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1930年代 東京刊
Board of Tourist Industry (Japanese Government Railways).
JAPAN IN WINTER.
Tokyo, Dai Nippon Printing Co., Ltd, 1930th. <AB202115>
Sold
20.6 cm x 23.7 cm, pp.[1(Title cover)-2], 3-15, Original pictorial paper wrappers.
Information
本書は、戦前の外国人観光客誘致のために1930年に設立された国際観光局が発行していた英文日本刊行案内の「冬編」です。スキーやスケートといった冬ならではのスポーツや、雪国での温泉宿やホテルで過ごす楽しみなどを、冬の日本の魅力をアピールする内容で、美しい表紙デザインと上質な用紙も相まって、日本社会全体の肯定的なイメージを冊子を通じて表現するものとなっています。国際観光局は、吉田初三郎や上村松園ら、当時の優れた画家たちに依頼して宣伝ポスターを制作(これらについては以前当HPでも紹介)していて、日本の対外イメージを好転させ、多くの観光客を呼び寄せるための宣伝物には、優れたデザインやテキストが必要であることを十分に認識し、直接的な観光誘致だけでなく、文化広報とも言いうるような広範囲にわたるメディア活動を展開していました。 「国際観光局が最も力を入れていた活動は『対外宣伝』、すなわち海外への日本の宣伝であった。なかでもアメリカを当初から主要ターゲットに据えており、開局の翌年にはニューヨークで、またその翌年にはロサンゼルスでそれぞれ事務所を開設しただけでなく、1932年にロサンゼルスで開催されたオリンピック、1939年にニューヨークとサンフランシスコで開催された万国博覧会といった巨大イベントでも積極的に日本の姿を宣伝している。 そして、これら一連の宣伝活動には多様な媒体が動員された。ポスター、絵はがき、地図、パンフレットはもちろんのこと、写真をふんだんに使用した定期刊行物『トラベル・イン・ジャパン』や、日本の文化や風物を紹介する『ツーリスト・ライブラリー』が万単位で印刷され、旅行会社、ホテル、教育機関、マスコミなどに配布されたのである。また、国際観光局が映画制作に取り組んでいた点も見逃せない。日本の名所、風景、四季、風俗、伝統などを題材にした映画のフィルムは各在外事務所に常備されただけでなく、アメリカの映画会社パラマウントに配給された。」 (千住一「国際観光局の10年」公益財団法人日本交通公社『観光文化』第239号、2018年所収論文、30頁より) 上記で触れられている『対外宣伝』の一環として、英語を中心とした欧米各国語で様々なガイドブックやパンフレットが作成されており、本書もそうした出版物の一つにあたります。国際観光局が創立10年を迎えた1940年に発行した『観光事業十年の回顧』では、本書の姉妹編である「夏編」と「冬編」について短いながらも言及しており、そこでは次のように述べられています。 「宣伝印刷物の予算が逐年増して行くにつれて色々の特種の案内記類を刊行することが出来た。例えば日本の古美術を紹介宣伝するもの、ホテルや交通施設のことを書いたもの、年中行事、神社参拝の手引、土産品を夫々紹介するものなどである。中でも「日本の魅力」は英文で書かれた読みもの風のものであり、「青少年向日本案内」は主として米国、カナダのハイスクールの生徒が地理の勉強の参考になるようにとの趣旨から編纂したもので非常に好評を博した。又「夏の日本」、「冬の日本」はいづれも東洋に在留する欧米人を避暑、避寒に招くのを主な目的として編纂したものである。宣伝に映画を利用したことは後で述べるが、映画「3週間の旅」と併行して用いるために英文で同じ題名の小冊子も出している。」 (鐵道省國際観光局編『観光事業十年の回顧』国際観光局、1940年刊、105頁より) 上記にある「冬の日本」がまさに本書のことと思われ、四季折々の日本の魅力を季節ごとにアピールしたユニークな英文観光案内の「冬編」として、本書は刊行されたものと考えられます。本書では、スキーやスケート、雪国の温泉やホテル、比較的温暖な伊豆半島の川奈ホテルの前に広がるゴルフ場など、冬ならではの日本での楽しみ方が、当時よく見られた折り畳んでポケットに入れることができる大きさで、「K. Miya」(店主には人名を特定できず)とサインのある魅力的なイラスト表紙によって、印刷物自体としても魅力的な仕上がりとなっています。 寒さが厳しく旅行者が減少する傾向にある冬季における外国からの観光客誘致は、戦前の観光業界にとってかねてからの課題で、すでに第一次世界大戦末期から、ジャパン・ツーリスト・ビューローが、冬季スポーツであるスキーの国内での促進を図るための講演会などを実施しています。1918年に開催された「スキー講演会」において、ジャパン・ツーリスト・ビューローの幹事であった生野団六は、次のように講演したと伝えられています。 「(前略)これまで、外人遊覧客は日本と言えば花の国といってもその漫遊も春から秋へかけてに限るもののように考え、冬季の来遊客は極めて少なかった。例えば咋大正6年中、我が国へ来た外人総数は2万8千名であるが、その中、春すなわち4月から6月までに来遊したものが8,500人、冬すなわち1月2月ならびに12月に於いて来朝したものが僅かに3千人であった。これ冬季に於ては我が国には外人のアトラクションとなる可き何物も持たなかった結果に他ならぬのである。そこでこのスキーによって今後大に『冬の日本』を海外に紹介し、東洋在住の外人は申すまでもなく、戦後に於いては米国、ヨーロッパ方面からも多数の外人を誘致し、将来もしできるならば国際スキー大会を我が国で催すというまでに広く紹介普及せしめたいというのが私どもの希望である。(後略)」 (山中忠雄編『回顧録』ジャパン・ツーリスト・ビューロー、1937年、205頁より*一部漢字等引用者が変更) こうした冬季観光客誘致の試みがなされるようになってから概ね10年ほどが経過した時期に刊行されたと思われる「冬の日本」は、夏や秋といった他編とは異なる重みがあった1冊ではないかと思われます。 「経済的困窮の打開策、国際親善の有力手段の一方策として外客誘致の重要性が認識されつつある中、1929(昭和4)年には貴衆両院から外客誘致に関する調査・実行を図る中央機関を設置すべしという建議書が提出され、1930(昭和5)年に「外客誘致に関する施設の統一連絡及促進を図る官設の中央機関」として鉄道省国際観光局が設立されました。主な業務内容は以下の通りです。 1.外客誘致事業の指導及補助に関する事項 2.国際観光委員会に関する事項 3.観光事業の調査統計に関する事項 4.海外観光宣伝に関する事項 5.観光地の他観光施設の充実改善に関する事項 6.ホテル事業の助長並びにその施設の改善に関する事項 7.案内業者その他直接外国人旅客に接するものの指導に関する事項 これらの事業は、鉄道大臣の諮問機関で観光事業の最高合議機関である「国際観光委員会」、国内外の旅行斡旋をおこなう「日本旅行協会(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)」、外客誘致のための海外宣伝に関する事業を行う「国際観光協会」(1929年に設立された対米共同広告委員会を継承)との役割分担の元に進められました。 こうした中央の動きに触発され、地方自治体でも観光機関が発足、その有志の集まりによる「日本観光地連合会」も1930(昭和5)年に設立されたほか、日本ホテル協会(明治42年~)や日本観光通訳協会(昭和14年~)とも連携しながら国内の観光受入態勢が整備されていきました。 一方、当初の予算と人員は潤沢ではなく、思い通りの事業を実施するには困難を極めました。さらに世界恐慌、満州事変、上海事変、国際連盟脱退による為替相場の下落などの影響もあり、観光を取り巻く環境は不安定な状況が続き、太平洋戦争に突入。1942(昭和17)年には国際観光局も廃止されました。」 (日本交通公社 旅の図書館HP「日本における観光行政のあゆみ〜国際観光局の12年〜」(2019年1〜3月古書店時企画解説)より」