書籍目録

『1500年から1574年にかけて世界で生じた出来事についての短報、並びに1570年から1586年までの同増補』

スリウス / ミヒャエル / (天正遣欧使節)

『1500年から1574年にかけて世界で生じた出来事についての短報、並びに1570年から1586年までの同増補』

(増補改訂版) 1586年 ケルン刊

Surius (Surium), Laurentius (Laurentium). / Michaelis ab Isselt(Michael von Isselt).

COMMENTARIVS BREVIS RERVM IN ORBE GESTARVM, AB ANNO SALVTIS M. D. VSQVE IN ANNVM M.D. LXXIIII….Nunc verò recèns ab anno M.D. LXXX auctus, & ad annum M.D. LXXXVI. Opera & Studio…Cum INDICE copiosissimo.

Coloniae(Köln), Geruinum Calenium / Haredes Iohannis Quentel, M. D. LXXVI.(1586). <AB20211705>

Sold

(Enlarged edition)

8vo (10.3 cm x 16.2 cm), Title., 47 leaves(2 dedications & index), pp.1-206, 707[i.e.207], 208-267, 262[i.e.268], 269-343, 340[i.e.344], 345-561, 560[i.e.562], 563-682, 583[i.e.683], 684-1199, Contemporary decorative pig skin.
本文中の一部に線引きと書き込みが見られるが、良好な状態。

Information

天正遣欧使節に関する詳細な記事を含む増補改訂が施された決定版

 本書は、リューベック出身のカルトジオ会修道士の著作家である著者によって執筆された16世紀の年代記です。タイトルが示すように1500年から1574年にかけてヨーロッパを中心とした世界各地で生じた出来事を記した大部の著作で、大変興味深いことに日本についての記述が散見される作品です。タイトルが示すように、本書は1570年から86年までの年代記を異なる著者が継続して執筆して増補として掲載しており、その結果、1500年から1586年に至るまでの年代記として実に1200ページ近い大部の作品となっています。この増補部分にも、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世と謁見を果たした天正遣欧使節に関する出来事が詳述されており、日本関係欧文図書として大変興味深い作品となっています。

 本書の著者であるスリウス(Laurentius Surius, 1523 - 1578)は、ドイツ語圏、特にケルンを中心に活躍した、著作家として著名だったカルトジオ会修道士です。彼の学識の高さとその才能については早くから定評があったと言われており、ラテン語の優れた使い手であったことから学者としての栄達を望むこともできましたが、一修道士として生涯を捧げることを選択し、ケルンの修道院において聖人伝や歴史書の執筆に専念して過ごしました。本書は、宗教改革が吹き荒れる動乱の時代に幼少期を過ごしたスリウスが、自身が選択したカソリックの立場から同時代の出来事を網羅的に記録しようと試みた、「現代世界誌」というべき作品です。本文は編年体の形式をとって叙述されており、「短報(Commentarius Brevis)」とされたタイトルとは裏腹に、60年余りの出来事を640ページをこえる紙幅を割いて記しています。本書は刊行直後から好評を博したようで、翌年に早くも増補改訂版が刊行され、以降もスリウスの没年まで改訂版の刊行が続けられ、1574年の出来事まで内容が拡張されることになりました。

 本書はスリウスによる1574年までの記述を増補する形で、一部重複しながら1570年から1586年に至るまでの出来事を記した記事を加えた増補改訂版で、この増補箇所については、オランダ出身の著作家でカソリック教徒であるが故にケルンへの避難を余儀なくされたミヒャエル(Michael von Isselt. 1540? - 1597)が担当しています。ミヒャエルはスリウスの作品、ならびに同時代の年代記執筆という試みに強い関心を持ったようで、この作品をより完全なものとするべく1586年まで記事を拡張しました。ちなみにミヒャエルは、本書刊行後の1592年に本書の続編ともいうべき独自の年代記(Mercurius Gallobelgicus...Köln, 1592.)刊行して、本書以降の年代についての記述をそこに記しています。ミヒャエルによって増補が行われた本書は、いわばこの作品の完成版ともいうべきもので、1566年の初版刊行から20年の長きにわたって読み継がれてきた本書の決定版となりました。本書刊行後の1602年にもこの作品は刊行されているようですが、奇妙なことにタイトルページでは本書と同じく増補収録をうたうものの、実際にはスリウスが執筆した1574年までの記事しか収録していないようで、不完全なものとなっています。また、店主の知る限り、それ以降は再版もなされていないようです。これは、先に述べたようにミヒャエルが本書から独立する形で、本書収録年代以降の年代記を独自に刊行したことも影響しているのではないかと思われます。いずれにせよ、フランス語訳、ドイツ語訳も刊行され、20年にわたって読み継がれた作品である本書は、当時のヨーロッパ(カソリック圏という留保はあるものの)で広く、長く読まれた作品であることは間違いありません。

 本書が大変興味深いのは、宗教改革に揺れるヨーロッパの出来事だけでなく、大航海時代の幕開けによって知られるようになった「新世界」についての情報をも盛り込んでいることで、特に「Giapan」という名称で呼ばれる日本についての情報が散見されることにあります。ヨーロッパに日本情報が伝えられるようになったのは、主としてザビエル渡来以降のことで、ザビエルら日本を訪れた宣教師によって現地の情報を伝える書簡がヨーロッパにもたらされるようになり、それらが1550年代に入ると書籍として刊行され始めるようになります。しかし、本書初版が刊行された1566年の時点では、まだまだこうした日本情報を伝える刊行物は決して多くなく、ましてイエズス会士による書簡以外の刊行物における日本情報はほとんど皆無と言ってよい状況にありました。こうした時代にあって「現代世界誌」とも言える、おおよそ日本を直接の対象としていない作品である本書において、ある程度まとまった日本関係記事が収録されていることは注目すべきことではないかと思われます。
 
 本書中に見ることができる日本関係記事は、スリウスが執筆した前半部分と、ミヒャエルが執筆した増補部分の双方に見ることができます。スリウス執筆期箇所については、日本は「GIapan」(IapaniáあるいはGiaponともされる)と呼ばれており、後年に日本を示すラテン語表記である「Iapon」などとは異なった呼ばれ方をしています。「Giapan」という日本の呼称は、16世紀の早い時期の英語やフランス語で刊行された日本関係欧文図書においても見ることができるもので、スリウスが初版を刊行した1566年当時のヨーロッパ諸言語における日本の名称が、後年ほどにはまだ定まっていなかったことを示唆しており、興味深いものです。一方、ミヒャエルが執筆した増補部分に見られる日本関係記事は、主に1585年にローマ教皇に謁見を果たした天正遣欧使節のヨーロッパ歴訪を伝える内容で、日本は「Iapon」と固定して呼ばれていて、スリウスが用いた「Giapan」ないしはそれに類する呼称は用いられていません。このことは、本書初版が刊行された1566年と本書が刊行された1586年との間に生じた、ヨーロッパにおける日本の呼称のあり方の変化を示すものとして興味深いものと思われます。なお、本書は本文の前に索引が設けられていますが、索引においても日本は「Giapan」と「Iapon」の双方に分かれる形で言及されています。

 スリウスによる日本関係記事は、主に1553年の出来事を記述する節(470ページ)と1565年の出来事を記述する節(610ページ)においてみられます。スリウスは日本のことを、近年になってポルトガル人によって発見されたアジアの極東にある広大な島々からなる国として紹介していて、日本は世界の辺境と言えるほどヨーロッパから遠く隔たっているが、キリストの教えが受け入れられるべく熱心に試みられる必要がある国だと述べられています。日本にキリスト教を根付かせるためには、彼らが範としている中国の人々にキリストの教えがまず最初に受け入れられる必要があるとスリウスは述べていますが、この辺りの主張は間違いなくザビエルの書簡(日本報告)に影響を受けたものではないかと考えられます。スリウスは、韃靼人の侵入を防ぐべく長大な城壁を築く(だけの高い文明を有し、日本の人々から尊敬されている)中国の人々が改宗しない限り、ポルトガル人が伝えようとするキリストの教えや習慣に、日本の人々は従おうとしないだろうと述べ、つづいて日本と中国との位置関係や日本の大きさ、日本におけるザビエルによる布教の試みなどについても読者に紹介しています。

 ここに収録されている日本関係記事は、それほど具体的な日本情報を伝えるものではないかもしれませんが、直接日本に赴いた宣教師以外の当時のヨーロッパの人々が、わずかな日本情報をどのように理解しようとし、彼らの歴史観、世界観の中にどのように位置付けようとしていたのかを示す貴重な一例として大変貴重で、重要な記述と思われます。また、ザビエルに関しての記述も本書には散見できますので、日本と中国、彼らが「インド」と称した広大な地域に対しての認識形成に、ザビエルがもたらした情報が多大な影響を与えていたことも本書は示唆しています。上述したように、本書は初版刊行以降も増補改訂を繰り返しながら幾度も版を重ねただけでなく、フランス語やドイツ語にも翻訳され、多くの読者を獲得することに成功した作品です。このように好評を博した本書の受容状況に鑑みると、本書に記された日本情報は、イエズス会士による書簡作品がもたらした日本情報よりも、いっそう広範な同時代の読者に影響を与えた可能性が考えられます。その意味においてもこの箇所における日本関係記事は、最初期の日本関係欧文情報として、看過し得ない重要性を持つのではないかと思われます。

 さらに、ミヒャエルが増補として付け加えた記事中では、1584年から1585年にかけて日本関係記事を見ることができ、ここでは主に天正遣欧使節のヨーロッパ歴訪、特に1585年のローマにおける教皇グレゴリウス13世との謁見をハイライトにした記事を見ることができます。天正遣欧使節のヨーロッパ歴訪は、当時のカソリック圏ヨーロッパに一大センセーションを巻き起こし、夥しい数の出版物の刊行を読んだことが知られています。本書は、こうした熱気が冷めやらぬ1586年に刊行されたとあって、ミヒャエルの日本使節ヨーロッパ歴訪を報じる筆致も非常に熱を帯びたものとなっています。1584年記事(1140ページ)では、この年の最も喜ばしい特筆すべき出来事として、遥か彼方にある日本から三人の王が派遣した使節がヨーロッパに到着したことを述べています。ミヒャエルは、日本の使節が歓待を受けたことを述べ、教皇に恭順の意を示すべく来訪した彼らの品性や能力、そして(彼らの肌の色が)「白色」であることを称賛しています。また、こうした使節のヨーロッパ到来は、イエズス会の成し遂げた偉業であるとも述べています。そして、ローマにおける使節の様子については、1585年を論じる節においてより詳細に述べられるであろうとこの節における記述を結んでいます。

 1585年記事(1157ページ〜)では、予告通り使節についての記述がかなり詳細にわたっており、まず日本がローマから最も遠く離れた地にある国であること、中国よりもさらに遠い東経170度、緯度31度に位置する島々からなる国であるという、日本の紹介から記述を始めています。日本は古代人にはその存在すら知られておらず、ヴェネチア人のパウロ(マルコ・ポーロ)によって僅かに知られていただけだったこと、国内は多くの王国に分かれていること、イエズス会士であるザビエルによってキリストの教えがもたらされるようになったこと、等々、そもそも日本とはどのような国で、これまでヨーロッパといかなる関係があったのかという、使節の意義を理解するための基本情報を最初に提供しています。その上で、豊後、有馬、大村という3つの王国の王が、教皇に恭順の意を示すべく彼らの縁者を使節としてローマに派遣することになったこと1582年の初めにイエズス会の巡察師(ヴァリニャーノ)に連れられて日本を発ち、中国、インド、アフリカという長い旅路を経てヨーロッパにたどり着いたことなどをかなり詳細にの解説しています。その上で、使節のヨーロッパ来訪の最大のハイライトである教皇グレゴリウス13世との謁見については、謁見の儀式がどのように進められたのかを日本の三諸侯によって認められた書簡や、施設の演説内容の紹介とともに大変詳しく述べています。ミヒャエルによる記述は、使節のヨーロッパ来訪が、当時どれほど大きなインパクトを人々に与えたのかが臨場感を持って伝わってくるものできて、大変興味深い記述となっています。


 店主の知る限り、本書はこれまで日本関係欧文図書としては認識されていないようですが、1566年と1586年という20年の隔たりの間に、ヨーロッパにおける日本についての認識がどのように変わっていったのかを垣間見せてくれる大変興味深い作品です。また、この作品は「現代世界誌」と呼べる当時のカソリック世界における地理、歴史観を端的に表現し、また同時代の読者に大いに好評を博した作品にであるだけに、ここに収録された日本関係記事は、当時のヨーロッパの人々の世界認識における日本の有り様を伝えるものとしても、大きな意義を持つものではないかと思われます。