書籍目録

『イエズス会史:アジア第2部:日本』

バルトリ

『イエズス会史:アジア第2部:日本』

初版 1660年 ローマ刊

Bartoli, Daniello.

DELL’ HISTORIA DELLA COMPAGNIA DI GIESV. IL GIAPPONE. SECONDA PARTE DELL’ ASIA.

Roma, Ignatio de’ Lazzeri, M. DC. LX.(1660). <AB202165>

Sold

First edition.

Large 4to (23.5 cm x 34.8 cm), Title., 1 leaf, pp.1-321, 222[i.e.322], 323-839, 1-58, 57, 58 (NO DUPLICATED PAGES), 59-508, 8 leaves(Tavola), 1 leaf(blank), Modern green goat leather.

Information

イエズス会による『日本史』を代表する古典的名著

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 本書は、イエズス会士の著作家であるバルトリの壮大な歴史書『イエズス会史』のアジア部の第2部となるもので、その名が示す通り『イエズス会史』全体の中でもっとも日本についての記事が集中した巻となっています。著者のバルトリ(Daniello Bartoli, 1608 - 1685)は、17世紀を代表するイエズス会の歴史家で、イエズス会の歴史を活動地域別に分けて刊行した大部の歴史書『イエズス会史(Istoria della Compagnia di Gesú. 1650-1673)』を著しました。彼自身は、日本をはじめとするインド布教を希望していたと言われますが、その類いまれなる才能を著述作品の完成に向けるべきと判断したイエズス会当局の命を受け、1646年から没年の1685年までローマで執筆活動に専念する生涯を送りました。
 
「ダニエッロ・バルトリ(Daniello Bartoli, 1608-1685)は、17世紀のイエズス会の著名な歴史家であり、かつ同会の優れた布教史の著者である。彼はまた17世紀(Seicento)のイタリア語散文作家群の一人に属する。バルトリの著作はいとも厖大で、それはまた彼が取り扱ったテーマが広範囲である点でも指摘されるべきである、その著『イエズス会史』は、彼が活動した当時の歴史が主となっており、提示されていた各地からの諸年報中、本書でそのまま用いられる箇所はごく少ないとは言え、その要約は、この不撓不屈の著者の叙述の中に正確に秩序立てられていると言い得よう。」

「アジアにおけるイエズス会史は、1653年と1663年の間に刊行され、全3部からなり、17巻に分かれる。第1部「アジア」は8巻、第2部「日本」は5巻、第3部「シナ」は4巻である。「アジア」第1部の初めの4巻は、とりわけフランシスコ・ザビエルの生涯に関わる。「アジア」の第3巻において、すでに日本のことが初めて詳しく取り扱われているのは当然で、それは1549年から1552年までザビエル自身、日本で活動した時期にあたる。それに続く諸巻においては、特にオルムズ(第5巻)、殊にモルッカ(第6巻)のことが見える。第8巻でバルトリは再び日本での布教のことに戻り、1570年に至る。
 第2部、すなわち「日本」(Giappone)は1660年に開板された。」

「バルトリは(第2部「日本」の:引用者注)第1巻の序文において、彼が以下、5人の継続した統治者すなわち「信長、太閤様、大府様(徳川家康)、次、およびその次の将軍(徳川秀忠と徳川家光)」の時代を記すと述べ、その各々が、彼の叙述で1巻を形成している。
 第1巻は、1571年から1582年を取り扱っているが、当代はフランシスコ・カブラルが(イエズス会)日本布教長の任にあった頃で、織田信長が天下の統治者であった。同じ巻においてバルトリは、もとより天正遣欧使節の旅について記しており、1590年、使節団青年の帰国のことに及ぶ。バルトリは第2巻において、もう一度年代を遡り、豊臣秀吉の人物描写で始め、彼の時代の布教を記す。同巻は1600年に及び、ドン・アゴスチイノ小西行長の処刑記事で終わっている。第3巻は吾人に最も興味深いが、1601年から1616年までが取り扱われており、それは徳川氏統治の初期にあたり、同巻は徳川家康の死去で終わる。日本における布教事業にとって、これが第一段階であり、当局による黙認状態から、次第次第に殉教の記述へと移って行く。
 続く最後の2巻においては、殉教死の報告が歴史的諸事件となって展開し、バルトリ自身、その著書の「日本」部の序文において、「日本に関する最後の3巻では血が流れるであろう」(“correan sangue i tre ultimi libri”) と述べている。第4巻は、1616年の将軍のキリシタン宗門に対する布告に始まり、1631年に至る。最後の第5巻は1632年から1640年を扱い、それはポルトガル人の日本からの放逐、また彼らの1640年の空く終わった日本・ポルトガル交渉再興の試みに関することで、この1640年こそは、バルトリが自らその史書で言うように、イエズス会創立認可のまさに百周年の記念すべき年であった。
 バルトリはその史書をローマのイエズス会文書館で執筆した。同書の執筆にあたって彼は同イエズス会文書館にある夥しい海外からの布教関係の書簡や報告書を自由に用いることができた。殊に、後世のためにと定期的にヨーロッパへ送付されてきた「年報」がそれに属する。さらに彼は、少なからず、それまでに公刊されていた著作をも参照せねばならなかったし、また可能でもあり、「年報」の一部もまたその目的に添っていた。同じくバルトリはその著者のためにイエズス会宣教師たちの筆になる史料を入念に研究したのみならず、大航海時代とか発見時代と言われる事業を成就した他の学究や旅行者の報告や記述を繙いた。
 かれはこうしてフロイスやヴァリニャーノの草稿の報告書を自らの布教史の「日本」の部で利用するを得たが、1598年のエーヴォラ版書簡集においてすでに刊行されていた有益な文書を用いたことは当然のことである。さらに彼は日本報告書のインドとかヨーロッパでの諸編纂書を自著の典拠にした。」

「確かに吾人は歴史家としてのバルトリについて批判することは可能である。だがまた読み物としての他に、それがイエズス会員の手になるイエズス会自体の、尋常ならぬ飾り気のない書であることを常に念頭に置かねばならない。バルトリの史書の出典文献や史料(それらは殊にバルトリ自身の覚え書に基づく)が判明しているので、彼の著書は、現代の学究にとっては情報源としての価値をも有している。既述のような制約があるとは言いながら、彼のアジアにおける修道会史は、それを批判的に読んで理解する限り、例えば日本の布教史の研究や、さらに歴史的事件の記述にあたって価値が高い。またインド、シナ、そして日本の記述の様式なり方法、また17世紀におけるこれらの諸国や地方についてのヨーロッパでの理解の状態が判って興味を喚起させられる。」


(エンゲルベルト・ヨリッセン「解題 ダニエッロ・バルトリ著『イエズス会史』」 松田毅一監訳『16・7世紀イエズス会日本報告集 第II記第1巻』所収より)

タイトルページ。
「第1巻は、1571年から1582年を取り扱っているが、当代はフランシスコ・カブラルが(イエズス会)日本布教長の任にあった頃で、織田信長が天下の統治者であった。同じ巻においてバルトリは、もとより天正遣欧使節の旅について記しており、1590年、使節団青年の帰国のことに及ぶ。」(前掲書)
「バルトリは第2巻において、もう一度年代を遡り、豊臣秀吉の人物描写で始め、彼の時代の布教を記す。同巻は1600年に及び、ドン・アゴスチイノ小西行長の処刑記事で終わっている。」(前掲書)
「第3巻は吾人に最も興味深いが、1601年から1616年までが取り扱われており、それは徳川氏統治の初期にあたり、同巻は徳川家康の死去で終わる。日本における布教事業にとって、これが第一段階であり、当局による黙認状態から、次第次第に殉教の記述へと移って行く。」(前掲書)
「続く最後の2巻においては、殉教死の報告が歴史的諸事件となって展開し、バルトリ自身、その著書の「日本」部の序文において、「日本に関する最後の3巻では血が流れるであろう」(“correan sangue i tre ultimi libri”) と述べている。第4巻は、1616年の将軍のキリシタン宗門に対する布告に始まり、1631年に至る。」(前掲書)
「最後の第5巻は1632年から1640年を扱い、それはポルトガル人の日本からの放逐、また彼らの1640年の空く終わった日本・ポルトガル交渉再興の試みに関することで、この1640年こそは、バルトリが自らその史書で言うように、イエズス会創立認可のまさに百周年の記念すべき年であった。」(前掲書)
本文末尾箇所。
巻末の索引冒頭箇所。
巻末の索引末尾。