書籍目録

『教会史:偉大な世界に遍く広がるカソリック教会 第一部 東インド、ムガール、日本、中国、韃靼ほか』

ハザート

『教会史:偉大な世界に遍く広がるカソリック教会 第一部 東インド、ムガール、日本、中国、韃靼ほか』

独訳改訂第3版 1727年 ヴィーン、ミュンヘン刊

Hazart, Cornelius.

Kirchen Geschichte, Das ist: Catholisches Christenthum, Durch Die gantze Welt ausgebreitet,...Der Erste Theil. Ost-Indien in gemen und insonderheit; Mogor, Japon, China, Tartaria, und Bisnagar.

Wien / München, Buggel und Seit, 1727. <AB2017100>

Sold

3rd enlarged edition in German.

4to, Front, Title, 5 leaves (including full page engraved portrait off Xavier), pp.1-113, paginated leaves: 114-153[i.e.152], 153-156, pp. 157-186[i.e.176], 177-265[i.e.295], 296-613[i.e.913], 914-946, 11 leaves (Register), Contemporary vellum

Information

17世紀末から18世紀にかけてのドイツ語圏における日本像に大きな影響 原著オランダ語版にない記述と銅版画を多数収録

 本書は、ベルギーのイエズス会神父であるハザート(Cornelius Hazart, 1617 - 1690)が、1667年から1671年にかけて全4巻からなる大部の著作として、オランダ語で出版した『カソリック教会史(Kerckelycke historie van de gheheele wereit. Anvers, 1667 - 1671)』の第1巻のドイツ語訳第3版です。『カソリック教会史』は、ヨーロッパを含む全世界に広がるカソリック教会の歴史をイエズス会の資料やその他の文献、一次資料などを駆使して纏め上げた力作です。中でも、世界各地に宣教師を派遣して行なっていた布教活動についての記述に力を入れており、第1巻では、日本を含めた東インド地域が扱われています。布教先の各地域の地理的、政治的、宗教的情報を詳細に記述したテキストと、印象的な場面を描いだ多くの銅版画とによってこの著作はヨーロッパで非常に好評を博しました。

 ハザートの『教会史』は、原語であるオランダ語で版を重ねただけでなく、ドイツ語にも翻訳されましたが、本書は、ドイツ語第3版にあたるもので、1727年にウィーンとミュンヘンとで刊行されています。特筆すべきは、本書はオランダ語原著を単純にドイツ語訳しただけではなく、原著のオランダ語版にはない記述と新たに製作された銅版画を採用し、ドイツ語改訂版にしか見られない情報をふんだんに含んでいることです。

 テキストの構成はオランダ語版に準じており、最初にゴアやマラッカを中心とした「東インド」についての章があり、続いて現在のインド北部地域周辺に当たるムガル帝国の章、そして229ページから531ページまでと、非常に多くの紙幅を費やして日本におけるキリスト教の歴史を論じる章があります。その後は、中国、韃靼と続き、第1巻だけで1000ページあまりになる本書を構成しています。

 日本について論じた章では、地理的概観についての説明、政治状況、人々の道徳観、様々な信仰形態といった、日本全体についての概説が冒頭に置かれているのに続いて、ザビエルによる日本宣教活動が詳細に記述されています。それから、ザビエルによる宣教成果を受けて日本で急速に広まっていくキリスト教信仰の様子を所領毎に描いており、大村藩(Omura)における寺社仏閣の大規模な破壊を伴う劇的な信仰の広がりや、大友宗麟(洗礼名フランシスコFrancisci)支配下の豊後での布教、高山右近(ジュスト右近殿、Justi Ucondoni)や細川ガラシャ(丹後王妃、Königin von Tango)らをはじめとした畿内でのキリスト教信仰の広がりを論じています。急成長していく日本におけるキリスト教信仰の一つの象徴的出来事として、「天正遣欧使節」は特に詳細に論じられており、使節と教皇グレゴリウス13世との謁見の場面を描いた銅版画や、使節と教皇等が交わした親書を掲載するなどして、この使節がいかに重要であったかを報告します。

 続いて、戦乱状況にある日本の支配権を次第に握りゆく織田信長(Nobunanga)とイエズス会の交流、信長の覇権と謀略による死、豊臣秀吉(太閤様、Taycosama)へと覇権が移っていく、激動の日本の様子を論じます。秀吉政権下におけるキリスト教政策のめまぐるしい変遷とイエズス会東インド巡察師ヴァリニャーノとの交渉を描きながら、次第にキリスト教迫害と殉教者事件が相次いでいく様子が記述されています。その一方で、イエズス会に遅れて日本での布教活動を開始したフランシスコ会の活動の様子や、奥州の王とされる伊達政宗(Idate Mazamune, König von Voxu)による慶長遣欧使節についても遺漏なく触れられており、日本におけるキリスト教布教活動の広がりと、次第に高まりゆく弾圧の影とが合わせて論じられています。しかし、記述は次第に強められていくキリスト教弾圧に関するものが多くなっていき、秀吉から徳川家康(内府様、Dayfusama)へと時代がうつり、日本におけるキリスト教社会を取り巻く状況がますます厳しくなっていく様子が描かれており、特に伏見(Fuximi)大坂(Ozaca)、京都(都、Meaco)や長崎(Nangazaqui)の様子が詳細に記述されています。

 422ページから始める第6節以降は、相次いで勃発していく殉教者とキリスト教弾圧の様子が全体の概況だけでなく、個別の殉教事件と共に詳細に論じられています。ここで描かれた多くの殉教事件は、同時代のドイツ語圏に非常に強い印象を与えたようで、日本の殉教者をモチーフにした多くの劇作品が作られ上演されたと言われています。(新山カリツキ富美子「ヨーロッパにおける日本殉教者劇−細川ガラシャについてのウィーン・イエズス会ドラマ−」国際日本文化研究センター編『世界の日本研究』2017年号所収)

 ハザートが依拠した資料の多くはイエズス会士による報告書や書簡集、教会史、伝記の類であったと思われますが、オランダ語圏の著者らしく、オランダ東インド会社に長年勤務し、日本におけるオランダ商館の地位を確固たるものとしたカロン(François Caron, 1600 - 1673)や、ヨーロッパにおける日本を網羅的に扱った最初の「日本誌」とされる『東インド会社遣日使節紀行(Gedenkwaerdige Gesantschappen der oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan, 1669)』を著したモンタヌス(Arnoldus Motanus, 1625 - 1683)なども参照しています。

 本書は、17世紀末から18世紀にかけてのドイツ語圏における日本像の形成に大きな影響を与えた書物と言える大変重要な文献ですが、国内の研究機関の所蔵はオランダ語版のみとなっているようで、オランダ語版にない記述と図版を加えた独自のドイツ語改訂版である本書は、研究上の資料的価値が大変高いものと言えるでしょう。

 「1678 年、イエズス会司祭コルネリウス・ハザルトが、イエズス会のラテン語報告書をもとにドイツ語で著した(正確には「翻訳した」:引用者註)『教会史 全世界に広まるカトリック教会の歴史』の第1巻第3部「日本教会史」は日本の宣教と殉教を紹介している。これに 基づいてドイツ語圏の多くの作品が作られた。
 ハプスブルク家の保護下にあるウィーンのイエズス会では、日本の殉教者を扱 った劇は、ヨーロッパ各地で150 以上の作品が作られ、500回以上の上演記録が、トーマス・インモース教授の研究をもとにした、私の現在までの調査研究によって確認されている。また書物としても出版されて、ハプスブルク帝国の人々に驚嘆させた。」
( 新山カリツキ富美子による前掲論文284〜285頁)

口絵
タイトルページ
ザビエルの肖像画
日本について論じる日本について論じる章冒頭
日本人男性像
ザビエルと大友宗麟
大村純忠の改宗後に行われた寺社仏閣の破壊の様子
「丹後王妃(Königin von Tango)として描かれる細川ガラシャ
高山右近
天正遣欧使節のスペイン王フェリペ2世との謁見の様子。
天正遣欧使節の教皇グレゴリオ13世との謁見の様子
信長の死について報じる箇所
秀吉(太閤様)による覇権獲得について報じる箇所
慶長遣欧使節を派遣した伊達政宗の書状。慶長遣欧使節はスペインのカソリック修道会であるフランシスコ会のソテロ(Luis Sotelo, 1574 - 1624)の企画によるため、メキシコを経由してローマへと向かった。
秀吉(太閤様)と家康(内府様)によるキリスト教迫害
雲仙地獄における殉教
日本続く中国を扱う章冒頭。
明朝末期から清朝初期の中国宣教で目覚しい成果を上げ、天文学書の漢訳でも多大な功績のあったアダム・シャール(Johann Adam Schall von Bell, 1592 - 1666)の肖像
四つ折り版で、長辺30センチを越えるかなり大きな書物。装丁は当時のものと思われるもので状態は良好。