なかった理由、マラッカでこの時に起こったことについて((pp.423)
第220章:どのように私たちは日本に向けてマラッカを発ったか、コーチシナのシャンペイロ島に着くまでに生じたことについて、そこで見たものについて(pp.424)
第223章:どのように私たちは豊後国に着いたか、そこで王との間に生じたことについて(pp.430)
第224章:豊後王がインド副王の使節を迎えたやり方について(pp.433)
第225章:どのようにメストレ・ベルシオル師は豊後王に謁見したか、王との間に生じたことについて、私が王に伝えた伝言に対して王が寄越した返事について(pp.434)
第226章:関(Xeque)港を出発後インドに着くまでに、更にインドから本国に着くまでに、私の身に生じたことについて(pp.436)

 ざっと章題から抽出するだけでもこれだけの日本関係記事を見出すことができます。また日本が主題でなくとも日本に言及する箇所は多々あり、本書における日本関係記事は大変豊富であるということができるでしょう。ピントはザビエルのアジア宣教に感激して全財産をイエズス会に寄付した上で入会していた時期があり、その後何らかの事情で同会を退会していますが、イエズス会による日本宣教の最初期の活動に関与した人物による、イエズス会の公式の立場に縛られない視点から記された日本関係記事は(時に事実に反する記述が散見されるとしても)大変貴重なものと言えます。

 本書は、上掲にあるように著者の没後30年以上も刊行されませんでしたが、その手稿はイエズス会関係者も含めてよく読まれていたようで、1618年にポルトガル語で初版が刊行されてからは、スペイン語訳を中心として、オランダ語、英語、フランス語に翻訳され、そのいずれもが版を重ねることで広く、長く読み継がれる作品となりました。ただ不可思議なことに、肝心のポルトガル語原著は初版刊行以降、第2版にあたる本書が1678年になるまで、長らく再版されることがなかったようです。現在では、スペイン語訳版をはじめとした翻訳版に比べて、ポルトガル語原著は初版、第2版のいずれもが希少になっており、入手が難しくなってしまっています。


「ピント(1509頃-83)は1537年から21年もの間アジアやアフリカを遍歴したポルトガルの旅行家で商人。本書は、その波乱に満ちた生涯で見聞したところをまとめたものである。
 本書において種子島に漂着した3名のポルトガル人のうちの1人が自分であると称すなど史実に合わない点も多いが、1544(天文13)年、1546年の日本渡航、1551年のザビエルとの面会、その後ザビエルの葬儀を見てイエズス会に入会し、1566(弘治2)年イエズス会士として来日したが間も無く脱会し、離日したのは事実と考えられている。」
(巽善信 / 神崎順一編『天理大学附属天理参考館・天理図書館創立90周年特別展 大航海時代へ:マルコ・ポーロが開いた世界』天理大学出版部、2020年、153ページ)