書籍目録

『東方旅行記』(『東インド旅行記集』第2部)

リンスホーテン / ド・ブライ兄弟(編) / [ロニチェル](訳)/ パルダヌス(注釈)

『東方旅行記』(『東インド旅行記集』第2部)

ラテン語版 1599年 フランクフルト刊

Linschoten, Jan Huygen van. / de Bry, Johan Theodor & Johan Israel (eds.) / [Lonicer, Johan Adam] (tr.) / Paludanus, Bernardus(annotation).

II. PARS INDIÆ ORIENTALIS, IN QVA IOHAN. HVGONIS LINTSCOTANI Navitatio in Orienem,…

Francfordii(Frankfurt), Wolfgangi Richeteri (Wolfgang Richter), M. D. XCI(1599). <AB2021154>

Sold

Edition in Latin.

Folio, Illustrated Title., 4 leaves, Front.(Portrait of Linschoten), pp.1-18, pp.19-22(facsimile leaves), pp.23-34, pp.35-38(facsimile leaves), pp.39-114, 2 facsimile leaves(Index), facsimile double pages / folded maps: [4], single leaf plate: [1], Title.(for plates), 37 plate leaves (LACKING plates 37 & 38 & 2 maps). Modern brown full leather, restored.
19-22, 35-38頁、索引が欠落、図版39枚中2枚(37, 38番)が欠落、地図4枚が欠落。以上の欠落箇所は全て精巧なファクシミリにて補填済み。装丁含め修復作業済み。[Groesen: 51 (p.409)]

Information

絶大な影響を誇ったリンスホーテン「東方案内記」と最新日本情報をラテン語でいち早く紹介

 本書は、日本をはじめとする東インドの情報をヨーロッパに本格的にもたらしたことで名高いリンスホーテンの「東方案内記」をラテン語に翻訳していち早く刊行した作品で、旅行記、航海記集成のベストセラーを生み出したフランクフルトの出版社ドブライによって1599年に刊行されています。ポルトガルやスペインによってそれまで秘匿されていた東インドの現地事情を持ち出して、ヨーロッパの読者に広く暴露したというスキャンダラスな作品である「東方案内記」をヨーロッパ上流社会の共通言語であったラテン語で刊行することでより多くの読者に日本情報をはじめとした東インド情報を提供した点に本書の大きな意義があります。
 
 ドブライ(de Bry, Johann Theodor, 1561 - 1623)は、リエージュ出身でフランクフルトを拠点に活躍した出版社、版画家で、兄弟(Johann Israel, 1565? - 1611) と共に多くの書籍を刊行しました

。プロテスタントのためヨーロッパ各地を転々とする中でハクルート(Richard Hakluyt, 1552? - 1616)をはじめとした当時を代表する地理学者、旅行記集成編纂者らとの親交を深め、自身でも多くの最新の航海、旅行記を収集し、出版していくようになります。ドブライによる旅行記集成は二つのシリーズに分かれていて、その一つは「大旅行記集」(Grands Voyages)と呼ばれる、主として「新大陸」アメリカを対象とした全13巻(ドイツ語版は全14巻)で構成される『西インド旅行記集』(India Occidentalis. 1590-1634)です。もう一つは、「小旅行記集」(Petits Voyages)と呼ばれる、主として日本を含む東インドを対象とした全12巻(ドイツ語版は全13巻)で構成される『東インド旅行記集』(India Orientalis. 1597-1628)です。

 大航海時代の幕開け以降、次々とヨーロッパにもたらされる「新発見」を古代、中世の地理学、歴史学と接合し、包括的にまとめ上げることを企図して、ラムージオ(Giovan Battista Ramusio, 1485 - 1557)による『航海と旅行記集成』(Navigationi et Viaggi. 3 vols. Venetia, 1550-1559) や、ハクルートの『イギリス国民の主要な航海と旅行と発見』(The principal navigations, voyages, traffiques and discoveries of the English Nation,… 2vols. London, 1599-1600(2nd ed.))に代表される著名な航海記集成が数多く刊行されるようになります。ドブライの手がけた著作は、もちろんこうした先行する著作に多大な影響を受けて刊行されたものですが、それまでの著作にないユニークな編纂方針や販売方針をとったことが知られています。ドブライの著作の大きな特徴を簡単に列挙しますと、下記のようなにまとめることができます。

1. 銅版画による図版、地図をそれまでの著作に比べて多用していること。
2. ラムージオやハクルートの著作に見られるような、古代、中世の知見と「新発見」とを整合的に接合させることよりも、最新の発見の読者への一早く提供することを優先したこと。
3. 当時のヨーロッパ上流社会の共通言語であったラテン語で刊行すると同時に、ドイツ語をはじめとした俗語でも並行して刊行し、国際的なマーケットを強く意識したこと
  *フランクフルトというヨーロッパ屈指の国際商業都市に拠点を設ける。
4. 全ての記事をまとめ終えてから刊行するのではなく、分冊の形で逐次刊行したこと。このことにより、比較的短期間で資本回収が可能となったこと。

*ドブライの著作とその特徴については主に下記の書籍を参照。
Michiel van Groesen. The representations of the overseas world in the de Bry collection of voyages(1590-1634) (Library of the written word 2) Leiden: Brill, 2008)

 ラムージオやハクルートがそれぞれの著作を刊行する以前から多くの資料を収集、校訂し、学術性の高さを重視していたことに対して、ドブライは(もちろん相応の学識は持ち合わせつつも)テキストの学術性を一定程度担保した上で、より商業的な点を重視したことが大きな特徴ということができます。結果的にドブライが手がけた作品は、当時の読者の大きな支持を受け、ドブライ没後もその妻や息子たちによって刊行が続けられることになりました。

 本書は、ドブライが手がけた『東インド旅行記集』のラテン語版第2巻として刊行されたものです。この第2巻は、新興国オランダの東方進出への大きな契機となったことであまりにも有名な、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)の「東方旅行記」を収録しており、その中に日本についての記述が見られることに大きな意義があります。リンスホーテンの「東方旅行記」は、リンスホーテン自身による航海記の形を取りつつも、マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1533- 1603)、メンドーザ(González de Mendoza, 1545 - 1618)、グアルティエリ(Guido Guartieri, ?-?)といった、イエズス会士の著述家によるインド地域についての最新情報を駆使して、東インド地域に関する当時最良の知見をオランダに広めたことに貢献したことで高く評価されている作品です。ゴアをはじめとした南アジア、東南アジア、中国、そして日本に関する地誌、動物、植物、産物(鉱石、香辛料、薬草など)について網羅的に記述しており、これまでポルトガルとスペインのごく限られた人々しか知ることができなかった情報を惜しげも無く披露しているだけでなく、自身の記述に一層の正確さを期すために、同時代の傑出した博物学者であったパルダヌス(Bernardus Paludanus, 1550 - 1633)に注釈を依頼し、本書の価値を比類なきものにまで高めていることも大きな特徴です。ドブライは、このリンスホーテンの名著にいち早く注目し、原著刊行(1596年)から間もない1598年にドイツ語版を、次いで翌1599年にラテン語版を刊行しており、本書は後者にあたるものです。ドブライはリンスホーテンの「東方旅行記」を3分冊に分割して出版しており、本書に続く第2部(『東インド旅行記集』第3巻、ドイツ語版:1599年、ラテン語版:1601年)、第3部(同第4巻、ドイツ語版:1600年、ラテン語版:1601年)に矢継ぎ早に刊行しています。

 リンスホーテンの「東方案内記」は、オランダにおける最初期の日本情報をもたらしたことでも大変重要な作品で、本書にはこの重要な日本情報が掲載されている点に、欧文日本関係図書としての大きな意義があります。リンスホーテンは、実際には日本に赴くことはありませんでしたが、天正遣欧使節とゴアにおいて実際に対面していたこともあって日本に対する関心が高く、「東方案内記」では日本のために一章を割いて記し、当時のオランダの東インド進出候補地の一つでもあった日本の産品も含めて重要な日本情報をヨーロッパにもたらしました。「東方案内記」が17世紀前半におけるオランダをはじめとしたヨーロッパにおける日本情報源として最大かつ最良のものとして長らく影響を及ぼしたことは、下記のように広く知られています。

「(前略)リンスホーテンの日本に関する記述は一貫性を欠いているとはいえ、その情報の中には一通りの初歩的な日本観が表れている。この日本観をまとめると次の通りになろう。日本は寒くて、住みにくい国であり、日本人は質素で我慢強い性質を持っている。慣習は他の民族とまったく違うため、異質な民族である。その起源は中国から流されてきた反逆者であるとされているが、慣習も言語も中国人と異なる。法がとても厳しく、礼儀を重んじる民族である。また、宝石ではなく、茶器や書画、刀を高く評価している。国制は封建的であり、君主は配下に対して絶対的な権力を持っている。イエズス会士は、日本で強い基盤を持ち、長崎という港で銀の貿易を独占している。このような日本観は、当時のイエズス会士の報告を基に形成されたものであるが、リンスホーテンはそれを概略的にオランダの読者に紹介した。
 オランダ人をアジアに導いた『東方案内記』は大きな影響力を持ち、17世紀を通じてオランダにおいてアジアに関する標準書となったことは言うまでもないが、日本に関しても、カロンの『日本大王国志』が1645年に出るまで、『東方案内記』がほとんど唯一の情報源であった。つまり17世紀前版において日本についての情報を知りたいオランダ人は、イエズス会士の記述を情報源としたリンスホーテンを参照したということになる。」
(フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、65, 66頁より)

 リンスホーテンの「東方案内記」は、当時の航海記としては例外的に多数の図版や地図を収録していることが知られていますが、ドブライは自身のラテン語版を編纂するに際して、これらの図版の多くをそのまま取り込むと同時に、自身でも新たな情報源を元に作成した図版を数多く挿入しています。ドブライが収録した全39枚の図版と2枚の地図(うち本書では2枚の図版と地図が欠落)のうち、図版24枚はリンスホーテン原著に収録された図版を忠実に再現し、14枚の新たな図版と2枚の地図(本書では欠落)を本書のために制作しており、本書独自の価値を高めていることは注目すべき点です(原著と本書との図版の異同についてもGroesen上掲書を参照)。「東方案内記」はドブライによるものとは別に、本書刊行と同年の1599年にハーグでもラテン語版が刊行されていますが、こちらは原著の体裁をほぼそのまま踏襲した版であることから、ドブライによる独自の図版と地図の挿入がなされたドブライのラテン語版は、ラテン語ハーグ版とは異なる意義を有する作品と言えるでしょう。ドブライの編集方針とその価値については研究者の間でも様々な議論がありますが、いずれにしても、ヨーロッパ上流社会の共通言語であったラテン語で当時最新の日本情報をヨーロッパの読者にもたらしたこと、しかもイエズス会士らがもたらすものとは異なる形で、より多くの読者に提供した点に、本書の日本関係欧文図書としての大きな価値があると言えるでしょう。