書籍目録

『聖フランシスコ・ザビエル伝』

トルセリーニ / グスマン(訳)

『聖フランシスコ・ザビエル伝』

スペイン語訳 [第2] 版 1620年 パンプローナ刊

Turselino, Horatio / Guzman, Pedro de (tr.).

VIDA DE S. Francisco Xavier DE LA COMPANIA DEIESVS primo Apostol del Iapon, y segundo de la India, y de otras Porouincias del Oriente…

Pamplona, Carlos de Labàyen, 1620. <AB2021155>

Sold

[Second] edition in Spanish.

Large 8vo (14.3 cm x 19.5 cm), Title., 19 leaves, 311 numbered leaves (1-167, 16[i.e.168], 169-311), 5 leaves(Tabla), Contemporary parchment.
C2(No.18 leaf)ノド部分に補修跡あり。R2(No. 130 laef)-X7(No. 167 leaf)下部余白に虫食い穴あり(テキスト欠損なし)。巻末目次余白部分に破れあり。[Laures: 1620-10]

Information

ザビエルの列聖過程が進む中、生誕地に程近いパンプローナで刊行された、権威あるゼビエル伝のスペイン語訳版

 本書は、16世紀に刊行されたフランシスコ・ザビエルの伝記として最も完成度が高く、また繰り返し再版されたことにより、類書中その影響力が最も大きかったと言われる伝記作品です。著者トルセリーニ(Orazio Torsellino, 1545 – 1599、Horatius Torsellinusはラテン語表記)はイエズス会の著作家として多くの書物を著していて、ザビエル没後、ザビエルが成し遂げたアジア宣教の偉大な足跡を含めた彼の詳細な伝記調査と記録の出版を求める声が次第に高まりつつあったことを受けて、本書の執筆に着手し、1594年にローマで初版(ラテン語)を刊行しました。この初版はすぐさま大きな反響を呼び、初版刊行のわずか2年後(1596年)には大幅な増補改訂が施されて、第2版が刊行(ローマとアントワープで2種が刊行:後述)されています。そして、この第2版が決定版として、以降繰り返しヨーロッパ各地で再版、翻訳版の刊行がなされていき、ザビエル伝記の決定版として後年に多大な影響力を及ぼすことになりました。本書は、1620年にザビエルの生地に程近いパンプローナでで刊行されたスペイン語訳版です。

 トルセリーニの『ザビエル伝』のスペイン語訳は、1603年にバリャドッリドで刊行されたものが最初で、この初版は本書と全く異なるタイトル(Historia de la entrada de la Christiandad en el Japón, y China, y en otros partes de las Indias Orientales: y de los hechos y admirable vida del apostolico varon de Dios el Padre Francisco Xavier de la Compañía De Jesús,…Valladolid, 1603)で刊行されていて、日本をはじめとするイエズス会による東インド布教状況成果をスペイン語圏読者に広く伝えようとする意図が感じられるものです*。本書はこの初版から17年後の1620年に刊行されたものですが、ザビエルの生誕地にほど近いナバラ王国の中心地パンプローナで刊行されていること、1619年のザビエル列福に続いて列聖過程が進みつつあった最中に刊行されている点が注目されます。パンプローナは1522年にカスティーリャ軍に反旗を翻し、カスティーリャのナバラ王国支配に対する抵抗を最後まで続けたナバラ王国の旧臣達とカスティーリャ軍が衝突した地でもあり、この戦闘にはザビエルの兄たちがナバラ王国側の兵士として、後にイエズス会創始者となるロヨラがカスティーリャ側の兵士として戦闘に加わっていたことが知られていて、パンプローナはザビエルにとって縁浅からぬ地でした(ザビエルとナバラ王国については、山崎岳「ザビエル・バスク・ナバラ王国」鹿毛敏夫編『描かれたザビエルと戦国日本:西洋画家のアジア認識』勉誠出版、2017年所収コラム等を参照)。また、本書が刊行された1620年は、その前年1619年にザビエルが福者として列福され、続いてイエズス会創始者ロヨラとともに聖人として認められる列聖過程が具体的に進展していた時期にあたることから、こうした機運を背景に本書がかつてのナバラ王国の中心であったパンプローナで刊行されていることは非常に興味深いことです。

*上記執筆後、スペイン語訳版としてさらに早い1600年にバリャドリッドで刊行された版(Vida del P. Francisco Xavier de la Compania de Isus…Valladolid, 1600.)が存在することに気付きました。この1600年版は本書と同じ訳者によるもので、胸襟を両手で開いたザビエル図をタイトルページに採用しており、タイトルも概ね本書と同じものですので、こちらがスペイン語訳初版と呼ぶべき版かと思われます。
(2022年2月追記)

 本書は全6部構成となっていて、本文に入る前に各種検閲許可文や献辞文、読者への序文などが掲載されています。また、世界をヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカに分けて簡単に解説した世界地理について基礎的紹介文も収録されています。本文第1部(第1葉〜)では、ザビエルの出生から幼少期以降の教育、そしてロヨラとの出会いとイエズス会創設への参加とアジア戦況を志すあたりまでを、第2部(第46葉〜)では、アジア宣教のためにインドへと向かい、ゴアを中心として行った宣教活動の様子までを記しています。続く第3部(第91葉〜)は、マラッカへと移って展開された宣教活動の様子、そして日本から同地に来ていたアンジロウとの出会いをきっかけにして日本への宣教を決意し、彼を伴って鹿児島へと向かうあたりするまでを記しています。ザビエルの日本での宣教活動は、第4部(第142葉〜)で非常に詳細に論じられていて、最初に到着した鹿児島、そして豊後、山口において君主から宣教活動の許可を得たり、仏僧と議論を交わしたこと、首都である京都へと向かい、再び山口を経て九州に戻るまでと、時系列に沿ってザビエルの日本での活動が細かく記されています。第5部(第190葉〜)では、日本での宣教活動をより本格的に展開するために、中国での宣教を志して一旦離日して、中国へと向かおうとしたその矢先に病のために帰天したことまでが記されていて、時系列に沿った彼の伝記としては、この第5部までが本論となっています。最後の第6部(第247葉〜)は、ザビエルの生涯を通じて確認された様々な奇蹟、また彼の死後にその遺骸が腐敗しなかったことなど、死後にも生じた多くの奇蹟についての記述となっていて、これらの記述は、ザビエルが一聖職者を超えたある種の聖性を帯びた人物であったことを強調しています。

 トルセリーニによる『ザビエル伝』は、数あるザビエルの伝記作品において、今なお最も権威ある作品の一つとして高く評価されており、原著ラテン語版をはじめ、各種翻訳版が国内研究機関で所蔵されていますが、ことスペイン語訳版については、先に挙げた初版、ならびに本書のいずれも所蔵機関が非常に限られているようで、わずかに東洋文庫で第2版に相当する本書が所蔵されているのみのようですから、これまでほとんど研究がなされていないのではないかと思われます。その意味においても、ザビエル伝記作品の古典的名著として知られる作品、しかも列聖過程中にパンプローナで刊行されたという本書は、大変貴重な作品であるということができるでしょう。


「ザビエルの伝記も、没後間もなくからイエズス会士達によって執筆されている。オラシオ・トルセリーニ(1545〜99)の『フランシスコ・ザビエルの生涯』(ローマ、1549年)は、ザビエル伝としては最初に刊行され、広範囲にわたって流布したものである。同書は、1596年にラテン語版の再版(*改訂増補版;引用者注)、1600年に3版、スペイン語版、05年にイタリア語版、翌06年に同再版、08年にフランス語版が出版されており、その後もヨーロッパ各地において多数の版を重ねている。また、ジョアン・デ・ルセナ(1550〜1600)によるポルトガル語の『フランシスコ・デ・ザビエルの生涯』(リスボン、1600年)は、トルセリーニによる伝記と並ぶザビエル伝として後世のザビエル觀に多大な影響を及ぼしたものである。
 伝記の作成は、その人物の列聖列福のための事蹟調査という意味を持っている。列聖列福のためには、その人物の正確な情報が必要だからである。ザビエルは1619年には福者に列せられ、22年にはロヨラと同時に聖人に列せられている。(後略)」
(浅見雅一『概説キリシタン史』慶應義塾大学出版、2016年、51-52頁より)

「ザビエルの東洋諸国への宣教は、カトリックの教勢回復を企図するローマ教皇の意思と、その忠実な実行者たらんとするロヨラの指名によって実行されたものである。もし順当に学業を終えていれば望みある前途が開かれていたであろうザビエルが、世俗の栄達に背を向けてはるか東方の異郷に生涯を終えることになったのは、ひとえにロヨラの存在あってのことだった。そして、ザビエルとロヨラが親密に語り合う際に交わされた言葉は、当然ラテン語やフランス語ではなく、彼ら共通の母語であるバスク語だったはずである。
 さらに想像を逞しくするなら、ザビエルがロヨラの説く教義を受け入れたのには、帰るべき故郷の喪失という心理的な要因もはたらいていたのかも知れない。カスティーリャによるナバラ併合とその後幾たびかの反乱を経て、一族は財産を没収され没落の道をたどった。父フアンも、母マリアも、そしてフランシスコのよき理解者であった姉マグダレーナも、窮迫の度を増す生活に苦しみながら相次いで世を去った。もはや彼には頼る者も、頼られる者もいなかった。かつては立身出世を期待され、その重圧に耐えかねていたであろう三十そこそこのザビエルが、俗世の無常を観ずるには十分な境遇ではなかったか。
 騎士としての生涯を諦めたロヨラが教皇の兵士として生きる決意をしたように、故郷を失ったザビエルは異郷への福音伝道に身を捧げることを望んだ。折しも数多くのナバラの遺民が続々と海外に新天地を求めていった時代のことである。ザビエルの東方宣教も、当時世界中で展開していたバスク人のディアスポラの一環に数えることができよう。アジアへの旅はザビエルにとって自身の魂の新天地を求める冒険であった。その目的は、はるか南シナ海の一島嶼上において彼の魂が天に召されたことで、ついに果たされたものと信じてよいのではないか。」
(山崎岳「ザビエル・バスク・ナバラ王国」鹿毛敏夫編『描かれたザビエルと戦国日本:西洋画家のアジア認識』勉誠出版、2017年所収、72頁より)