書籍目録

「1880年代前後刊行 英国水路部作成日本近海図5点コレクション」

英国水路部

「1880年代前後刊行 英国水路部作成日本近海図5点コレクション」

(各海図の書誌詳細は解説参照) 1872年〜1889年 ロンドン刊

HYDROGRAPHIC OFFICE

The Collection of 5 Admiralty charts published in 1880th.

London, (Published at the Admiralty) & (Sold by) J.D.Potter (Agent for the sale of the Admiralty Charts.), 1872 - 1889. <AB201795>

Sold

Large corrected edition.

5 rolling sheet charts,

Information

日英間における日本近海海図作成の交流史を物語る貴重資料群

 このコレクションは、幕末明治初期における日本の海図作成と極めて密接な関係にあった、英国水路部が作成、刊行していた日本近海の海図5点がまとめられたものです。それぞれの海図の刊行年は、1872年から1889年の間にあり、概ね1880年代刊行海図が中心ですが、その起源は幕末の1868年に遡るもので、幕末から明治初期にかけて、継続して日本近海の測量を行うと同時に、日本独力での海図作成のための技術移転において、最大の役割を果たした英国水路部が、当時刊行していた海図として極めて重要な海図コレクションです。

 日本における近代的な海図作成の歴史は、幕末の1855(安政2)年に長崎に設けられた海軍伝習所、ならびに、そこで教育を受けた人材を教官として1857(安政4)年に江戸に設けられた軍艦操練所に概ねその起源が求められます。当時極めて密接な関係にあったオランダの協力を得て19世紀以降に欧米で急速に発展した航海術と測量技術についての講習が行われると同時に、実際の測量実習と海図作成も行われています。

 江戸幕府そのものが消滅することにより、残念ながらオランダ経由での近代測量技術と海図作成術については、一旦その継承が途絶えてしまいますが、明治政府も1871年に兵部省内に海軍部を設立すると同時に、水路業務の重要性を認識するようになります。当時は日本自前の海図がなかったことから、条約を締結した欧米各国が日本近海の測量を精力的に行っており、貿易、軍事上必須となる日本近海の海図を出版していましたが、中でもイギリスは当時最強の海軍力を有していたこともあり、最も広範囲にわたって測量と海図作成を行っていました。

 明治政府は、この世界最強の海軍にして最高の航海・測量・海図作成技術を有するイギリスの協力を積極的に得ることで、自前の海図作成の整備を急いで進めることを図っていきます。このコレクションに含まれる5枚の海図はいずれも、こうしたイギリスと極めて密接な関係を有していた時期に測量、刊行が行われた海図です。収録されている海図5点は下記の通りです。


「1868年のブルーカー中佐のシルヴィア号調査に基づく平戸瀬戸(スペックス海峡)から下関海峡まで」1870年初版 1889年改訂
HIRADO-NO-SETO (SPEX STRAIT) TO SIMONOSEKI STRAIT SURVEYED BY COMMANDER E.W.BROOKER, R.N....H.M.S. SYLVIA 1868...
(JAPAN NORTH WEST COAST OF KIUSIU)
London. Published at the Admiralty. 2nd. June 1870...Large corrections Jan. 1889.
Sold by J.D.Potter Agent for the sale of the Admiralty Charts...
(68.7 cm x 102.8cm)


「1869年のブルーカー中佐のシルヴィア号調査に基づく三島灘と備後灘間の水路」1872年初版 (改訂表記なし)
CHANNELS BETWEEN MISIMA NADA AND BINGO NADA Surveyed by COMMANDER E.W.BROOKER, H.M.S. SYLVIA, 1869...
(JAPAN - INLAND SEA)
London. Published at the Admiralty 11th March 1872...
Sold by J.D.Potter, Agent for the sale of the Admiralty Charts...
(74.0 cm x 101.6 cm)(*折り込み部分も開いた際の最大の大きさ)


「1870年のセント・ジョン中佐のシルヴィア号調査に基づく備後灘と播磨灘間の水路(いわゆる塩飽諸島近海図)」1872年初版 1876年改訂
CHANNELS BETWEEN BINGO NADA AND HARIMA NADA Mutsu Sima to Odutsi SURVEYED by COMMANDER H.C.ST.JOHN, R.N....H.M.S. SYLVIA 1870....
(JAPAN - INLAND SEA)
London, Published at the Admiralty 26th.Aug 1872...Large Corrections, Oct. 1876.
Sold by J.D.Potter, Agent for the sale of the Admiralty Charts...
(69.0 cm x 156.0 cm)


「1872年から75年にかけてのセント・ジョン大佐と海軍士官のシルヴィア号調査、ならびに1885年までの日本政府調査による追記に基づく下関海峡」1878年初版 1887年改訂
SIMONOSEKI STRAIT SURVEYED BY CAPTAIN H.C.ST JOHN AND THE OFFICERS OF H.M.S "SYLVIA" 1872-5. with additions from Japanese Government Surveys to 1885.
(JAPAN WESTERN ENTRANCE TO THE INLAND SEA)
London. Published at the Admiralty, 20th. March 1878...Large corrections Sept. 1887.
Sold by J.D.Potter, Agent for the sale of the Admiralty Charts...
(66 cm x 101.5 cm)


「1881年のホスキン大尉と海軍士官のフライングフィッシュ号調査に基づく函館湾」1883年初版 1885年改訂
HAKODATE HARBOUR Surveyed by Lieutenant R.F.Hoskyn, and the Officers of H.M.S. Flying Fish. 1881[.] The Western portion of the Bay, from a Survey by Lieutenant W. L. Maury, of hte United States Navy, in 1854.
(JAPAN ISLANDS YEZO I.)
London. Published at the Admiralty, 5th. May, 1883...Large corrections Feb. 1885.
Sold by J.D.Potter, Agent for the sale of the Admiralty Charts...
(50.0 cm x 68.5 cm)

①から④までの測量にあたった英国海軍シルヴィア号については、海上保安庁水路部が1971年に水路業務100年を記念して刊行した『日本水路誌 1871〜1971 HYDROGRAPHY IN JAPAN』には次のような記述があります。

「シルビア号(Sylvia)は1866年ウールリッチ(Woolwich)で建造された、150馬力750他の木造砲艦で、測量作業には最適のものであった。これの艦長としてブルーカー(Brooker)が指揮をとり、東洋に向かい(中略)1868年(慶應4)年の2月に長崎に到着した。(中略)1868年はまた明治元年でもあった。それ以来明治14年(1881)まで実に13年間にわたるシルビア号の本格的測量となった(後略)」(11頁)

「なお、(1869年:引用者注)12月にはセントジョン(St. John)がシルヴィア号の艦長に着任した。彼が以来明治9年まで日本の海域測量に従事した功績は大きく、また翌3年(1870)の黒潮観測の傍ら、避難港として的矢および尾鷲の測量以来、日本の水路業務に協力した事実も大きいものであった。」(12頁)

①と②は、ブルーカーが1868年から1869年にかけて、長崎から瀬戸内海にかけての地域を三角測量から始める本格的調査によって行なった測量成果によって作成された海図で、①は長崎県北西部の平戸島と九州本島との間の海峡を中心に描いています。この海峡は現在も海難所と知られる場所ですが、初代オランダ商館長の名をとってスペックス海峡とも呼ばれています。また、②は、現在のしまなみ海道が通る大三島を中心とした群島と愛媛県今治市との間の海域を描いています。この二つの海図は、イギリスが単独で行なった測量成果に基づくもので、①は1870年に初版が刊行されており、本図は1889年の改訂版、②は1872年に出版されており、本図には特に改訂年が記されていません。

③と④は、ブルーカーの後任としてシルヴィア号の艦長となったセントジョンによる測量成果に基づくものですが、いずれの測量にも日本が参加、協力(実習)している点が、①と②と異なります。1870年から、明治政府は日本の艦船をシルヴィア号に同行させ、本格的な測量術の習得を開始させます。当初は「事実上イギリス式測量の実習の域を出ないもの」(前掲書14頁)でしたが、1870年夏からの瀬戸内海測量において、「塩飽諸島、すなわち今日の備讃瀬戸の大部分に渡る測量に際しては、日英の合併測量にもかかわらず、柳(楢悦、ならよし:引用者注)御用掛以下の努力が実り、ついに翌明治4年1月に、「塩飽諸島実測図」を独自の手で完成した。そこで一応の照合をセントジョンに求めたところ、シルビア号による測量成果とほとんど一致する成果となっており、柳らの進化が十分に発揮されたものとなっていた。セントジョンは政府に対する報告書に添えて「もはや他の助力を要せずして水路業務を実施することができる」と記したので、柳以下測員は大いに面目をほどこした。」(同上)。
 ③は、まさにここで言われている日本が独力で作成した「塩飽諸島実測図」との照合に用いられた、セントジョンの海図で、日本独自の海図作成能力を身につける端緒となった記念すべき重要な英国水路部の海図です。「塩飽諸島実測図」は、度重なる火災により原図が失われてしまったために現存していないことからも、照合に用いられた英国水路部の海図は重要な資料と言えましょう。
 また、④は、言うまでもなく最重要の海難所である関門海峡を描いたもので、1872年から1875年にかけて入念に調査がシルヴィア号によって行われています。この図がユニークなのは、シルヴィア号の調査の10年後に水路測量に関する技術を蓄積しつつあった日本による、最初の本格的な全国測量計画である「全国海岸測量12カ年計画」に基づいて、肝付兼行少佐らが1885年に実施した測量成果を盛り込んで、改訂を加えている点です。「同海峡については、1881年版の英国海図があるが、重要な航路でもあり、また潮流現象もすこぶる複雑であるため改訂の変貌が必ずあると考えての測量(4月〜6月)であった。」(前掲書40頁)とあることから、肝付らによる日本の調査が英国水路部の海図に影響をもたらしたという点で、①から③とは逆の流れの情報移転を見ることができる興味深い海図です。

 最後の⑤は、1880年に帰国したシルヴィア号に代わって日本に来航したフライングフィッシュ号のホスキンによる函館測量に基づく海図で、1883年に日本近海の測量を終了することになるイギリス海軍による測量の最後期に分類される時期の海図です。函館湾については、幕末から開港場に指定されていたこともあって、早くも1854年にペリー艦隊らによる調査が行われており、それを再調査して情報を改訂したものが本図です。
「シルビア号に代わって、明治13年(1880)秋、日本に来航したのはホスキン中佐(R.F.Hoskin)指揮によるフライングフィシュ号(Flying fish)であった。翌14年(1881)から行動を起こし、御前埼前面の探礁、神子元島北方の探礁から、夏には津軽海峡の函館と大間埼(Toriwi Saki)を結ぶ線の東側を測量し、函館港も最測量した。(中略)イギリスのフライングフィシュおよびマグバイ号は、明治16(1883)に修理のため日本を去ったが、以来ふたたび来日することはなく、イギリスによる日本沿岸測量は一応終了したのである。一面には全国海岸測量12か年計画の成功に期待をかけていたことはもちろんである。」(前掲書36-7頁)

 これら5枚の海図は、それぞれ当時の日本とイギリスとの間で行われた近代海図作成の技術移転と情報交流を示す大変興味深い資料です。いずれの海図にも、当時の英国水路部海図の販売代理店の印章が押されていることから、あるいは用いられることなくストックのまま眠っていたものかもしれません。地図のタイトルの上部には、英国水路部の紋章が描かれており、紋章の下にはそれぞれの海図の当時の価格が記されています。大きさや形状の複雑さによって、それぞれ価格が異なっており、そうした点も興味深い書誌事項と言えましょう。

それぞれの海図の左右両端裏面にはタイトルを示す刊行当時の書き込みがある。販売代理店が管理のために記した可能性もある。
① 「1868年のブルーカー中佐のシルヴィア号調査に基づく平戸瀬戸(スペックス海峡)から下関海峡まで」1870年初版 1889年改訂。当時の価格は2.5シリング
地図左端下部に平戸島が描かれており、壱岐水道を経由して福岡、下関へと至る。68.7 cm x 102.8cm
出版事項は地図下部に記載。改訂の記録などもここに記されている。
② 「1869年のブルーカー中佐のシルヴィア号調査に基づく三島灘と備後灘間の水路」1872年初版 (改訂表記なし)当時の価格は3シリング。他のものと比べて高価なのは、その大きさと複雑な形状に由来するものと思われる。
大三島を中心とした、現在のしまなみ海道が通る海域を描く。右上部分は折り込みになっている。74.0 cm x 101.6 cm)(*折り込み部分も開いた際の最大の大きさ)
出版事項の記載と用語集。
針路上の船舶からの沿岸近辺の風景を描く対景図。向島と因島の間に見える細島を描く布刈瀬戸など難所が選択されている。
③ 「1870年のセント・ジョン中佐のシルヴィア号調査に基づく備後灘と播磨灘間の水路(いわゆる塩飽諸島近海図)」1872年初版 1876年改訂。当時の価格は3.5シリング。コレクション中最も大きいため最も高価である。出版事項は、ちょうどタイトル下部にある。
失われた明治最初の水路測量原図として有名な「塩飽諸島実測図」と対照されたシルヴィア号による測量図に基づく。現在の備讃瀬戸付近を描く。69.0 cm x 156.0 cm
④ 「1872年から75年にかけてのセント・ジョン大佐と海軍士官のシルヴィア号調査、ならびに1885年までの日本政府調査による追記に基づく下関海峡」1878年初版 1887年改訂。当時の価格は2.5シリング。
日本独自の初の本格的な全国海岸測量の一環として1885年になされた測量成果を追加している点がユニークである。66 cm x 101.5 cm
対景図は、東から針路をとった際、右手に見える火の山(本州側)と左手に見える門司丘(九州側)との間、前方(西)に見える彦島を描く。
潮流の強さや方位についての注意点をテキスト情報として掲載。
針路をとる際の細かな留意点もテキスト情報として掲載。
書誌事項。
⑤ 「1881年のホスキン大尉と海軍士官のフライングフィッシュ号調査に基づく函館湾」1883年初版 1885年改訂。当時の価格は1.5シリング。
フライングフィッシュ号による1881年の調査に基づく。イギリスによる日本近海測量の最後期に当たる成果のひとつ。50.0 cm x 68.5 cm
対景図は、庄司山を中心付近に駒ヶ岳など、函館港に入港する際に目標となる山脈を描く。その下部には書誌情報が記されている。