書籍目録

『偶像崇拝の国々の宗教文化と儀式』第四巻 第二部

ピカート / (バーナード、ベルナール)

『偶像崇拝の国々の宗教文化と儀式』第四巻 第二部

英訳初版 1733年 ロンドン刊

Picart, Bernard / (Bernard, Jean Frederic)

THE CEREMONIES AND RELIGIOUS CUSTOMS OF THE IDOLATROUS NATIONS; Together with HISTORICAL ANNOTATIONS, And several CURIOUS DISCOURSES Equally Instructive and Entertaining. Written originally in FRENCH, and illustrated with a large Number of Folio COPPER PL

London, PRINTED by WILLIAM JACKSON, for CLAUDE DU BOSC, Engraver at the Golden Head in Charles-Street, Covent Garden, MDCCXXXIII. (1733). <AB201710>

Sold

First edition in English. Vol. IV. Part II of 7 vols.

Folio, Fly title, title page, 2 leaves (i.e. CONTENTS), engraving dedication, pp.[i]ii-ix, [1]2-158, [159]260(i.e.160)-187, [188-191]192-320, 317-320(i.e.321-324), 325-389, [390-393]394-428, [429-431]432-514, 1 leaf, 7 leaves(i.e. INDEX): double pages plates [5], Later quarter pseudo calf brown cloth
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Information

「啓蒙の世紀」における先駆的な比較宗教学の試み

 本書は、当時のヨーロッパにおいて知りうる限りの世界各国における宗教を精巧な図版と合わせて詳しく紹介するという、18世紀に刊行された書物の中でも傑出した位置を占めるべき書物です。

 元々はフランス語で大型フォリオ版全7巻という非常に大部な企画として1723年から1737年に刊行されましたが、これはすぐさま多大な反響を呼び、初版刊行中から既に新版企画が進んだほか、オランダ語、ドイツ語、そして本書である英語へと翻訳されました。ここでご案内するものは、英語版の第四巻第二部に当たるもので、主に日本、中国をはじめとしたインド、アジア諸国の宗教を紹介している巻です。
 
 タイトルページで著者名として挙げられている、ピカート(Bernard Picart, 1673 - 1733)は、宗教的、政治的理由から祖国フランスを離れてオランダに移住してきた銅版画職人で、本書に多数収録されている精巧な図版を手がけました。彼は銅版画を作成するにあたって、できる限り当時の最新文献にあたり、それらを参照にしつつ、美術的により好ましいと判断される場合は手を加え、オリジナルよりも優れた作品にすることを心がけました。

 ただし、それは単に美術的観点からなされるのではなく、彼がより重視したことは、キリスト教以外の異教の習慣や儀式を描く際に、それらを自文化よりも劣った、おどろおどろしいものとして描くのではなく、中立的な立場からそれらを正確に再現して伝えようとすることでした。これは、ピカートだけの考えではなく、テキストを担当したバーナード(Jean Frederic Bernard, 1680 – 1744)にも見られる二人の強い意向によるもので、彼らは本書を企画するにあたって、世界中のあらゆる宗教を公平な視点で比較すること、そこから見えてくる人間の根源的な営みとしての宗教と真理のあり様を追求することを何よりも重視しており、本書が単なる異国趣味や自文化の優位性を証明するためだけの道具になることを極めて嫌いました。この方針は、かつて彼らに移住を強いることになったカソリックに対してさえ貫かれており、カソリック自体を最初から否定するのではなく、その内実をまず客観的に報告することに重きを置き、批判する際は必ず最新の文献を典拠にして行うという徹底さを示しています。また、ユダヤ教に対しては特に強い関心を寄せていたようで、ユダヤ人社会に自らが実際入り込むことで、彼らの儀式を直接目にした上で、それらを元に本書を執筆しています。こうして刊行された本書は、今で言うところの比較宗教学の原型となるべき作品であり、またその方法においては社会学の参与観察、フィールドワークとも言えるべきもので、18世紀初頭に本書が刊行されたということに鑑みると、ほとんど驚異的としか言いようがないものです。
 
 バーナードは、理神論者としても著名なトーランド(John Toland, 1670 – 1722)と交流があったほか、自由思想家(Free Thinker)と呼ばれるような当時ラディカルとされる思想家たちとも交流があり、また自身もルネサンス期の哲学者ブルーノ(Giordano Bruno, 1548 – 1600)の書物を愛読するなど、宗教と哲学特に霊魂論と自然宗教に強い関心を持っていました。本書で取り上げられているインド、アジア諸国の宗教については、「輪廻転成(metempsychosis)」の思想に焦点を当て、これらはインドをはじめとしたアジア諸国に広く見られるものであるとし、単なる異端思想や無神論と言って切り捨てられるようなものではない、としています。また、この思想は当時危険視されながらも流布していた汎神論やスピノザ主義にも通じるものとして、自文化を相対的に検討するための重要な示唆、自然宗教の起原を探る示唆となりうるものとしても論じています。  
 
 また、中国については、特に孔子の思想に強い関心を示し、マルティニ(Martino Martini, 1614 – 1661)らイエズス会士の報告などを参照しながら、キリストに匹敵する倫理的、宗教的指導者として高く評価しています。仏教については、法華宗や禅宗といった諸宗派が同じ仏教を源流とすることが、当時のヨーロッパでは理解されていなかったにもかかわらず、バーナードは自身で様々な文献を読み解きながら、それぞれの類似性と共通点を論じています。ヨーロッパにおいて仏教諸宗派を総称してBuddhismという言葉で理解されるようになるのは、1820年代以降のことですから、これは驚くべきことです。
 
 バーナードは、日本における神道にも強い関心を示しており、内裏(天皇)について詳しく論じています。日本の部については、フランス語版原著が刊行される直前に刊行されたケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651 – 1716)の『日本誌(History of Japan, 1727)』が特に参照されていますが、ここでも単にケンペルの記述を鵜呑みにするのではなく、自身独自の考察を批判的に加えています。また、図版については、ケンペルに加え、モンタヌス(Arnodus Montanus, 1625 – 1683)の『東インド会社遣日使節紀行(Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan, 1669)を多く用いていますが、これには先に述べたようにピカートによって一層精巧に仕上げられています。
 
 本書は、フォリオ版全七巻という非常に高価なものであったにも関わらず、各国語に翻訳されたほか、1世紀以上にわたって海賊版、改訂版が出され続けるなど、「啓蒙の世紀」にあって多大な影響を及ぼしました。モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689 – 1755)が、ルイ14世批判のために匿名で出版した『ペルシャ人の手紙(Lettres persanes, 1754)』も本書に大きな影響を受けて著されたもので、これ以降に続く、異国からの書簡の体をとった自国政治批判著作の原型ともなりました。しかも、モンテスキューにとって、「ペルシャ人」とは、自国を相対化するための役割でしかなかったのに対し、バーナードとピカートにとっての「ペルシャ人」とは、場合によっては自国をはるかに上回る文明と宗教、歴史を持つ他者として扱われていることに鑑みると、各国政治文化を比較する「風土論」の祖であるモンテスキューを凌ぐものであるとさえ言えます。
 
 図版だけが注目されがちな本書ですが、極めて優れたテキストにも着目することで、単なる異国趣味ジャンルの一つとしてではなく、18世紀初頭に刊行された驚異的な試みの書物として、本書の価値は改めて評価されるべきでしょう。グローバリゼーション、宗教的寛容とは何か、という古くて新しい問いに先駆けて取り組んだと言える二人の書物は、現代にこそ読まれるべきものなのかもしれません。